2019年6月9日

辺見庸との訣別…西部邁との訣別…(「孤独」と「孤立」その3) 


わたしはキチガイである。正真正銘のキチガイである。(その視線を少し右に移せばいい)
それは必ずしもわたしが人より劣っていることを意味しない。同じように、人より優れているということも当然ながら意味しない。ただ「通常の人間界の優劣を超えて」「特異である」「異質である」「はぐれている」或いは「異常である」という意味において、「狂人である」ということを言っている。

わたしには、好きなもの、好きな人間よりも、嫌いなもの、嫌いな人間の数の方が圧倒的に多い。

とりわけ地位と名誉に執着する者、名利に敏い者をわたしは厭う。
そして何よりわたしが軽蔑し唾棄すべしと思うのは、弱い者、貧しい者、この社会にうまく適応できない者(例えば「所謂引きこもり」と呼ばれる人たち)を、自分よりも、或いはそうでない普通の人たちよりも「下」で「劣った」はては「邪魔な」存在と見做すことだ。

今年2月15日の投稿「人生は無頼不逞なもの、芸術は無慚なもの・・・」

という記事の中に、このような箇所がある。



不逞・無頼に生きる。それがわたしの本懐ではなかったか。


現在わたしの読みたい本のリストには次のような作品が挙げられている。

● 死の懺悔 完全版 古田大次郎遺書 古田 大次郎/著 黒色青年社

● 現代日本思想大系 31 超国家主義 橋川 文三/編 筑摩書房

● 獄中手記 磯部 浅一/著 中公文庫 中央公論新社

● 難波大助の生と死 〔増補版〕 原 敬吾/著 国文社

● 彼方より 増補新装版 中井 英夫/著 潮出版社

● 美は一度限り 落日の美学闘いの美学 野村 秋介/著 21世紀書院

そしてわたしは辺見庸はもとより、西部邁、野村秋介、大杉栄、辻潤、竹中労、若松孝二のような人物を愛する「不逞の輩」だ。




数日前この記事を偶然見た時に、まだ「辺見庸」という名前が残されていることに、思わず舌打ちをしてしまった。

この部分はこのように修正しなければならない。

そしてわたしは辺見庸はもとより、西部邁、野村秋介、大杉栄、辻潤、竹中労、若松孝二のような人物を愛する「不逞の輩」だ。

或いは

わたしは野村秋介、大杉栄、辻潤、竹中労、若松孝二のような人物を愛する「不逞の輩」だ、と。

辺見庸については今更多くを弁じまい。


嘗て彼はこう書いていた。


"これからは書きたいことだけを書かせてもらう。作品評価も本の売れ行きもどうでもいい。
百人支持してくれればいい。いや、五十人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まってるからね。"

— 辺見庸『記憶と沈黙』(2007年)

けれども、昨年秋以降、久しぶりの新作、相模原の障害者大量殺害事件に材を採った小説『月』出版に至る際のあのなりふり構わぬ売り込み振りはどうだ。

わたしはそれを見て、── それは当たり前のことであるのかもしれないが ──
「ああ、この人も、自分の本を売るためには、日ごろさんざん馬鹿にし、こき下ろしているマスコミに三拝九拝(或いは都合よく「利用」)することもいとわない人だったのか」と感じたのだ。

そして今日、ほんとうに久しぶりに彼のブログを開いてみた。

そこには幸せそうな彼がいた



『純粋な幸福』


◎詩文集『純粋な幸福』毎日新聞出版から刊行へ

最新詩文集『純粋な幸福』が毎日新聞出版から今夏、
刊行されることになりました。装幀は鈴木成一さん。
これにともない講演会などのイベントが企画されてい
ます。詳細は後日ご報告します。

拙著『月』について過日、歌人の加部洋祐さんから
じつに丁寧な感想文をちょうだいした。「先日、意を
決して拝読しはじめ、先ほど読了いたしました」のご
報告にどきどきし、あたまがさがった。

昨日、中野智明さんからメールあり、アフリカ踏破
53か国になり、残りはギニア・ビサウだけとなったと
いう。集合住宅の改修工事の騒音で音をあげている
当方のみみっちさよ。

