2019年6月28日

わたしはなにを望んでいるのか…


先日の投稿「喪われ続ける風景」に、Junkoさんからコメントを頂いた。
コメント欄に埋もれさせておくには惜しいくらい、わたしの気持ち・気分が、これ以上ないというくらい的確に表現されている。そこで、本人の承諾を俟たずしてここに全文を引用させていただきます。(Junkoさん、申し訳ありません。これはあなたの気持ちを書かれたものですが、そっくりそのままわたしの想いでもあるので、ご容赦ください)



Ciao Takeoさん

私も東京で生まれ、東京で育ちました。
かつての、私が小学校の頃の東京が好きでした。
前にもコメントに書いたと思うのですが、少し前に友人の家を訪ねて、(京王線沿線でした) 私は降りる駅を1つ間違えたのですが、それに気付くまで30分以上かかりました。
そしてそれに気づいた時、ゾッとして妙な嫌悪感に襲われたものです。
なぜこうも飽きる事なく、駅には駅ビル(それもほぼどこも同じなアトレという奴) が付いていないといけないと皆が揃いも揃って、疑問を抱く事もなく思えるのか、不思議で仕方ありません。
そしてどこの駅ビルでも同じテナントで同じものを売る。
同じパン屋に同じスーパー

あそこに行かなきゃ買えない。というのが私は好きです。
だから、デパ地下も大っ嫌いです。
大体お手軽にどこの土地の旨いものも居ながらにして手に入る、それを私はあら、良いじゃない?などとは、とてもじゃあないけど思えないのです。
むしろ興ざめ、味もそっけもないと考えます。
お手軽ほど卑しいものはないと考えるのです。

今日本にいます。
今回羽田空港に着きましたが、羽田国際空港の周辺は、どこもかしこも荒れ果てた巨大な工事現場と化し、1700室のホテルを作っているという看板を見て、私は吐き気を催し思わず一人で毒づきました。

私がオリンピックを反対し、今も軽蔑と共に反対し続けるのは、これ以上東京を壊されたくなかった、という事もあり、そのために、散々反対活動をした挙句諦めました。
私ひとりの力は微少です、奇跡でも起こらない限り、私にもうできる事は何もないと。
しかしながら、オリンピックが終わった後1700室を抱える巨大なデイノザウルスのようなホテルを埋める宿泊客はどこにいるのでしょうか?
皆、長期的な、そして趣味の良い都市計画を持たないのです。
多分、自問自答さえしないのでしょう、ただ、今の数々の建築プロジェクトに酔いしれ、それで多忙を極め、巨額な金が動けばそれでいい、
勝手にしやがれ
勝手に壊れて、死んで行きやがれ 私の街 東京
そう思うしかないのです。

私は、幼少期を品川と目黒の下町で育ちました。
私は、あそこが大好きでした
私は、小学生の時原宿に通っていました。
当時の原宿はステキでした。
高校生の時、六本木にジーンズを買いに行っていました
当時の六本木もステキでした。
大学生の時は、夜中に青山通りにお茶を飲みに行くのが好きでした。
当時の青山もステキでした。
今では見るも無残
あの頃感じた匂いを、ワクワクした大人の「粋なお洒落さ」を感じる事はできません。
私は、今そこに行かなければいけないとき、なるたけ周りの風景を見ないようにするのです。

何年も前になりますが、こんな経験をしました。
何気なくぼんやりしていたら、私の意識がふっと飛び、私はあの時の品川にいました。
そこには、埃だらけの道と真っ黒だからマックと呼ばれていた野良犬と三軒長屋があり、家々の物干し台があり、その奥には品川湾の運河の小さな支流が流れていました。
空気の匂いもそのままで、、、

