2019年6月18日

「自己犠牲」と「自己保身」についての断想(ふたつさんのコメントより)


このブログ、アクセス数やPV(そもそもそれがどう違うのかもわかりませんが)のいい加減さは気になりませんが、唯一、コメントがわかりにくいという点はちょっと困ります。
わたしにはわかっても、外側にいる読者には「いつ、だれが、どの記事に投稿したのか」がまるでわかりません。

まあそのような不便さはあっても、やはりわたしはこのブログを使い続けるでしょう。



F:「ぼくは、「引きこもり」も「今の時代における精神疾患」もテロリズムや革命と同じような意味を持っていると思っているほどです。」

まったく。120%共感します。
まさに稀な洞察力と言っていいでしょう。

F:つまり、そういうモノを「体を張った無言の抗議」であると考えているわけです。

そうですね。わたしを含め、当事者たちにそのような意識があるかないかは別にして、正に的を射た発言であると思います。


F:ぼくは、「テロリズム」を全面的には肯定はしませんが、そこに「自己犠牲」がかかわっている場合は、少なくとも「自己保身的な穏健さ」よりははるかにましだと思っています。

たとえば、「自由革命」も「ガンジーの非暴力主義」も一種の「テロリズム」だと思っていますし、「キング牧師の平和大行進」も、大きな上からの力に対する反逆と言う意味で、テロ行為だと思います。



現在の香港の人たちの行動は、ある点では「自分の身を守るための」行動です。
一方日本人は、今に至るも「オクニ」のために犠牲になることにさほど抵抗はないように見えます。

「ガンジー」たち、「キング牧師」たちよりも、(彼らは「権利の向上(平等)」と「差別からの自由」を(主に)求めたわけですが、)その点に於いては所謂「自己犠牲」の精神は日本人の方が、より強いように見えてきます。

ガンジーやキング牧師が訴えたのは、ひとえに「われわれを重んじよ」「我を重んじよ」ということであったはずです。

それはフランスでも香港でも同じだと思います。「我々を」「我を」の後に「生活を」「生命を」と付け加えられる場合が多いのですが。

しかし日本人はほとんどそのような発言をしない。

せいぜいが、「ささ、警察の方々の迷惑にならないように、粛々と、決して暴力など振るわないように・・・」と「デモ」らしきものを「平和的に」「穏便に」行うだけのようです。

だからこそ、その怒りが、他国民と違い、外側に放出されない分、自己自身の存在、またこの自己が存在する社会(世界)への「自己保身」&「テロル」として、心を病む人が圧倒的に多いのではないかと思うのです。


最後に、わたしが訣別を決めた辺見庸と西部邁。政治的なスタンスは対極に位置するふたりの共通点。それは二人ともが、9.11に拍手喝采を送った点です。

そしてフランスの哲学者、ジャン・ボードリヤールは当時こう言い切りました、

「実行したのは彼らだが、そのように仕向けたのは我々だ・・・」

いつもながらの端倪すべからざるコメント、ありがとうございます。

上記「平凡な奴・・・」ふたつさんへ・・・ のコメント欄より抜粋引用


P.S.

ふたつさんのご指摘のように、テロルまたは革命には「自己犠牲」と「自己保存」の双方の要素があります。つまり命懸け、負けを覚悟で、命と引き換えに己の存在・・・否、尊厳を護るということ。

そしてもうひとつ、完全なる「自己犠牲」としては、わたしが敬愛してやまない『刺客』という存在がいます。(朝日平吾、磯部浅一、古田大次郎、難波大介・・・)また抗議の焼身自殺というものもあります。

わたしが決して、「殺すな。死ぬな!」と言わないし、そんな言葉が右から左へ抜けてゆくのは、「彼ら」という崇高な存在を知っているからです。

不悉


(参考文献:現代日本思想体系31『超国家主義』橋川文三編(1975年)






2 件のコメント:

  1. こんにちは。

    まず、ぼくは、日本人の「オクニノタメ」と言うのは、どちらかと言うと「自己犠牲」と言うよりも「自己保身」として捉えています。

    十代の子供に近い年齢の若者が、「特攻隊」などに志願した場合は、「自己犠牲」の性質が強いような気がしますが、ほとんどの場合、周りの顔色を見ながら空気を読んで、みんながやっているから、竹槍を突いたり、モンペを履いたりしていたんだと思います。

    要するに、戦争当時の日本人の中には、「アメリカ」と言う強大な力に対する「反逆」と言う意識はほとんどなかったような気がするんですね。
    だから、戦争が終わったとたんに、けっこうみんなケロっとしていられたんじゃないかと思います。
    (特攻隊の生き残りの人が、死の恐怖から解放されたにもかかわらず、終戦後、かなり長い期間、心の空虚感や、自分が死ねなかったことに対する自責の念に苦しんだという話を聞いたことはあったと思います)

    反面、「キング牧師」や「ガンジー」は、はっきりと「自分よりも強いモノ」に対する「反逆」と言う意識があったと感じるので、テロだなと思うわけです。

    あとは、「我々を重んじよ」と言うメッセージについては、確かにそうだと思います。

    ただ、その「我々」は、「より大きな集団」に対する「我々」であり、その「重んじよ」は「自分たちを軽んじている者に対する要求」としての「重んじよ」であるということで、やはり「反逆」であると思うわけです。

    そして、「我々」という言葉の中には、同胞に対する深い情が感じられるので、それを「自己犠牲」の側として考えやすいですね。
    まぁ、「我々」の中の一人が「自分」であるということだと思います。

