2019年6月25日

「自ら生み出した迷宮」・・・(ふたつさんのコメントへの返信)


何も書けなくなっているわたしを見かねて、ふたつさんから親切なコメントをいただいた。

コメントの最後にふたつさんは、

「まぁ、期待しないで、もしも気が向いたなら、軽い気持ちで考えてみてください。また、もしかすると、この考え方は、ほかの方の役には立つのかもしれません。」

と書いておられる。わたしも他の人の反応が知りたいと思うので、ここに投稿することにした。
以下に頂いたコメントを引用する。
(毎度のことながら、これはふたつさんのコメント自体が、一つの記事(論説)として十分読むに価すると思うからだ。)

(尚これはわたしの「精神医療とわたしの問題」について寄せられたコメントで、先ずふたつさんのコメント、その後にわたしの意見を述べようと思う。)



「こんばんは。

この記事とは、直接関係ない話なんですが、精神的な困難を感じている人の話を読んだり聞いたりしたときに、ぼくが時々思うことがあります。

これは、あくまで、一つの見方を提示するものであって、さほどの根拠があることではありませんので、どうぞ、軽い気持ちで聞いてください。

ぼくが、時々思うことと言うのは、精神的な困難を感じている方々の多くが、とても深く物事について考えていらっしゃるということなんです。
もちろん、考えること自体が悪いことではないと思いますが、考えるという行為がどうしても「思考の迷宮」を作り出してしまう傾向はあると思います。

先日、コメント欄でTakeoさんと底彦さんの対話を拝見していて思ったのですが、徹底して考えたり書いたり読んだりすることで、そういう「思考の迷宮」が強化されてしまうということもあるのかな?と言う気がしました。

要するに、言葉とか理論と言うものは、かなり不完全なものですし、その不完全なもので知ることが出来る範囲も意外なほど限られているような気がしますから、ある時には「思考」を手放すという考え方もあっていいように思います。

ぼくは、基本的に「原初的な考え方」をけっこう重視していて、本を読んだり、学んだりすること以上に、『もしも、自分が現在のような教育を受けて育たなかったら、こんな時どういう考え方をするのだろうか?』ということをよく考えます。

つまり、例えば、Takeoさんがごく基本的な「言葉」とか「生存するための知恵」とか、その程度のことしか与えられなかった場合には、当然、今、Takeoさんの中にあるような「思考」は、存在していないような気がするわけです。

おそらく、今、Takeoの中にある「思考」とはだいぶ違うであろう、その「思考」がどんなものであるのか?と考えることは、何かのヒントになるような気もします。

もちろん、「トラウマ」のような、因果関係がはっきりしたものでもないので、それを正確に判断することは、ほぼ不可能だと思いますが、どちらかと言うと、「わかること」ではなく、「そういう視点を持つこと」が一つのヒントになるような気がするわけです。

Takeoさんは、「治りたい」とか「生きやすく成りたい」と言う気持ちが薄いかもしれませんが、それでも、まだ、ご自身の置かれている状態や何故そういう状態になったのか?と言う問いは、捨てていないような気がします。
と言うより、その問いを捨てられないからこそ、Takeoさんが、困難を抱えているのかもしれません。

当然、治癒に向かうヒントとは違うものですが、もしかすると、ご自身の状態を知るためのヒントには成るのかもしれません。

まぁ、期待しないで、もしも気が向いたなら、軽い気持ちで考えてみてください。
また、もしかすると、この考え方は、ほかの方の役には立つのかもしれません。

それでは、また。」




こんばんは、ふたつさん。

わたしは屡々二階堂奥歯の日記から引用します。彼女は、25歳で自死するまで、膨大な数の本を読んできました。一日一冊以上。それでも尚死なななければならなかったのはなぜか?彼女を自死から救うことができたであろうただ一言に出会うことができなかったからなのか?と思わずにはいられません。

芥川龍之介にしても同様です。あれだけ明晰怜悧な頭脳を持った人が、何故死を選んだのか?「漠然とした不安」に打ち克つことができなかったのか?偶々(たまたま)読み漏らした一冊があったのだろうか?という思いが拭い去れません。

