2019年6月9日

『八本脚の蝶』より。私が生きるということ


先程、底彦さんのコメントへの返事を書いていて、ふと、公=社会=外部=外界と、私=個=孤=内部という関係に突き当たった。

完全にこの通り、とは言えないが、わたしの思っている上記の関係とは、このようなものではないかと感じたので、以下、彼女の日記より引用する。

二階堂奥歯『八本脚の蝶』2001年3月18日(月)



身体性を持たない、現場を知らない、そう言われました。
その通りです。
私は大きな物語が終わってから生まれました。私が暮らすのは物語終演後のステージセットの中。私に役割はありません。
私の行為が全体に寄与することはありません。私の行為が外部から位置づけられることはありません。
どんな真剣な行為もまずパロディとして知りました。私の全ての思想行動はすでに誰かがどこかでやっていたことです。
存在価値を支える外部は最初からなかったのです。そんな私の存在を支えられるのは私と、私によって支えられている私的な価値体系・物語・信仰です。
その価値体系などがどれほど大きな規模のものであっても、それは私的なものでしかありません。


私が裏付けした私的な価値体系しか私を裏付けるものがないとき、その私の生死を超えてまでやらねばならないことの存在など、可能でしょうか。

苦しみながらそれでも生き延びて成し遂げるべきことを私は持っていません。
やりたいことがないわけではない。しかしそれを位置づけてくれる文脈はありません。
私の目標の根拠は私自身なのです。


生きていく目標もありません。(生きてさえいれば目標はありますが)。
遠くにある希望とか、理想とか、それは私を離れても存在しているのですか?
それは誰が支えているのですか?
神ですか?
神は誰が支えているのですか?


それでも、小さな小さな私的な物語を楽しみ、ささやかな信仰を支えにとりあえず明日は生きるだろう、明後日も。
そのように生きています。
私が死んだら悲しむ人がいて、私がいたらうれしいという人がいる、そういった私的な支え合いの中で生きています。
生きていたらやりたいことはたくさんあります。
でも生自体を支える根拠はありません。


私は自分の髪を自分で掴んで虚空の中に落ちていかないように支えているような気がします。小さな信仰だけがそれを可能にしているのです。
(下線Takeo)



わたしの外側に、わたしの存在を定義するもの、規定するもの、わたしの存在の根拠足り得るものは存在しない。

わたしの存在の根拠は、わたしの存在それ自体と、わたしという存在が仮構した世界で(に)しかない。

『遠くにある希望とか、理想とか、それは私を離れても存在しているのですか?』

「わたし」という存在、わたしの美意識・価値観を離れたところに、いかなる理想も希望も未来も(わたしにとっては)存在しない。

私が死んだら悲しむ人がいて、私がいたらうれしいという人がいる、そういった私的な支え合いの中で生きています。
生きていたらやりたいことはたくさんあります。』

この点、彼女は、多くの人たちに比べて遥かに恵まれていると言っていい。
そしてわたしは何度も書いたように、「無病息災」「元気溌剌」でもやりたいことなどまるでない。

でも生自体を支える根拠はありません。』

これはしかし、当然のことなのだ。私という存在、その私の作り出した私のための虚構仮構。
それ以外に、自分の外部に、生の根拠があるということ、それは何ものかによって「生かされている」ということに他ならない。その何ものかとは「私」という「個人」よりも巨きなものであるはずだ。「私」という「個」よりも巨きなものは、わたしという微小な存在を、「殺さずにいる義務」を負うけれど、「生かしておく権利」を持たない。

「私の生の根拠は私自身」それでいい。そして「私の死の根拠も私自身」でなければならない。

二階堂奥歯も、山田花子も、その死の根拠は彼女たち自身ではなかったのだが・・・







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