    これは、少し話が煩雑になってしまうのかもしれませんが、要するに、自分が属している集団であっても、敵対している集団であっても、それが「より大きな集団」である限り、それに対する「適応」は、一見その人にとってソンな行動であっても「テロ」や「反逆」ではなく、むしろ、「自己保身のための順応」であると、ぼくは思ってしまうんですね。

    つまり、どの集団による支配が、その時その人に最も大きい圧力を持っていたか?ということで、「テロリズム精神のある場所」が決まってくると思います。
    おそらく、その時点で、その人にとって、最も大きい抑圧となっているものに対する「不適応」こそが、その時のその人にとっての「テロリズム精神のある場所」となるんだと思います。


    だからこそ、ぼくは、「いじめ社会」であり、「村八分社会」であり、「後ろ指さし社会」である、まさに、「やられる側の人間」にとっては、「日本と言う地獄」の中にあって、その「やられる側」を選択し、そこに身を置いている「引きこもり」や「精神疾患」の人たちを、あえて「テロリスト」であり、「サイレント・ソルジャー」であると言ってしまうわけです。

    それから、Takeoさんの場合は、「死」を以て「自己犠牲」が極められるという考え方に近いと思いますが、ぼくの場合は、むしろ、「ほんの些細な行為」や「極々小さな犠牲」の方に輝きを見出す傾向があります。

    たとえば、乞食に「カネ」を恵んだ時には、その人自身の自負心も満たされますが、「使い古しの服」などをあげても、乞食にも喜んでもらえないかもしれません。

    つまり、「犠牲」も小さい代わりに、「そこから得るモノ」がほとんどないということですね(感謝すらされないかもしれない)。

    ぼくの場合は、その方が、より純粋な「自己犠牲」と感じてしまいます。

    乞食が、いくら「カネ」をもらっても、裕福になることはありませんから、だったら、「こころ」をもらった方が、いいような気がしてしまうんだと思います。

    もちろん、「いのち」を差し出されれば、それをむげにはできないでしょうが、自分としては、「使い古しのもの」で十分にうれしく思いますね。

    だから、たぶん、いつも貧乏なんだと思います。

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      日本という国はわたしにとって、ほんとうにわかりにくい国です。それはわたしの既成概念を次々に覆してくれます。

      例えば、このような書き言葉でも、また街中にあふれる看板や広告でも、自分の国の言葉よりも他国語の割合が遥かに多い国って他にあるのでしょうか?
      中国などは、英語でも、無理やり中国語に翻訳しているように見えます。例えば日本では英語のAuctionをそのまま「オークション」と言っていますが、中国ではどう読むのかわかりませんが、「中国語」に訳されています。漢字の国ということでそうせざるを得ないという事情もあるのかもしれませんが。

      「何とか荘」が、なんで「メゾン」だったり、「フラット」(英国語)だったり、「マンション」になるのでしょうね(苦笑)
      そのくせ、こと憲法に関してだけは「押し付けられた」「我が国のものではない」という矛盾。



      「最も大きい抑圧となっているものに対する「不適応」こそが、その時のその人にとっての「テロリズム精神のある場所」となる」

      なるほどと何度も頷きました。
      「不適応」が「テロル」であるという断案。いいですね。一も二もなく賛同します。

      一方で、わたしは明らかに「社会不適応者」であり「テロリスト」なのですが、じゃあわたしは果たして精神病者なのか?という疑問があります。
      現に25年間あちこちの精神科に通いながら、これと言った診断名もない。
      社会不適応者であることは間違いありませんが、それはすなわち精神疾患を意味するのでしょうか?

      現に、心を病んでおられる底彦さんと、わたしとの社会へのスタンスは対照的ともいえます。「不適応=疾病」その判断は誰ができるのでしょう?それは所謂「医療化」とどう違うのでしょう・・・
       


      「与える」という行為でわたしがもっとも重視するのは、受け取った側がどう思うかであり、また、それが有効活用され得るかの二点です。

      100円でも、それはコーヒーにもなるし、アンパンにもなります。

      日本で、慈善団体が、古着の寄付を募ったりすると、必ずと言っていいほどほとんどゴミ同然と言ったものが多数送られてくると言うことを時々耳にします。

      ところで、そもそもわたしとJunkoさんが知り合ったのは、あるご隠居ブログで、「お古」の話題で共感しあったからです。
      「お古」は当然ながらゴミでも襤褸布でもありません。自分ではもう着なくなった、サイズが合わなくなったセコハンの服です。「わたしが」着なくなっただけの服。ところが平気で、洗濯もしていない、クリーニングにも出していない。破けたまま、ほつれたままの服を送ってくる人が決して一人や二人ではないということに驚きます。

      それは取りもなおさず、もらう人の立場に立つという想像力の欠如怠慢です。

      「見返り」など無くて当然です。持っている者が持っていないものに手渡すのは全く当たり前のことで、善行でも何でもないのですから。

      わたしだって、どこかに絵の好きなホームレスがいれば、画集を「もらってもらいたい」と思います。劣悪な住いのために一週間でボロボロになったとしても。

      それはあげたわたしももらった人も束の間でも得をしたことになるので、「無償の行為」とは言えませんが、要は向こうが得をすればいいんです。
      あげることで損をする、ということは考えられないので。何故なら「あげる」という行為に既に歓びが含まれているのだから。




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