アインシュタインが過去は過去ではなく、今も存在し続けていると言ったそうですが、私はその時それを実感しました。
私が「好きだった」東京の、私が「好きだった」場所は、今も生き生き存在し続けているのだと。
私の家のあった品川の下町の釣船が出るあの場所、あの時の地味な原宿、六本木、青山、それら
はあの時のまま、私の中に生き生きと生きており、それは誰も壊すことができません。
少なくとも私はそう信じていますし、そう信じることによって、金に対する欲望で目をギラギラさせた人間がシャベルの刃を地面に突き立て、木を倒し、かつてあった街を破壊する、その痛みから目を反らせることができるかのようです。

これもいつか話しましたが、ローマも刻々と変わっています。
かつてあった帽子屋さんは、ブランドの店になり、昔ながらのおじいちゃんのやっていたバルは皆同じ様相の「ロンドン風」カフェになり、ここもまた「なんてこと無い」街になっていっています。
なぜ変わっていないかのように見えるかと言えば、コロッセオやトレビの泉やスペイン階段は未だそこにあるからです、あそこだけは壊せません。なぜなら、何よりの金づるなのですから、
しかしながら、そこもまた変わっていっているのです。
それも極めてドラスティックに。です。
私がローマに住み始めた時はコロッセオは誰でもただでふらりと入れたものです。
今は、無機質なチケットブースが並んでいます。
そこにはローマの名物でもあって野良猫が本当にたくさん、自由にたむろしていたものですが、猫も一匹もいなくなりました。
猫はどうしたのかと聞いたら、保護したと言います。保護?
パリの美術館を真似たブックショップなどもありませんでした。
私がローマに住み始めた30年前、遺跡はただの遺跡のままで何十世紀も前のその時のように、ただそこに佇み、その存在を私たちに提供してくれていたのです。
イタリアの人々もまた、遠い過去から使い続けていたコーヒーメーカーを使うのをやめ、おぞましい、お手軽なカプセルコーヒーのネスプレッソに変え、ローマの石畳は歩きづらいとアスファルトにしろと事あるごとに市に訴えます。
そして私は、この石畳、サンピエトリーノが無くなった時にローマから去ると決めています。

そんな中で、最近大好きな人に会いました。
おじいさん2人でやっている時計屋さんです。
小さなお店に入ると、2人がそれぞれ作業台に座って作業しています。
まるで昔の、診ただけでどこの具合が悪いのか、一目で言い当てた名医のように、時計の裏蓋をカチリと器用に開けて、やっと治りに来たねと言うような、やさしい目で時計を見、殆どのものを修理してしまいます。
そこに入ると、空気が違います。
彼らは、お愛想笑いをしません。
そして笑っている時も笑っていない時も、全く「人間」です。


私が自分の生に執着がないのは、多分こういう事でもあると思います。
汚い街に、そこに居たいと思わない場所に私の居場所はないのですし、
ああ、大好きだなぁ、素敵だなあと思えない人々と交わす言葉はありませんし、場を共有しようとも思えない。
それでは、私はここで何をしているの? 何がしたいの?と。


何もかもわたしの想いとぴったりで、殊に最後の5行は、わたしが外に出られない理由、つまりわたしがなぜ所謂「引きこもり」であるのかを余すところなく表現していると思います。

これは「わたしが引きこもる理由3(Junkoさんの見た東京)」として記事にしようかと考えましたが、このような形で、引用させていただきました。

この文章に共感する人はおそらくほとんどいないことくらい端からわかっています。
ただこれはわたしにとってとても貴重な文章なので、「自分の日記」に、わかりやすい形で書きうつしました。Junkoさん、あらためて素晴らしい(?)そして同時に悲しい投稿をありがとうございました。