一方で、二階堂奥歯にしても、芥川にしても、その死は、彼女や彼の頭脳とは別の部分によってそびき出されたものではないか、とも考えます。
しかしそのような曖昧な結論で簡単に納得できるものではない。
どうしても、彼女が、彼が、巡り合うことのなかった一行、一冊というものに思いを馳せずにいられないのです。



「考える」ことによって「思考の迷路」に嵌まり込んで却って身動きが取れなくなるというパラドクス・・・それはわかります。しかしわたしはそれを知りつつも、考えることを止めることはできません。と、いうより、人はその迷宮から脱するために「対話」するのだと思います。自分でいくら自分自身を掘り下げてもそこには限界があります。
それはあたかも、沼におぼれた自分の袖を引っ張り上げて沼から抜け出したというミュンヒハウゼン男爵を思わせます。

たったひとりで沈思黙考することに限界はあっても、「対話」によって、共同作業によって問題を掘り下げてゆくことはやはり必要なことだと思います。

わたしと底彦さんの決定的な違いは、今抱えている問題に対し、一緒になって考えてくれる存在の有無に他なりません。

わたしの悩みは、人間が最早「人間らしい」・・・すなわち「地球上の動物」の中の一種類として「原初的」な、自然とともに生きてゆくことが不可能になった時代に生まれました。

何故わたしは今このような反・自然的な環境の中で生きているのか?
決して逃げ出すことのできないそのような環境の中に、尚「在り続ける」意味とは何だと考えずにはいられません。

人間が最早生身の生体・身体を持った生き物として見做されず、またそのように扱われない時代に生きている以上、そこに存在し続ける意味、理由を考えてしまうのは寧ろ当然だと思います。
「人間が生身の生体として扱われない。そのように見做されていない。」というのは実は不正確な表現で、多くの人間が、自己を、他の地球上の(生物)動植物とは画然と異なった存在と見做していると思えてなりません。



自分は何故戦場にいるんだ?
自分は何故牢に入れられているのだ?

自ら選んだわけでもない環境に無理強いに引き込まれた者が、「何故?」と考え、「どうすべきか?」と煩悶するのは当然ではないかと思うのです。

無論大自然と文字通り溶け合う瞬間が持てれば言うことはありません。
けれどもわたしはしばしの間でも、「思考の迷宮」から抜け出してもいいという「自然」がどこにあるのかを知りません。仮にそれが以外に身近にあったとしても、どのようにしてそこにたどり着けるのかという方法を知りません。

そして、何もナイアガラ瀑布、グランドキャニオンではなくとも、自然の中に溶け込みたい、「いま・ここ」から逃げ出したいという思いはいつでも強く持っています。

けれども、「いま・ここ」に縛られている間は、自己に向けられた思考だけが、わたしがわたしでいられる唯一の形態なのだと思います。「いま・この場所」で「考えること」すなわち「なぜ?」を放棄した瞬間、わたしという存在は、風の前の霧のように雲散霧消してしまうように感じるのです。

自分の思考にしがみついていなければ自己が消えてしまうかもしれない。思考というものが唯一、母船とわたしとを繋ぐ命綱・・・わたしにとって「思考の迷宮」の外側は、カオス(混沌)です。


ー追記ー

「健康というのは、自己の身体について全く意識していない状態のことだ」とシオランは言います。おそらくふたつさんの言われているのはこのようなことではないかと思います。意識せずにいられないということは、健康な「常態」ではないということです。
社会が病んだ時、そこに生きる者は必ず病みます。(「適応」さえも「病」の一種です。)「私一個の健康」などというものは幻想に過ぎません・・・










6 件のコメント:

  1. こんばんは。

    前の記事のコメントに頂いた返信も含めて、ほとんどの点で、ぼくも同じ考え方だと思いました。
    現在は、「思考すること」が軽視されていたり、ややもすると、毛嫌いされていたりしますが、それでは、ある一つのものが大量に反復して生産されるばかりの世の中に成って行くような気がします。


