2019年6月27日

Oさんへ


中央図書館の司書であるあなたが、今回のわたしの「調査依頼」の担当になりました。

先日わたしは以下のようなレファレンス依頼のメールを差し上げました。



「参考資料を探しています。

「主に中高年の」引きこもりについて。
わたしは50代の所謂「引きこもり」です。
あまり熱心に「引きこもり」に関する本を読んだことはありませんし、そもそも(この表現には抵抗がありますが)「高齢の引きこもり」に関する本が出始めたのは、ごく最近のことだと思います。

自分でも何が知りたいのか、はっきりとはわかりませんが、「引きこもり」=「外に出られない」という状態のメカニズムについて先ず知りたいと思います。

わたし個人に関していえば、外界の音・匂い・光・などの信号(刺激)への生体の拒否反応です。しかしそれは単に、物理的な「音」や「におい」への「感覚的」なレベルでの拒否反応ではなく、「外界の醜さに耐えられない」という主観的、審美的側面が主になっています。

ですからわたしの引きこもりの理由・原因は、一言でいえば、外界と、わたしという個人の「美意識」との著しい乖離によるものです。

質問1) このような、「審美的引きこもり」という例が他にもあるのでしょうか?また、何故このような現象(感覚?情動?)が生じるのでしょうか?

質問2) 「脱・引きこもり」とよく耳にしますが、「脱」とはどういう意味でしょうか?
何故そのようなことが可能なのでしょうか?
また、何故そのような気分になれるのでしょうか?

はっきりしないながらも、大体このようなことを知りたいようです。
急ぎませんが、何よりも知りたいのは、「審美的引きこもり」に関してです。そしてそれがどのようなメカニズムに起因するのか・・・

よろしくお願いします。」


本日そちらからのメールが届いているのを知り、電話をしました。
メールには調査中であると書かれていましたが、なにかわたしに(資料をお探しの上で)お聞きになりたいことがあるかと思いました。

あなたは大体調査の方向性を伝えられてから、「個人的なことですが」という言葉を添えて、こう言われました。
「実は私自身、電車に乗ると、「そういう人たち」を見るのが厭で(と、仰ったのか「その一員になるのが厭で」と仰ったのか失念しましたが)すぐに文庫本を取り出す人間なので・・・」

あなたは「スマホは持っている」と言われました。けれども、やはり電車内での「あの光景」には抵抗がある、と。


「スマホバカ憎し」の余り外に出ることができなくなり、自分の感性を潤してくれるであろう映画を借りに行くことができなくなったり、紅に染まる夕焼けを見上げることがなくなったり、外で友人とお茶を飲むことも出来なくなる。更にはそれが昂じて抑うつ状態になり、無気力と倦怠の裡に日々を送り、「スマホ」とは無縁の部屋の中でさえ、絵を観て心動かされる感受性さえも枯渇し、本を読んで新鮮な視点や深い洞察に出会う機会すら逸しているとしたら、それは正に本末転倒ではないでしょうか。

「スマホ」に順応しない。スマホが跋扈する社会に適応しない自分こそが「本来のわたし」であるという考えに囚われるあまり、却って本来のわたしが愛しているものたちからどんどん遠ざかって行ってはいないか・・・

わたしは「自分の信ずるところに殉ずる」ということを、たいていの場合は、賛美します。わたしは「スマホを嫌悪する己の感受性」を手放したくはありません。けれども、あまりにそれに拘るがゆえに、もう一つの本性でもある「美を愛する心」がなおざりにされているのではないかと思い始めたのです。
様々な絵を観ても、一葉の写真を見ても、自分は本当にこの絵が好きなのだろうか?この写真に惹かれているのか?ということが、次第にわからなくなってきていると感じるのです。

ですから例えば薬物療法によって、「スマホバカ」の「群れ」の中でも、あなたのように、(完全に無視はできないまでも)電車に乗ることができるようになれば、また、今の抑うつ状態、倦怠感、無気力が少しでも軽減されることがあるとすれば、それは寧ろ、今現在失われつつある本来のわたし自身を僅かでも取り戻すことになるのではないかと思うのです。

