山田花子の『自殺直前日記』(1996年)、まだ半分ほど読んだだけだが、『八本脚の蝶』とはまた違った、それ以上の衝撃を受ける。
山田花子(1967-1992)(わたしよりも4歳年下)という人間に比べて、わたしという人間は、なんとまあ平凡でつまらない存在であることか。
誰かに影響を与えるような何ものも持っていない。自分を「キチガイ」などと僭称していたことが恥ずかしくて仕方ない。わたしはキチガイでもなんでもない。要は吊るしの背広のような、チープで、よくもわるくも個性も独自性も何もない既製品に過ぎない。
「彼女」に比べれば、読む本(漫画)も平凡、聴く音楽、好きな映画、好む絵・・・何もかもすべてがありきたりでつきなみで、人並みで。(能力だけは人並み以下で)
彼女の本の中に「好きな作家・作品・映画・音楽 etc...」というページがあるが、
(彼女は漫画家なのでこの場合の「作家」というのは主に「漫画家」)
正直知らない名前が圧倒的に多い。
更に言えば、彼女の敬愛するそれらの人たちの中には、どうしても合わない、或いは名前を知ってはいるが、まったく聴く(観る)気になれないという人たちが多い。
例を挙げれば、「筋肉少女帯」「たま」「戸川純」「電気グルーブ」「日野日出志」(もっとも苦手な漫画家)、映画では、ジョン・ウォーターズ&デヴァインなども絶対にダメ。寺山修司も映画演劇は受けつけない。
でも「吊るしの背広」であるならば、なぜこうも「一般社会」と対立する?
一番妥当に思われる答えは「馬鹿だから」「単純な無能者だから」
高校時代にちょっと流行った歌で、当時からその歌詞が強く印象に残っている歌がある。
軽蔑してるはずが ちょぴりあこがれてる
授業に出ないあの子 コスモス色のルージュ
不良少女になる 素質もない私は
平凡な女の子 その他大勢なの
ー追記ー
わたしが一時期毎日読んでいて、半年ほどしてぷっつりと購読をやめた『孤独な場所で、
最後の扉を閉めて』というブログに対する気持ちも、全く同じではないにせよ、山田花子に対して感じているような「劣等感」からだったかもしれない。
現にブログでへらへらと小ばかにされたのは彼だけだった。
Takeoさん、こんにちは。
返信削除最近の記事は、内容が深く、なかなか考えがまとまらずコメントが書けませんでした。
この記事については、ぼくには、はっきりとした異論がありますので、割とすんなりと考えがまとまると思います。
まず、ぼくの考えでは、「個性」も「才能」も、すべての人に「同じ量」だけ、「ちがう色」をもって与えられているものだと思っています。
だから、どんなに奇抜な「個性」に見えるものも、どんなに卓越した「才能」に見えるものでも、「量」は同じだと思っています。
ただ単に、すべての「個性や才能」の「色」が違うということだと思っているわけです。
そして、さらに「色」において「上下の差」はないと思っています。
(これは絵を描いてみるとよくわかることですが、暗い中に明るい色を置けば「輝いた色」に見えますが、すべてを「輝いた色」で覆いつくしてしまうと、それは単なる「普通の色」に成ってしまうものです)
だから、いかなる「個性」も、いかなる「才能」も、まったく同じ大きさであり、同じなハズなんですが、それでもやはり、どうしても「才能がある人」と「才能がない人」に分けられてしまいますし、「個性的な人」と「没個性的な人」と言う格差がつけられてしまいます。
どうしても、そうなってしまうので、ぼくは、もうこの「個性」と「才能」という言葉自体を使わないようにした方がいいんじゃないか?と思っているくらいです。
これは、ぼくの中では、かなり結論に近いこととして言い切れることだと思っています。
ぼくは、世の中に、「絶対」と言えるようなものは存在しないと思いますが、それでも、人間が言葉を使ってコミュニケーションをとる範囲内においては、「言い切れること」があると思っています。
「言い切ること」は、「自己矛盾」を含んだものを否定するときに限って許されることだと思っています。
「個性」や「才能」という言葉と、「それが全ての者に等量に与えられていないこと」の間には、自己矛盾があります。
従って、これを否定するにあたっては、「言い切ること」が許されるように思うわけです。