    ただ、一つだけ、違うと思ったことと言えば、ぼくが言った「思考を手放すこと」と言うのは、「思考停止」を意味しません。

    むしろ、ぼくは「原初的な思考」を、より純粋な思考だと考えているようなところもあって、
    少なくとも、現在の情報過多社会に産まれた者にとって、「高度に思考すること」よりも「最も単純に思考すること」の方がはるかに難易度は高いと思います。


    ぼくは、書物も学問も芸術もすべて、「思考するためのきっかけ」のような捉え方をしていて、それは、「生活」や「仕事」のようなものでも「思考のきっかけに成り得るもの」と言う意味では、ほとんど同等の意味を持っていると思っています。

    だから、「思考すること」を否定するつもりはありませんし、そのきっかけとしてのそれらのものも否定はしません。


    ぼくが言った「思考を手放す」と言うのは、今現在において自分が持っている思考を手放して、そこにできた「空き領域」で「新たな思考」を展開するというような意味です。

    そして、その時に『もしも、自分が今持っている知識や考えをほとんど持っていなかったら』と考えることで、「出来上がってしまった思考」を手放せる可能性くらいはあるのかもしれないというようなことです。

    たとえば、「スマホへの嫌悪」ですが、もしも、世界中にスマホがたった一つしかないものであったら、おそらくTakeoさんは、今ほどスマホに対する嫌悪感を持っていなかったでしょうし、それどころか、その存在を知らなかったかもしれません。

    もちろん、そうは言っても、持っている人を見かけてしまえば、現実に引き戻されてしまうわけですが、それとは、別次元で、そういうことを考えてみることから、Takeo さんの中で、現状の中の小さな一点でも、『なるほど』と思えることがあれば、ソンにはならないだろうと思いました。
    今、Takeoさんは、その『なるほど』のある「場所」を見失いそうな状態なのかもしれません。

    本当のことを言えば、確固たる『なるほど』を持っている人なんていないんでしょうが、それがそこにあるという「思い込み」が出来ている状態が、一般的にいうところの「安心」な状態なのかもしれませんね。
    (たぶん、「錯覚」でもいいんだと思います)

    ただ、はっきり言えば、「思考を手放すこと」も「原初的な思考」をすることも、かなり難しいことだと思いますので、『そんなの、やってしまえば簡単なことですよ』と言う言い方をするつもりはありませんし、むしろ、ほぼ無理なことを言っているのはわかっているつもりです。

    ただし、「難しいこと」や「大変なこと」も、決して悪いことだとは思っていないので、もしも、気が向いたら考えてみてください。

    これは、徹底して「読む」「書く」「考える」と言うのも同じことだと思いますが、少なくとも、その時間は無駄ではないと思います。

    では、また。

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    1. こんばんは, Takeo さん, ふたつさん.

      ふたつさんの書いたことに思い当たる節があり, 短くコメントしてみます.

      > ぼくが言った「思考を手放す」と言うのは、今現在において自分が持っている思考を手放して、そこにできた「空き領域」で「新たな思考」を展開するというような意味です。

      ふたつさんのこの文章を読んだとき, 何か自分に当て嵌まるような気がしたのです.

      私の現在の症状として (私は鬱病です), 筋道立てて論理的に考えたり, 様々に想像を広げたりがかなり難しいことがあるのですが, それに伴っているものか頭の中の情報が多過ぎると混乱してしまうのです.

      例えば音楽を鑑賞することは, 現在の私にとって苦痛です. 曲を構成している要素 ── 旋律・いろいろな楽器・歌声・歌詞など ── が多過ぎるのです. 美しい曲も BGM として聴き流している限りはいいのですが, 曲に意識を集中してちゃんと聴こうとするとそれだけで疲れてしまいます. 楽しむことができません. 回復すればまた音楽を楽しめるようになるのだろうと望んではいるのですが, 時間がかかりそうですね.
      ※: ところで, ふたつさんから紹介されて聞いたブルースは比較的ちゃんと聴くことができました. 歌詞も私に聴きとれる範囲ではあまり難しいことは歌っていないようですし (酒を飲んだとか金が無いとか淡々と歌っているので), 曲がシンプルですね. だからでしょうか.