◇◇


わたしは明日、母に付き添ってもらって、今年初めて精神科(主治医)に会いに行こうと考えている。
その理由は主に「なかなか死ねない以上、生活の質というものを考える必要があるのではないか?」ー「Oさんへ」という理由からだが、同時にこれまで持っていた迷いは、まったく払拭されぬまま、わたしの心の中にわだかまっている。つまり「Oさんへ」で書いていることは、いわば、これまでのわたしの悩みの全否定であり、裏切りであり変節に他ならないのではないか、という疑念が消せない。「わたしの悩み」の「全否定」とは、とりもなおさず「わたしという存在の否定」に他ならない。何故なら「わたしの悩み」とは、わたしにも曲がりなりにも感受性というものがあり、価値観を持ち、美意識(自分にとって何が美しく何が醜いのかという規準)があることの証であるから。


嘗て底彦さんは、「この世界でどうありたいか?」と言われた。(ように記憶している)
どうありたいか?とは、(わたしの勝手な憶測だが)「どう生きていきたいか」と同じ意味のよう見える。
仮にわたしの憶測が当たっているとすれば、わたしは、底彦さんの抱えている疑問の遥か手前に立っている。
つまり上記のJunkoさんの文章がいまのわたしの気持ちそのものだと言ったように、底彦さんの言われる「どう生きたいか」以前に「そもそもわたしは生きたいのか?」というところで、いつも壁にぶつかってしまう。

それが可能であるかどうかは別にして、今現在わたしやJunkoさんが抱えている「現実世界」への嫌悪、忌避感を薬の力で抑え込んでまで・・・つまり自分本来の感性に蓋をしてまで生きたいのか?

言い換えれば、そのようにしてまで生きるに価するものが何かひとつでもあるのか?ということだ。
「誰がいる?」「何処がある?」「何がある?」つまり113篇も繰り返してきたことだが、「元気になる意味とはなんだ?」「何のために元気になるのか?」というところにどうしても行きついてしまう。

何もかも思い通りにならない状況の中で、わたしはどうしたいのか?

「いったいわたしは誰に何を求めているのか?」

「いったいわたしは誰に何を求め得るのか?

わからない・・・

ふとわたしは『カッコーの巣の上で』という何遍も観た映画を思い出す。
精神病棟で、何かにつけて反抗的な主人公(ジャック・ニコルソン)は、最後にはロボトミー手術を施されて何も感じない人間になってしまう。
彼の友である「チーフ」(酋長の意)は、友が最早以前の(本来の、本当の)彼ではないことを悲しみ、深夜、彼が寝ている時に、彼の顔に枕を押し付け彼を殺す。無論彼は激しく暴れるが、チーフは怪力の持ち主だ。やがて彼の全身から力が抜ける。

その後、チーフは生前の彼が果たせなかった「牢獄」からの脱走に成功する。
そしてふたつの魂が解放された。

この作品では、『バタフライ・キス』や『海を飛ぶ夢』『裁きは終わりぬ』のように、「殺してくれ」という明確な意思表示をされたわけではない。しかしチーフの行為はまったく正しい。わたしは所謂「自殺幇助」を「殺人」の対極にあるものだと考えている。
いわばそれは「救い」に他ならない。










2 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    わざわざこうして取り上げてくださり、むしろ光栄です。
    私のこの文章は、多分大半の人には「怒り」と捉えられるであろうと、想像します。
    そんな中でTakeoさんがそこにある行き場のない悲しみを嗅ぎ取ってくれた事を嬉しく思います。
    そうなんです
    私はとても悲しいのです。
    世界がこうしてどんどん見るに耐えないくらい無機質で醜くなっていくことが、、
    軽率な人々によって、熟考されることもなく簡単に破壊された、その失われた、たくさんのものを取り戻すことはもう2度とできないのだ。という事が、。