「個性や才能」において、「量的な差」を認めるということは、最終的に「最も良い個性」や「最も素晴らしい才能」に行きつくしかなくなります。
しかしながら、その「最も良い個性」や「最も素晴らしい才能」こそが、実のところ、この世に存在する唯一の「没個性」であり、「美しくない才能」なのです。
と言うようなことで、ぼくは、「個性や才能」において、「量的な差」を認めるということには、自己矛盾が発生してしまうと思っているわけです。
たとえば、もし万が一、Takeoさんが「吊るしの背広」であったとしても、実のところ「吊るしの背広」にも「同じ量」の「個性や才能」が与えられています。
単純に言って、「吊るしの背広」に「価値」を感じる人が居るからこそ、それは、もっとも大量に売れるし、もっとも愛用されてすらいるわけで、工業的に反復的に生産されてしまったことは「吊るしの背広」にとっては不幸なことかもしれませんが、「個性や才能」の「量」が同じであるという事実はそこでも変わらないわけですから、それを低く見るということは、ぼくの中では、有り得ません。
まして、Takeoさんが人から嫌われることが多いとすれば、その理由は、ほとんどの場合、「吊るしの背広」には当てはまらないと思いますね。
なぜなら、大量に生産されるものは、必ず広く普及していますし、「大量に生産される人間」は、大量に居る訳ですから、お互いに、お互いのことを理解しやすくて「安心できる仲間」としてみなしているわけで、まず、社会の中で、「大多数」から嫌われるということはないのです。
なぜなら、その「大多数」こそが「大量に生産された人間」であるからにほかなりません。
これも、事実ですから、変えようがないことだと思います。
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さて、以下は、前の記事に遡ったコメントに成りますが、まとまりのない話になるかもしれません。
まず、「孤独と孤立」は、ぼくにとっても「最も恐ろしいモノ」ですが、「孤独と孤立」について、ぼくは、今回Takeoさんの記事とほかの方たちのコメントを拝見して、自分が「孤独と孤立」などについて「数の関係」で考えているということに気が付きました。
たとえば、「一人でいること」は、一種の「孤独」ではありますが、「恐ろしいモノ」ではありません。
(これは、瀬里香さんの言われるところの「孤独」だと思います)
むしろ、どちらかと言えば、「安心な状態」だと思います。
やはり、それが「恐ろしいモノ」に成るのは、「群衆の中の孤独」ということに成ると思います。
たとえば、「無人島の孤独」には、それなりの数の人が、ある程度までは耐えられるような気もしますが、それに対して、「群衆の中の孤独」に耐えられる人は、ほとんどいないんじゃないか?と思ってしまいますね。
でも、これを「数」に置き換えて考えると「単数」であることよりも、「複数」であることの方が「より孤独」であるというおかしなことに成ります。
と、ここで思考が止まってしまうので、コメントが書けませんでした。
いまも、そのままなので、これで話はおしまいです。
どうも、すいません。
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次に、「死ぬこと」についてです。
ぼくの、スタンスとしては、「死」は「死んだ後から肯定されるもの」と言う考え方です。
それが、誰の「死」であっても同じですし、いかなる「死」であっても、同じです。
もちろん、「自殺」であっても、「死んだ後」は「肯定」されていいように思います。
それは、「死ぬ前の段階」において、『死にたいならしねば?』と言うのとは違うことだと思っています。
ぼくの場合は、やはり、いくら『死にたい』と言っている人が居ても『じゃ、死ねば』とは言いませんし、その人の「死」を手伝おうとは思いません。
また、これは、あくまで、ぼくの中での勝手な解釈ですが、「終末期医療」における「安楽死」は、「死の手伝い」ではなく、「苦痛の軽減」だと思っています。
切り詰めて行ってしまえば、「肉体的な苦痛の軽減」です。
要するに、ぼくは、「肉体的な苦痛」は「無い方がいいモノ」だと思っていて、「精神的な苦悩」は「有ってもいいモノ」のように感じているんだと思います。