      ふたつさんの文章に戻ります. それで, 私を疲弊させる大きなものの一つが人との関係の維持です. 鬱病の治療を続ける中で, 昨年か一昨年くらいに, そういう人との関係性を保つ必要はもう無いんじゃないかと思うようになりました.

      仕事での大きな失敗や入院を経て, 以前からの知人・友人との付き合いはほぼ無くなり, 現在は同じ心の病を持つ者同士か, もしくは私が参加しているアルコール依存症の自助グループのメンバーとしか付き合いと呼べるものがありません.

      そして現在のそのような付き合いには, 私が苦しんだ人間関係を円満に保つことの必要性が無いのです. 不思議なことです. 彼らとは肩の力を抜いて接することができるのです.

      そういう事情があるので, ある時実質的にもう消滅している友人・知人との関係の維持から手を引こうと思い, そういう意識を持てるように練習 (?) しています. 「友人・知人との関係を保たなければならない」という思考を捨てればいいだけですが, 時間がかかりそうでまだ十分にできてはいませんが.

      ただ, これを思い付いたときに頭の中が急に開けたのです. 靄が一気に晴れて遠くが見通せるようになったというか.
      以前の友人・知人との複雑なネットワークの膨大な情報が, 最早ほとんど意味をなさないまま心の重荷にのみなっていたのだと思います.

      このことは多分ふたつさんの書いていることに合致しているような気がします.

      私の話はこれだけなのですが, 「空き領域」という表現がぴったりと思ったので自分のことを書きました.

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    2. 底彦さん、Takeoさん、こんにちは。

      まず、底彦さんがブルースを聞いてくれたことが、うれしいですねぇ。
      無理なくスッと聞ける範囲で聞いてくれて、良かったと思います。

      最近のブルースは、ロック風のものが主流ですが、古い時代のブルースはとても素朴で、とてもリアルで、とても率直です。

      もしかしたら、意外かもしれませんが、ぼくは、ほとんど歌詞を読みません。
      聞くだけで、十分伝わってくるので。
      それぐらい、リアルなんですね。
      言葉なんて、ほとんどいらないと思うくらいです。
      でも、それでいて、たまたま歌詞を読んだりすると、さらに惹きつけられてしまう。
      でも、次は、また読まない。

      こんなのが、ぼくの聞き方ですね。

      これは、まえにTakeoさんにも言ったことがあるんですが、その時代のブルースマン
      たちは、ブルースを嫌っているんです。
      自分が黒人であることも、アメリカに生まれたことも、その中でも南部に生まれたことも、さらにその中でもミシシッピーなんかに生まれたことも、全部、嫌で嫌で仕方がないんです。
      (これ、底彦さんの「自分を矮小化する」と言うのと同じだと思いました)

      しかも、その上、その生まれ故郷のコミュニティーからもはみ出してしまった人たちこそが、ブルースマンと言われた人たちなんです。

      だから、『ブルースが好きだからやってるんじゃないんだよ』と歌っているように聞こえるでしょ?
      (「音」を「楽」しむと書いて音楽ですが、彼らは全く楽しんでませんね)
      でも、ほかに、何にもないんですよ。
      彼らには。
      だから、ブルースやるしかないじゃないですか?
      (「ナッシング・バット・ブルース」と言う曲があるほどですから。ただし、こちらは比較的新しい曲ですけど〉

      ※古い時代のブルースの人たちにミュージシャンと言う意識はなく、ブルースマンと言うのは、どちらかと言うと「ハグレ者」を意味します。彼らは、自分たちをブルースマンと呼び、ジャズなどの職業的なミュージシャンのことをミュージシャナーと呼んでいたようです。(たぶん深南部と言われる地域だけだと思いますが)
      同じアメリカ南部でも、ニューオリンズなどはフレンチ・クォーターと呼ばれて、フランス系の移民が支配していた伝統からか、差別が少し弱かったようで、ジャズが生まれたのは、そういう事情からだと思います。ジャズは白人にも愛されていたんですね。(たぶん)

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      いや、話がそれてしまいましたが、「空き領域」ですね。
      底彦さんのおっしゃることが、ほとんど、ぼくの言いたかったことだと思います。

