2019年6月21日

切れ切れに思うことなど、ノート (その2)


● ふたつさんのコメントにあった、

「おそらく、その人にとって、最も大きい抑圧となっているものに対する「不適応」こそが、その時のその人にとっての「テロリズム精神のある場所」となるんだと思います。」

という言葉には完全に共感できる。素晴らしい表現だ。

ところで、わたしは明らかに「社会不適応者」であり「テロリスト」であるのだが、はたして精神疾患であるのかということに関しては疑問が残る。まったくお笑い種だが、わたしは精神科に25年間も通院しているにも関わらず、そもそも「精神疾患」の定義すら知らない。

わたしは人から「キチガイ」「狂っている」「狂人」と言われることに異存はない。

けれども自分が「心の病」とか「精神疾患」なのかという疑問が拭い去れない。

以前そのことを主治医にチラッと漏らしたところ、主治医は「『キチガイ』と『心の病』と、どう違うんですか?」と言った。(一言一句正確ではない)その言葉がいつも引っかかっている。


● 今日久しぶりに「いのちの電話」で話した。約1時間半。
話す前の悩みが何ひとつ解決されたわけではないのに、何故か随分気が楽になった。
このことをあらためて不思議に思った。なにひとつ状況は変化していないのに、何故気分が軽くなるのか?
或いは「問題の解決」ということは二義的なものと見做していいのかもしれない。最優先すべきなのは、心が通じ合うこと、言葉が通じていると感じられることで、それこそが問題の解決なのではないだろうか?

印象的だったのは、しばしばいわれることだが、話している内容と、話し方、声の調子、との著しいギャップということ。強いて言えばドナルドダックが遺書を読んでいるような感じ。或いは沈着冷静で知られるBBCのキャスターが分析医にもうダメだ。死んでしまいたいとぼやいているような。

わたしが鬱で引きこもりで自殺念慮があって、と言うことを知ってからあった人は、「話していて全然そんな風に感じない」と皆異口同音に言う。

このあたりに、なにか、「鍵」が隠れているような気がする。


● 電話で話したら少し気分が楽になったということを母に話したら、「そういうこともあるかもね。『話す』は『放す』だとなんかで読んだよ」と。そういえばわたしも最近同じ言葉を読んだ気がする。母はもちろんインターネットをやっていない。それにわたしも母も、どちらかといえばこの手の物言いは好きではない。母はいったい何でこの言葉を読んだのだろう。そしてわたしは?
それぞれが借りた本を交換して読むことは珍しくないが、最近同じ本を読んだ記憶もない。それとも夙に人口に膾炙した言葉なのだろうか?









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