もちろん、「精神的な苦悩」が「肉体的な苦痛」よりも軽いということではありません。
しかし、どうしてなのかははっきりしませんが、「肉体的な苦痛」に関しては『無くせるモノなら無くしてしまえばいいじゃないか』と思えるんですが、「精神的な苦悩」に関しては、『そんなもの無くしてしまえばいいじゃないか』とは思えません。
つまり、同じ「苦しむために生きている状態」であっても、それが「肉体的な苦痛」の場合は、切り捨てられるのに、「精神的な苦悩」だと切り捨てられないんですね。
理由はわかりません。
また、これとは別の話になりますが、ぼくは、「死」と「生」を連続として捉えています。
(この数年の間に、そう考えるように成ったような気がします)
と言うよりも、ほとんどすべてのことを「連続」と考えています。
まぁ、「すべて」と言うのは「空間」と「時間」と言うことかも知れません。
たとえば、今自分がいる「この空間」は、「宇宙の果て」のような「空間」とも、「空間」としてつながっています。
ただ、それが遠すぎて確認できないというだけで、「連続」であるということには変わりありません(たぶん)。
「時間」も同じで、「現在」の中に、常に「過去」や「未来」は同居していると思っています。
「遠い空間」が、確認できないのと同じで、「過去」や「未来」を「現在」からは確認できないということはあっても、それが、「連続」していて、「つながり」の中に同居しているようにしか、ぼくには思えません。
こういうことと同じように、「生」と「死」も連続しているような気がするわけですね。
たとえば、「生」と「死」を分けているのは、「心臓の鼓動」かも知れませんし、「脳の活動」かも知れませんが、いずれにしても、何らかの「運動」だと思います。
しかし、人が死んだ後、「その人の生」は失われるでしょうが、「物質の運動」まで完全に停止することはありません(たぶん)。
ミクロの単位の中では、何かが動いているんだと思います。
それは、もう「その人の生」ではないのかもしれませんが、「生気(エネルギー)」が完全に失われるということはないような気がします。
こういったことから、ぼくは、「生」と「死」を「連続」として」と捉えているわけです。
残念ながら、それだけです。
たぶん、誰の役にも立ちません(たぶん)。
ここが、ぼくの限度ということですね(たぶん)。
なんとも尻切れトンボですが、それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除最近の投稿、特にふたつさんが言及された「孤独」とか「死ぬこと」或いは「才能」ということに関しては、書き手であるわたし自身、なんの確信もないまま、感じたままを書いているので、特に異論めいたものはありません。
ただ、ふたつさんの考えにほぼ共感しつつも、また、頭ではその通りであると思いながらも、やはり「死」による(孤独の状態を含む)精神的苦痛からの解放について思いを馳せずにはおれないのです。
◇
「才能」「個性」については、他のコメントと違って、今のわたしの頭では理解できないところが多かったと白状しておきます。このことについては、また違った形で触れると思いますので、よかったらまた感想を聞かせてください。
今回のような形のコメントでまるで構わないのです。何も無理やり纏める必要はありません。感じたことを断片形式で書いてくれても一向差し支えないのです。
コメント欄は、コメントを書く人の領域です。
きちんとしたお返事ができずに申し訳ありません。
これを読んで、他の人がなにか反応してくれたらいいですね。
いろいろな意見を聞かせていただき、ありがとうございました。
こんばんは。
削除わたしは自分のテーマ・ソングを3曲挙げました。そのうち2曲はポール・サイモン(サイモン&ガーファンクル)の歌です。
サイモン&ガーファンクルを知らない人はまずいません。ところが、「たま」「筋肉少女帯」というバンドを知っている人はそれほど多くはないでしょう。
とすれば、ビートルズやサイモン&ガーファンクル、カーペンターズは、いわば「吊るしの背広」で、「たま」はオーダー・メードということになるのかな?