      どんなことでも、何かを減らせば、そこに「空き領域」が出来ますよね。
      また、どんなことでも、必ず限度がありますから、一つの限度が過ぎた中で、さらになにかを詰め込もうとするのには無理がありますが、ほとんどの場合、何かをリセットすることで、「空き領域」は増やせると思います。

      その「ナニカ」だけは、自分で見つけなければならないでしょうが、それは不可能なことではないと思いますよ。

      本当のことを言えば、「捨てるモノ」が多ければ多いほどいいようなところもあるのかもしれませんね。
      もちろん自分が、そういうことを出来るという話じゃありませんけどね。

      想像するに、底彦さんの場合は、何らかの「トラウマの原因」を突き止めているのだと思います。
      ぼくは、それで十分なような気がします。
      と言うか、それ以上に追究しても、そこには、その先に答えがあるような気がしません。

      たぶん、底彦さんは、今そこで止まってしまって、長い間、つらい思いをされているのかなと思います。

      でも、そこから先は、「家族」とか「仕事」とかと言ったプライベートなことから発生した問題ではなく、「人類」とか「世界」とか「時代」とかと言った、個人と比較するにはあまりにも巨大なモノが相手に成ってしまいます。

      それを、どうにかできる「カウンセラー」は居ません。(たぶん)

      これは、もちろん、Takeoさんの置かれている状態にも共通だと思いますし、多くの精神的困難を抱えていらっしゃる方たちにも共通のことだと思いますが、基本的に「社会」が持っている性質の中に、「人間を使役するもの」と言う性質があるので、そこを免れるには、完全に反社会的な考え方をしなければならなくなります。

      しかし、人間はもはや、「社会的な動物」に成ってしまっているために、「社会からの離脱」は、「人間の不幸」に直結しているのです。

      つまり、人間が「現代社会」という何処に向かっても出口がないう「絶望的な状況」を作り上げてしまったんだと思います。

      そのことに何らかの形で気づいた人たちが、「精神的な困難」を抱えるように成ります。
      困難に陥ることに成るきっかけとしては「家族」や「職場」におけるトラウマを持っている人が多いと思いますし、現在の精神医療は、そこのところまでしか研究されていないようですが、はっきり言ってしまうと、それは百年以上前にフロイトやユングが、言ったことをなぞっているだけの場合が多いような気がします。

      これだけ、状況が変化しているのに、精神医療はほとんど「現在」に対応できていません。

      ぼくば、別に専門家ではありませんが、どう見ても時代に対応しているとは思えないんですね。

      ぼくは、精神的な困難を感じて生きている人を、基本的に肯定しますし、一切困難を感じずに生きていられることを、基本的に否定します。

      ハッキリ言えば、すべての人が「困難な状態」になったとき、はじめて、「いま」が少しだけ「いい時代」に成るのかもしれません。


      とにかく、Takeoさんにも底彦さんにも言いたいことは、今の時代においては『すべてのことが逆転している』ということです。

      「悪いこと」は「いいこと」であり、「古いこと」は「新しいこと」であり、最終的にめぐりめぐって言うならば、「困難なこと」は「最も自由なこと」なのです。


      確かに、トラウマによって、または、「いま」と言う時代の中で、「精神的な困難」を抱えることに成ったことは、ある意味では不幸なことだと思いますが、その「不幸」は逆転して「幸運」でもあります。

      少なくとも、「いま」の中で、「何の困難も感じないで生きている人」と比べて、ご自分を不幸だと感じますか?

      ぼくは、そっちに行く方がよほど嫌ですね。

      だから、「いま」から逃れられないという前提で言うなら、お二人ほどではないかもしれませんが、自分が「いま」と言う」「困難」を少なからず感じられたことを「幸福」だとすら思いますよ。

      まぁ、これもブルースマンたちが『仕方ねぇからやってるんだよ。ブルースを。それしかねぇからな。オレたちにゃよ』と言っているようなものですから、「幸福」っていうのとも違うんでしょうけどね。

      とりあえず、ぼくは、お二人やほかの方たちと、ここで会えたことを「幸福」の一つだと思ってますよ。

      長くなってしまいましたが、適当に間引いて読んでくれたらよかったなと思います。
      (あぁ、もう全部読んだ後か?)

