2019年6月6日

誰が狂っているのか…何が狂っているのか…(ふたつさんへの返信に代えて)


書きたいことはいろいろとあるのだが、「心におもひ煩ふ」ことありて、なかなか思考がまとまらない。

わたしはブログは可能な限り毎日更新するものだとは思っていない。
書きたいことがあれば日に何度も投稿してもいいし、書く気になれなければ、一週間更新がなくても無理に書く必要はないと思っている。

わたしにとっては、「書かれている内容」がすべてなのだ。
数が多いから、その分ひとつひとつの内容が希薄になっているとも思わないし、間(ま)を空けて書いたものだから充実しているとも限らない。

さて、今日もまたふたつさんから出色のコメントをいただいた。
上のように書きながら、あまり意味のない、出がらしのお茶のような投稿だなと思っていた「愚かなる者」に書いてくれた文章。お暇な折に是非ご一読を。

同じ投稿に寄せられた瀬里香さんのコメントに、なにか今までの彼女と違うという印象を受けている。彼女とはインターネットの上とは言え、既に十年以上の付き合いだ、その間わたしから絶縁宣言をしたことも何度かあったし、罵り合いはなかったが、意見が真っ向から対立したこともあった。これまで彼女のいろんな面を見てきた。けれども、昨日のコメントに関しては、これまで感じたことのない、これまで見たことのない瀬里香さんを見た気がしている。それが、その気分が、何に起因するのか、的確に説明することは難しいが、これまでになく、つまりどんなに意見が異なっていた時よりも、嘗てなく彼女が「遠く」感じられるのだ。或いはそれは単に、わたし自身の、強くもない風に右へ左へと揺れ動く現在の心情の投影に過ぎないのかもしれないが。

(もし瀬里香さんのコメントについて、わたしが抱いている、「いわくいいがたい違和感」について興味があれば、わたしの過去の投稿「『SF/ボディスナッチャー』フィリップ・カウフマン監督(1978年)」(2017.02.12 投稿)をお読みください。)



さて、前置きが長くなった。
ふたつさんの投稿に刺激を受けて、また例によって、別の角度からの「返信」という意味も込めて、まとまらないあたまで書いてみる。



先日の川崎の事件について、6月3日付け、東京新聞朝刊の『本音のコラム』で、過去に2度ほど紹介したことのある、精神科看護師の宮子あずさ氏の投稿が掲載された。
タイトルは「思うことと書くこと」

以下全文引用する



子供を含む二十人が刺され、二人が死亡した川崎の殺傷事件。自殺した容疑者に対し、「死ぬなら一人で死ね」という内容の言葉が、ネットなどで飛び交った。
ある識者は、こうした発言は孤立した状況にある人をますます孤立させ、凶行に駆り立てる可能性さえある、と自制を求めている。
容疑者本人の話が聞けない以上、安易な決めつけは禁物である。引きこもりに関する情報もあるが、事件との関連付けは慎重であるべきだ。
一方で、孤立が人間を追い込むのは事実。「死ぬなら一人で」と突き放すのは、言っている本人の憂さ晴らしなるだけ。問題の解決にはつながらない。

私も、事件直後は容疑者への怒りが強かった。自死した患者さんの顔を思い浮かべては、「あの人たちは人を巻き込まずに亡くなったのに」。この時の感情は、「死ぬなら一人で」に限りなく近く、乗り越えるには時間が必要だった。
実際識者の見解に対しては、多く「きれい事だ」との批判が寄せられている。

私は見解を支持する一方で、感情的になる人の気持ちも分かる。
しかし、思うことと書くこととは別物。激しい感情に突き動かされて書くのは賢明ではない。少し時間をおいて考えてみる。
これだけで人を追い込む激しい言葉は、かなり減るはずである。
(改行Takeo)



わたしはこの宮子氏の記事に共感したからここに紹介したのではない。寧ろ、この意見に関しては「疑問」の方が大きい。

まず第一に、わたしは「感情的になって、死ぬなら一人で死ね」という人の気持ちが全くわからない。

更に、

「自死した患者さんの顔を思い浮かべては、「あの人たちは人を巻き込まずに亡くなったのに」。この時の感情は、「死ぬなら一人で」に限りなく近く、乗り越えるには時間が必要だった。」

いったい、これまで宮子氏が見てきた自死した患者さんたちと、今回の事件を犯した男性との間にどのような関連性があるのだろう。
「あの患者さんたちは一人で死んだ」「だから」「彼も一人で死ぬべきだった」とはどのような回路を経ての発想だろうか。
そして付け足しのように記されている、

「激しい感情に突き動かされて書くのは賢明ではない。少し時間をおいて考えてみる。
これだけで人を追い込む激しい言葉は、かなり減るはずである。」

なるほど、世上に、ディスプレイ上に飛び交うこの種の言葉は日を追うごとに物理的には減じてゆくだろう。では、再度同じ事件があったときに、その「時間を置いたひとたち」の心境は、考え方は変化しているだろうか?思ったことを書く或いは口にするまでに、一呼吸置くということと、その現象について沈思するということは同義ではない。
「孤立しがちな引きこもり」に対する世間=彼ら / 彼女らの意識に大きな変化はないだろう。
つまり彼らの気持ちが澄んだわけではない、単に時間の経過とともに、激しい感情が底に沈んで、水面が静かになっているだけで、また揺れが来れば、底に沈んでいた、濁った感情がうねり、渦を巻く。とりあえず、今この時のノイズが、あくまでも「物理的に」減るに過ぎない。
それは「人の口に戸は立てられぬ」と「人の噂も七十五日」の関係と相似である。



「彼」は単なる凶悪な恐ろしい「殺人者」でしかないのか?
自ら命を絶たなければならなかったという彼自身の悲劇に誰が目を向けているのだろう?