ご存じのように、なんでも少数派の方がいい、少数派でありたいと思っているわたしは、「ビートルズやカーペンターズよりも、たまや筋肉少女帯の方が「上」「上等」なのだろうか?」なんて思っています。でもいかにマイノリティーでありたいと思っているわたしでも、この両者のどちらかを選べと言われたら、迷うことなく前者=多数派を選びます。
つまりわたしの感性は、(すべてではないにせよ)所詮は多数派なんです。
ビートルズやカーペンターズが好きなことを恥ずかしいとは思いませんが、マイナーなミュージシャンの良さがわかる人の感性を羨ましいとも思います。
たとえばふたつさんもその一人です。わたしには戦前のブルースを味わうだけの独特のセンスは持っていません。戦前のブルースの価値云々ではなく、ほとんどの人が目を向けないであろうものに、眼差しを向けること、これがセンスであり趣味の良さではないかと思います。
白状しますが、実はわたしは何もかも平々凡々な退屈な人間なのです。でもそう思われるのが厭で、「あれが嫌いこれが嫌い」と「高踏ぶっているだけの下らない人間なのです。
あれも嫌いこれも嫌いと、切って捨てることは容易です。
でも何かを好きになるというのは、感受性やセンスがなければできないことです。
自分の内面に「それ」に反応する共鳴板がなければ、何を聴いても何を観ても、それは当然「心」には届きません。
わたしはいわゆる豊かな感受性を持っていません。ただむやみに神経質なだけ。
◇
>「個性」や「才能」という言葉と、「それが全ての者に等量に与えられていないこと」の間には、自己矛盾があります。
従って、これを否定するにあたっては、「言い切ること」が許されるように思うわけです。
わたしはそうは思わないのです。「等量」・「同質」のものを、そもそも「個(別)性」とは呼べないし、「人と違う」その差異が「才能」なのだと思います。
>「個性や才能」において、「量的な差」を認めるということは、最終的に「最も良い個性」や「最も素晴らしい才能」に行きつくしかなくなります。
「才能」「個性」とは「質的な差異」に他ならないと思います。この場合、量的な差は、質の差に吸収されるます。
「ビートルズ」と「筋肉少女帯」のどちらがより才能があるかということは、誰も決めることはできません。それらの作品は、すべて観賞するもの(聴き手)の主観に委ねられているからです。
>単純に言って、「吊るしの背広」に「価値」を感じる人が居るからこそ、それは、もっとも大量に売れるし、もっとも愛用されてすらいる
例えば外国人労働者やニートのバイト応募者に「価値」を見出している経営者は多いでしょう。つまり安くこき使えるという、雇用側から見た「うまみ」です。
既製服の価値とは、つまり安くて無難ということだと思います。
主人にとって、召使いは非常に価値のある存在です。いないと困りますから。
わたしは今回のコメントで、ふたつさんが使っている「吊るしの背広の価値」という言葉を、そのような文脈の中で読み取りました。
反論はもちろん歓迎します。
いろいろと生意気なことを書いてしまってごめんなさい。
尚、「孤独」については、この後瀬里香さんのコメントに書くつもりですので、よかったら読んでください。
こんばんは。
削除まず、ぼくの言ったことの中で、「同じ量」で「違う色」と言うのがわかりにくい言い方だったかもしれません。
「同じ量」で「違う質」と言った方がよかったと思います。
つまり、ぼくは、「個性や才能」は「等量」・「同質」ではなく、「等量」・「異質」であると言いたかったわけです。
確かに、「等量」・「同質」であれば、それを「個性や才能」と呼ぶ意味はなくなってしまいますが、「異質」でさえあれば、「個性」でも「才能」でもあります。
しかし、さらに、そこに「量の差」があるとすると、「上等な個性」と「下等な個性」や「大きな才能」と「小さな才能」があるということに成ります。
そうなれば、結果的に「上等な個性」こそが「個性」であり、「大きな才能」だけが「才能」と呼ばれるように成るしかありません。