      それでは、また。

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    3. こんばんは、ふたつさん。

      >少なくとも、「いま」の中で、「何の困難も感じないで生きている人」と比べて、ご自分を不幸だと感じますか?
      ぼくは、そっちに行く方がよほど嫌ですね。

      精神的な困難を感じない鈍感な輩は端から問題外です。

      >「何の困難も感じないで生きている人」と比べて、ご自分を不幸だと感じますか?

      わたしの不幸は「彼や彼女ら」と比べてもなんら軽くなることはありません。

      わたしはやはりいろんな意味で不幸です。誰と比べようともわたしは不幸です。
      それはわたしこそが世界で一番不幸せな人間という意味ではありません。
      いうまでもなく客観的な幸・不幸というものは存在せず、すべては主観によるということです。

      わたしが例えば先日の川崎の殺人事件や、秋葉原事件で殺された人にたいしてほとんど何も感じないのに対し、児童の虐待だけは耐えられないと感じ、そのような記事を目にするたびに涙が抑えられないのは、わたしにとって最大の不幸は、「愛されざる者」としてあることに他ならないからです。何故この子は生まれてきてしまったのだと心から手を合わせる以外にありません。

      わたしはなによりも愛情の欠乏・欠如こそが最大の不幸だと思っています。
      そして、愛されているとかいないとかというものも、また、完全に主観的なものです。

      「全き抱擁」とその感覚というものが存在し得ない以上、わたしの心は癒され、安息を得ることはないでしょう。

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    4. 追伸

      >すべての人が「困難な状態」になったとき、はじめて、「いま」が少しだけ「いい時代」に成るのかもしれません。

      これはまったく同感です。

      それは皆自分と同じように不幸であれ、ということではなく、みなが「まともになる」という意味に於いてです。

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  2. こんばんは、ふたつさん、底彦さん。

    正直言ってわたしには、ふたつさんの言われていることが、底彦さんのようにはよくわからないのです。そもそもわたしの頭の中身は「空き領域」が大半ですので、わからない、知らないことが圧倒的に多くて、「情報過多」という言葉は少なくともわたしに関しては当てはまりません。それどころか、わたしは世に嘲笑せられている「情報弱者」の部類と言っていいと思います。

    >「高度に思考すること」よりも「最も単純に思考すること」の方がはるかに難易度は高いと思います。

    ここは難しいところですね。現代人はそんなに「高度に思考」しているのか?というのがわたしの大きな疑問です。無論「高度な思考」という意味合いも、またわたしとふたつさんの間では異なると思います。わたしは言葉尻をとらえて云々するつもりはありませんが、きわめて一般的な意味合いで、「高度な思考」と「現代人」とは(わたしの中では)どうしても結びつかないのです。

    「高度な思考」とは、わたしにとっては、「思考の射程距離の長さ」と同義です。つまり目先のことばかりではなく、長期的な展望と広く多様な視野視点を持つこと。これほど現代人にとって苦手なことはないような気がします。その場その場、その時その時の考えで生きているという点に於いては、現代人は、例えば中世やルネサンス或いはさらに遡った過去の人間たちよりもはるかに「原始的な」思考様式で暮らしているのではないでしょうか?

    以前yy8さんが、「脳に障害がある」と言いましたね。わたしは彼の言葉を全面的に否定はできないと思っています。というのも、わたしには、ふたつさんの言われる

    >『もしも、自分が今持っている知識や考えをほとんど持っていなかったら』と考えることで、「出来上がってしまった思考」を手放せる可能性

    ということが理解できないからです。

    人間の頭脳はコンピューターではないので、このデータは不要だから削除しようといってできるものではない。不合理であり、自分を悩ませるだけだと自覚しながらも「手放すことができない」のが、つまり「人間」というものではないかと思うのです。

    以上、自分の感じたことを書きましたが、そもそもの前提として、わたしがふたつさんのいわんとしていることをほとんど理解できていないという事実がありますので、どうかお気を悪くなされないでください。

    お心遣いに感謝します。



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