「スマホを憎むあまり」自己を喪うということを、わたしは必ずしも「愚かな行為」であるとは思いません。

しかし、わたしが最も大事にしているのが、「わたしが常にわたしであること」だとすれば、今の状態は単に「スマホを憎む」「スマホに浸蝕された社会に馴染まない」という一点に於いてのみ「わたしである」に過ぎないのではないかと感じるのです。

「スマホやタブレットが平気になる」ということは確かに汗顔赤面に価することに違いありません。

けれども、わたしはもうこれ以上、自分が失われてゆくことに堪えられないのです。
「スマホ憎し」を起点として、半円形の不毛な迂路を辿り、最終的に憎しみという感情だけが心の裡に残されている、そのことを怖れるのです・・・










2 件のコメント:

  1. こんにちは。

    「自ら生み出した迷宮」と言う記事のコメント欄の続きの話です。
    どちらかと言うと、この記事に書いてあることの方が、ぼくが言いたかったことを代弁してくれているように感じたので、こちらにコメントを入れます。

    まず、ここに書くことも含めて、前のコメントでぼくが言ったことは、すべてぼく自身が出来もしないことであり、また、だれであっても簡単にできることだとは思っていません。
    (そういうのがあればいいんでしょうけどね)

    まぁ、そういう前提で言うことですから、あまりあてにしないで読んでいただければと思います。

    さて、ぼくが言った「思考を手放す」と言うのは、「思考停止」ではないですし、また、「思考を捨てること」でもありません。
    (これは、底彦さんへの返信コメントにおいて、ぼくが「捨てる」という言葉を使ってしまたので、ややこしくなってしまったかもしれません)

    どちらかと言うと、「思考」を握りしめている「手を緩める」という感じでしょうか。
    それくらいなら、出来るかなと言う程度のことです。

    たとえば、底彦さんで言えば「人間関係のしがらみ」のようなものがあって、それを「捨てたこと」で、少しだけ気持ちが楽になったのかもしれません。
    そういう「目に見えるモノ」は、かなりのところまで「捨てること」も可能だと思います。

    しかし、「思考」とか「その人の持っている性質」のようなものに成ると、Takeoさんのおっしゃる通り、たぶん捨てられないだろうなと、ぼくも思います。

    ただ、「消すこと」や「捨てること」は無理だとしても、「思考」を握りしめている力を緩めることぐらいはできるような気がします。
    それを、ぼくは「手放す」と言ったんだと思います。(たぶん)


    ぼくは、「美しさ」に根拠を置いてすべてのことを考えるというTakeoさんの考え方を、無条件で支持しますし、「美しさ」以外に根拠を見出せるものは、この世に存在し得ないとすら思っていますが(ぼくは、「存在」が美しいと思うので「存在」に根拠を置いているんだと思います)、「醜さを排除すること」は必ずしも「美しいこと」ではないと思います。

    確かに、「醜いモノ」があると「美しいモノ」が踏みにじられて行くことに成りますし、それは、悲しいことだとは思います。
    しかし、そこで、その「醜いモノ」を排除することは、ぼくの中では、重要ではありません。

    ぼくは、そこで、「醜いモノの必要性」を見出します。
    つまり、「醜いモノ」は「醜いモノ」としての必要性をもって「存在」しているという考え方をしているんだと思います。
    そして、「存在」に根拠を置いていますから、一回転して「醜いモノ」も「一つの特殊な性質を持った美しいモノ」となって、この世に再出現することに成るわけです。

    とは言え、あくまで、それが美しいのは「醜いモノ」としてですから、「ずっと、見ていたいもの」に生まれ変わってくれるわけではありませんし、「醜いモノ」はやっぱり醜いままです。