それが、現在における「個性や才能」の一般的な在り方です。
しかし、「個性」という言葉も「才能」という言葉も、「違い」を以て成り立っている言葉ですから、「最も上等な個性」や「最も大きい才能」と言う一方向へ向かう性質とは矛盾が生じてくると思います。
要するに、「個性や才能」に「量の差」を認めてしまうと、最終的には「ある一つの最も素晴らしい個性や才能」に近いことが、即ち「個性的であること」や「才能にあふれていること」ということにされてしまうわけです。
しかし、それだと、「個性」と言いながら、実のところ非常に画一化したものを「個性」と呼び、「才能」と言いながら、けっきょく、誰かにとって都合のいい(例えばカネに成るというような)ものを「才能」と呼ぶことに成るわけです。
こういう意味で、ぼくは「個性や才能」は「等量」・「異質」であると言いたかったわけですね。
そして、これらのことは、この記事に関してはともかく、Takeoさんが普段仰っていることとは、大きく違わないと思っています。
それから、Takeoさんは、ご自分のことを平凡とおっしゃいますが、ご自分以外で自分のことを平凡であるという人をどれほど見たことがありますか?
昔は、そういう人もけっこう居たと思いますが、今はどうですか?
ぼくは、この十年ぐらいの間で、実生活でもネット上でも、そういうことを言っている人をほとんど見ていません。
完全に『謙遜ですよ』と言う前提で言っている人ならいますが、そういう人の言葉の端端には、必ず「自慢話」がチラついているものです。
「学歴」や「経歴」や「収入」など、『そんなこと自慢するようなことでもないんですけど』と言いながら自慢しているような人こそ、自分のことを『平凡な人間ですから』と言っているものです。
ぼくは、Takeoさんが、今の生活をしていながら、自分のことを『平凡な人間である』ということは、それ相当の勇気がいることだと思います。
(覚悟と言ってもいいでしょう)
ぼくは、そういうことをこそ、「個性」と呼びますし、「才能」と呼ぶわけです。
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それから、ぼくの中では「たま」や「筋肉少女帯」は一時期バンド・ブームの頃、けっこうメジャーな売れ方をしたバンドのイメージが強いので、必ずしも、「マニアック」な感じはしません。
ぼくは、そのころ、まったく音楽に興味がなかったのに、それらの名前を知っていますから、普通に有名だったと思いますよ。
それから、「有名・無名」にかかわらず、それを「好きになれること」の価値は、やっぱり「等量」で「異質」なんじゃないでしょうか?
ぼくも「ビートルズ」などは大好きですよ。
「サイモン&ガーファンクル」はあまり聞いたことがありませんが、嫌いではないと思います。
ぼくは、「アメリカン・ブラック・ミュージック」がすごく好きなだけで、実は、ほとんどの音楽が好きな気がします。
ただ、あまり聞かないというだけです。
あとは、「吊るしの背広の価値」と言うのは、「既製品の価値」と言う意味ではなく、「高級品」と「普及品」の違いです。「高級品の価値」と「普及品の価値」も、ぼくは「等量」で「異質」であると考えます。
たとえば、ぼくは、高級な背広なんて着ていく場所もないし、着ないのでほしくもありませんが、安物でも着心地のいい服だったらいただきます。
デザインや色が気に入ればさらにいいですね。
そんなことです。
ただ、「人間」に関して言うと、「大量生産された人間」と言ったのは、要するに、「既成概念」を刷り込まれて、鋳型に入れて複写されるように作り出されてしまっている「人間」のことを言っています。
これは、その人の責任でそうなっているというよりも、「社会」によって生み出されていることだと思います。
だから、やっぱり、それも「等量」で「異質」の中の一つだと思うわけです。
あくまで、「権力」や「地位」を使って、下の者を圧殺するようなことさえしなければ、ということですけどね。
また、異論などありましたら、お願いします。
では、また。