    ロボトミー手術を施されたジャックニコルソンは、殺されて嬉しかったであろうと思います。
    人工的に、そして悪意によって(これも「卑しいお手軽」の一種です) 肉体に封じ込められた彼の魂が悲痛な叫びを上げているのが見えるようです。
    良きにつけ、悪しきにつけ、感情を感じる権利を奪い去られた生き物は人間で有り得るのでしょうか? そしてそういう生き物は「生きる」事が出来るのでしょうか?
    私にとっては、ただの魂の抜け殻、骸です。
    屠殺場に送られるのを待っている養豚場の豚や牛でさえ、彼らよりはもっと「生きている」と思うのでした。
    感じることが私自身の魂を酷く傷つけ、それが故に私はいつも怒っていなければいけなかったとしても、私は私の感性が存在するゆえに私に与える苦痛を、無痛より遥かに、そう遥かにマシであると考えます。

    そしてね、
    電車の中で、電車から降りて駅前の広場で、そこで目にするのはロボトミーを施されたに等しい、「自分」を、つまり魂を抜かれた骸のような人々で、私は少し前にTakeoさんが語っていた映画「SF/ボデイスナッチャー」 を思い出します。
    まさに、今の世界はそれだなと思うのです。
    そしてTakeoさんが書いていらっしゃるように、ロボトミーを施されたに等しい大衆が吐く息は二酸化炭素で満ちており、そこでは私の肺は、嫌々息をします。

    日本の人たちは、確かに親切です。
    でも、いつも納得できないなにかを感じます。
    私からすると彼らは親切( They are kind) なのではなく、親切をやっている(They act kindness or They pretend to be kind) なのであり、
    それは私にとって彼らのアイデンティティではなく、単に彼らが遵守しているただの社会の決まりでしかないように感じます。ですから、その時点で皆、どこかfakeです。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      この文章はどうしても「わたしの言葉」として使わずにはいられませんでした。
      けれども、単にJunkoさんのコメントを紹介するにとどまらず、話が自殺幇助の肯定の中に埋め込まれていることで、Junmoさんが遺憾に思われているのではという心配はありました。

      これは怒りではないとは言いませんが、やはり基本にあるのはやりきれなさ、悲しみ、そして絶望ではないかと思います。これがただ「怒り」だけに満ち満ちた文章なら、わたしはここまで惹かれることはなかったでしょう。


      『オズの魔法使い』で「心」を求めるブリキ男に対して、大魔王は「こころなんて全く実用的ではないものを・・・」と言います。それでもブリキ男は、うれしいってどういう感じか、悲しみってどんなものかを、どうしても知りたい=感じてみたいと思っています。

      つまり「喜びも悲しみも」ひっくるめて感じることができるのが心なのですが、わたしには今、悲しみしかありません。そしてJunkoさんも感じているであろう悲しみと絶望だけで生きていることの限界を感じています。

      であるから想いはどうしても、最近いくつか名前を挙げている映画のシーンに飛んでいくのです。

      「SF/ボデイスナッチャー」は、わたしがTakeoであるということはわかっている。過去の記憶がなくなったわけでもない。ただ、心を持たない「ブリキ男」になるというだけなのです。
      頭脳だけがあって心だけがなくなる。観ようによってはこの映画のどこが恐ろしいの?という人も少なくないかもしれません。誰も殺されることもないし。

      そう、既にあの映画のように入れ替わりは完了しているのかもしれません。


      わたし個人の感想では、日本人は、決して親切なんかではありません。
      ActでもPretendであっても、それの達人になれれば大したものです。

      親切な行為が、ある程度、躾によって身に着けたものであってもそれはしかたないというか、構わないのではないかと思います。「お年寄りに席を譲る」ことは当たり前のことだという教育や躾が行き届いていることは悪いことではないと思います。
      いやいやでもいいんです。とにかく「弱者は尊重されねばならない」という考え方さえ内面化されていればいいとわたしは思います。

      ただ、わたしもJunkoさんも、この国には何につけ、心というものがないという場面をいやというほど見せつけられてきたから、機械的な行為に拒否的になってしまうのではないかと思います。

      ただ、繰り返しますが、少なくともわたしの目には、またわたしにとって、日本人は親切だとは映らないのです。


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