この事件と前後して、またアメリカで、銃の乱射事件があり、多くの死傷者が出、犯人は自殺したと聞いた。
ところで、アメリカでこのような事件が起きると、周囲は一様に「死ぬなら一人で死ね!」と喚き、一斉に書き立てるのだろうか?
わたしにはそうは思えない、先ず向けられるべき矛先は、銃が誰にでも簡単に手に入るという社会の仕組みへの批判ではないだろうか?
そして当然激しい怒りや悲しみ、憎しみといった感情もあるだろうが、例えば、欧米で、テロがあり、大勢の人が犠牲になったときに聴こえてくるのは、起こった悲劇全体に対する悲しみであって、決して、遺族の身に向けられる悲しみと、対照的に犯人(犯行グループ及び背後の組織)にのみ向けられる憎悪と敵意ではないように思えるのだ。

心の底から悲しみながら、同時に何故このような悲劇が起こったのかを考える人たちと、「死ぬなら一人で死ねと」案外冷静に書きこんでいる人たち。(わたしは「死ぬなら一人で死ね」と書きまた叫んでいる者たちが、どうしようもない悲しみに突き動かされて我を忘れているとはどうしても思えないのだ。敢えて言うが、このようなことを書くようなものに限って、口の辺に薄笑いが浮かんでいるものだ・・・)
本当に、真に深く悲しむ者は、このような批評家的・傍観者的態度は採れない。

最後に、本日6月5日付け東京新聞朝刊の『本音のコラム』では文芸評論家の齋藤美奈子氏が、「遠因と近因」というテーマで書いている。前半は、永山則夫についての記述。
後半にこの事件についての感想がこれまた付け足しのように書かれている。

以下引用

「川崎の殺傷事件と元農水事務次官の事件に共通する環境的要因として「中高年の引きこもり」が取りざたされている。
表層的にはその通りでも、事件後間もない現在の段階で判断するのは性急すぎないだろうか。
それでもすぐできるのは近因を取り除く、すなわち絶望が加害に転じる瞬間のトリガーを引かせないことである。言葉は凶器にもなる。「一人で死ね」はやっぱりダメだろう。」

「言葉は凶器にもなる。「一人で死ね」はやっぱりダメだろう。」

なんでこんな当たり前すぎるくらい当たり前のことをわざわざ敢えて言わなければならないのか?
「言葉は凶器である」そんなことを知らない者がいるのか?
わたしが今こうして書いている言葉だって凶器になり得るのだ。
凶器になり得る可能性を持たない言葉ってあるだろうか?

「言葉は凶器にもなる」。そう。多くの人はそれを知っているから、言葉を「凶器として」使っている・・・

青梗菜がいいことを言っている 

「せめて黙っていようとは思わないのか。」

耐えられない試練 1/2」本文最終行。

翌日の投稿「耐えられない試練 2/2」コメント欄で前言を翻し、こうもいっているが・・・

>51の引きこもりが死ぬのは勝手なんだけど、小学生が犠牲になるというのは言葉が出ない。小さい子どもの事故死とか続いてますから何とも言えない。ほんと、頼むから1人で死んでくれ。」
※コメント「51の~」から「何とも言えない」までは別人のセリフです。


ー追記ー

「耐えられない試練 2/2」コメント欄より

僕もキリがないから、この辺りでやめますけど、一人で死ネ。という言葉が一人歩きしているような。
死にたければ、人を巻き込まないで一人で死ネ。という当たり前の発言が、どこをどう間違えたか、引きこもりは須く一人で死ネ。という意味で、ネットなんかでは誤解されて使われているような〜。
何がなんだか〜。

2019/06/02(日) 23:07:55 | 茶坊主


こんにちは。

うん、僕もどうでもいいよ。
僕が引き受ける問題でもないし、勝手にやってればいいよ。
関係のない子どもを巻き添えにしないのなら、
生きるのも、死ぬのも、好きにすればいいよ♪

2019/06/03(月) 00:27:17 | 青梗菜

うん、僕もどうでもいいよ。
僕が引き受ける問題でもないし、勝手にやってればいいよ。
関係のない子どもを巻き添えにしないのなら、
生きるのも、死ぬのも、好きにすればいいよ♪

彼に限らず、このような社会への無関心が、断層のズレへの無頓着が、常にこの種の事件の、ひいては「引きこもり」などという、およそ実態から乖離した名称で呼ばれている社会病理の「遠因」である。
















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