    たとえば、ぼくは、ゴキブリが、どうしても苦手で耐えられないんですが、ゴキブリを世の中から根絶したいとは思いませんし、『きっと、彼らがいなくなったら、何か困ったことが起きるんだろうな』と思っていますから、『わかった、そのまま存在していてくれ、なるべくなら、ぼくが見えないところで』と思うわけです。
    (書いていて、だんだんゴキブリに失礼な気がしてきましたけど)

    まぁ、そんな意味から、「美しいモノに根拠を見出すこと」と、「醜いものを排除すること」の間には、ズレが生じてくると思っています。

    つまり、単純化して言えば、「スマホ」も、何らかの必要性をもって存在していると、ぼくは思っているんだと思います。(たぶん)
    ただ、好きになれないものは好きにはなれませんし、無い方がいいと思ってしまうのは仕方がないことだと思います。
    つまり、その辺がぼくの限度だということですね。

    ゴキブリのような「生き物」との違いは、その「何らかの必要性」が、ぼくにはわからないということだと思います。

    どう考えても、「要らない」としか思えないので、「存在」としての「価値」を低く見積もってしまうんだと思います。
    だから、無くてもいいと思ってしまいますし、無い方がいいと思ってしまいますし、無くなればいいのにと思ってしまうわけです。

    これも、また、ぼくの限度なのかなと思います。


    またまた、尻切れトンボですが、それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      しっかりと握りしめていた手を緩める。これはわかるのです。頭ではわかるのですが、いかんせん頭が不器用なわたしは、「程」というものがわからないようです。つまりむかしから言われていますが、「全てか無か」という両極端にどうしても思考が流れていってしまうのです。



      ゴキブリを特に憎んではいませんので何とも言えませんが、わたしはよく「人間(人類)など滅びればいい」と思います。

      >「醜さを排除すること」は必ずしも「美しいこと」ではないと思います。

      例えば街の美化運動といかいうおぞましい名目で、ホームレスを排除することは、それ自体がホームレスの存在そのものよりも、はるかに醜く愚劣なことです。

      けれども街にあふれる騒音や、真夏の真昼間からぼんやりと意味もなくともされているホームの電気とか、電車やバス、建物の中での「ご注意ください ご注意ください ご注意ください・・・」というアナウンスの垂れ流しは排除すべきだと思っています。
      わたしは単純に醜いものはない方が快適だと思いますが、まあ、わたしと関係のないところで、だれがスマホをやろうがわたしにはまったく無関係です。わたしはただ、「公共性」というものを考えろといいたいだけです。

      「人類の滅亡」云々は、当然わたし自身も、わたしの家族も例外ではないわけですが、わたしにも何故そう思うのかはハッキリとはわかりません。これまで生きてきた中で、圧倒的に人間の醜さを見せつけられてきたせいかもしれないと思います。

      それに対して「自然の醜さ」というものは見たことがありません。「醜くされた自然」はしょっちゅう見ますけど。そもそも自然の中に「醜さ」というものは存在しないのではないのでしょうか?

      まあ「美」・「醜」の話になると止まりませんのでこの辺にしますが(苦笑)


      >ゴキブリのような「生き物」との違いは、その「何らかの必要性」が、ぼくにはわからないということだと思います。

      >どう考えても、「要らない」としか思えないので、「存在」としての「価値」を低く見積もってしまうんだと思います。
      だから、無くてもいいと思ってしまいますし、無い方がいいと思ってしまいますし、無くなればいいのにと思ってしまうわけです。

      >これも、また、ぼくの限度なのかなと思います。

      人間なんだから限界があるのが自然です。どこまでも適応可能なんて却って不気味だし不自然極です。

      理解できないものは理解できない、時にはそのようなスタンスも必要に思います。

      わたしは「何ができるか」よりも「何ができないか」、
      「何が好きか」よりも「何が嫌いか」で、その人物をある程度理解することができるのではないかと思います。少なくともわたしはその規準で人を見ます。




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