風邪。


『月』は決して読むまいと決めた。


既にわたしの中では辺見庸の存在はかなり影が薄くなっていたのだ。
彼の本をほとんど読んだが、つまるところは「百日の説法屁ひとつ」に終わった。チャンチャン・・・


辺見と袂を分かって以来、わたしは少しづつ西部邁に近づいて行った。
何度も書いたことだが、彼の最晩年の「この社会に絶望する人が一人でも増えること、それが希望です」という言葉に文字通り愚かにも心酔していたからだ。

そして数冊読んだ彼の著作にも、アメリカ追随のこの国への嫌悪、(「韓国の言葉を内政干渉というのなら、何故アメリカのいうことも内政干渉だといわないのか」)、「文化なき文明」、「科学の進歩は現代の宗教である」など、共感するところが多かった。

無論政治的な主義主張の点においては、ほとんど重なるところはなく、逆に辺見庸とは重なるところばかりだった。けれど所詮口舌の徒でしかない辺見に対し、西部はこの国への絶望を、自らの死を以て示したという一点に於いて、彼を買っていた。

昨夜彼の最後の著作『保守の遺言』を読んでいた。

そこにはこんなことが書かれていた。

「もう一年以上電車に乗ったことがない。祖師ヶ谷大蔵と都心のあいだの往復も新丸子(にあるクリニック)との行き帰りも、すべてタクシーを使っているわけだ。大した貯えもないのに、この喜びの感情も寿の気持ちもいささかもない喜寿者、なにゆえに電車恐怖症に罹り、それゆえに結構な額の交通費を払わねばならぬ破目になったのか。
理由は唯一つ、スマホ人の群れを目にすると吐き気が催されてならないことだ。」
『保守の遺言』第二章「瀕死の世相における人間群像」1スマホ人(68ページ)平凡社新書(2019年)

この時点で、既に西部との訣別は目の前に迫っていた。
同じく「瀕死の世相における人間群像」2選挙人の中で彼はこのような本心を吐露していた。

「人は生まれながらにして平等である」という嘘話を本気で貫くのなら、それを税金話に移し替えると「パーヘッド・タックス」(人頭税)が最も平等だということになる。
つまり金持ちであれ、貧乏人であれ、同額の税金を払うという残酷なやり方が最も平等であるということになってしまうのだ。
 
資産額なり納税額なりを制限条件として── その場合にこそ投票務(権利ではなく義務※引用者注)というよりも投票権という表現のほうが馴染みやすいのだが、── 選挙権を与えるという「制限選挙」が何故排されて、消費税しか納めていないばかりかそれを上回る社会保障を手にしている人々までもが投票権を持つといういわゆる「普通選挙」がなぜこうまで普遍になってしまったのか。ひとつに貧乏人という多数者の社会的圧力ということもあるが、二つに、金持ちという少数者に莫迦が多いという事情もあった。」(75~76P)
(下線Takeo)(改行部分は本書では改頁)

西部のいう「この社会への絶望」という言葉の中には、このような意味も含まれていたのだ。すなわち「貧乏人が投票権を持つという愚劣な社会・・・」


結局辺見にせよ西部にせよ、他でどんなにいいこと、真っ当なことを言っていても、
自分の本を売らんがために日頃敵と見做してはばからない組織や人物に腰を低くしたり微笑を浮かべたり、或いはまた貧乏人を差別するといった、わたしの最も忌み嫌う属性を持つ以上、所詮どちらも、ジャクソン・ブラウンの歌の歌詞を借りれば、わたしにとって' Perfect Stranger' であり、同時にわたし自身は'Perfect Fool'なのだ。

◇◇

「サン・セヴラン寺院で、パイプ・オルガンの奏する「フーガの技法」を聞きながら、わたしは何度もこんなことを呟いた。「なるほど、これがわたしのありとあらゆる呪詛への弁駁なんだろうな」
ー エミール・シオラン『告白と呪詛』出口裕弘訳

しかしわたしは、自らのこの社会への呪詛への、神からの、或いは世界からの「弁駁」「反駁」を何も期待しない、神は、世界は、わたしの呪詛に反駁し得るものを持たない。


「人間であること以外、もはや人間たちと、どんな共通点もなくなってしまった!」

『告白と呪詛』でこう書いたシオランは、少なくともまだ自分は「人間」であると考えていたようだ。
それが幸せなのか不幸なのかは知らないが。


ー追記ー

そもそもHやNのような名の売れた思想家、評論家の言に対し「幻滅した」の「こんな人とは思わなかった」のと騒いでいること自体、「キチガイ」の証し以外のなにものでもない。
























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