こんばんは、Blueさん。わたしもふたつさんと同じく毎日ここを見てゐますし、じつくり読んでゐます。Blueさんの活き活きとした(別の言葉では生々しい)声を聴けるからです。わたしは瑞々しい言葉や生々しい言葉を発するのが随分苦手になつてしまひました。乾燥した無機質な言葉しか今のわたしには話せません。わたしには発することのできない「なまなましい言葉」をBlueさんが発してゐるからでせうか、ここは新鮮で居心地の良い場所です。>例えば「幸福とはなにか?」というような問題を、他のブログでは一日で答えを出している。:実は答えを出してゐるやうでいて、強引に0と1だけに分けることに必死なのかもしれないし、PCやスマホで検索できるやうな手っ取り早い解決方法を求めた結果、納得できたフリをしてゐる人が多いのかもしれません。それで引っかかるところもなく疑問も残さず大抵のことをスルーできる人はそれはそれで羨ましいと思ふこともありますが、不器用なわたしは上手く誤魔化すのも下手なので、1日や2日どころか数年経っても答えを出せずにいます。Blueさんの「割り切れなさ」が分かるとは云わないけれど少しだけ想像できます。たまたまコメント欄が開いてゐて良かつた。このブログに対する感想のやうなものを拙い乍らわたしなりに話せたから。ご返信は数年後に気が向いたときでも良いですし、してもしなくてもどちらでも良いと思ひます。かうしてBlueさんの新しい記事が読めるのが一番ですから。
こんばんは、瀬里香さん。>Blueさんの活き活きとした(別の言葉では生々しい)声を聴けるからです。ははは。生々しいとはどういういみでせうか?(笑)底彦さんにも書きましたが、最近のわたしはよく怒っています。それを「生々しい」というのなら正にそうなのでしょう。わたしは端から「あいつは馬鹿だから」という姿勢で臨みたくはないのです。じっくりと読み込んで、それでもやっぱりおかしい、という場合には黙ってはいられません。当然あちらは「大人」で「社会人」ですから、わたしの言うことなどに耳を貸すことはありません。けれどもそれだけではない。「引きこもり」についてのわたしの問いかけに、結局は何も答えることができないのです。当たり前です。何故なら「正当で妥当な理由のある差別」など存在しないのだから。わたしも四人からこのようなコメントがもらえてとてもうれしく思っています。瀬里香さんも、調子が悪くて書けない場合はどうしようもありませんが、調子が悪い、無味乾燥な言葉しか書けないなんてことも、気軽に、短くてもいいので気が向いた時に書いてください。コメント欄に独り言を書いてくれても一向に構いません。来てくれてどうもありがとう^^
こんにちは。いつも思うのですが、瀬里香さんってとてもいい方ですね。他のお三方でもそうですが、4人も内容の深い誠実なコメントをいただけるなんて、ブログに関して言えば、Takeoさんって本当に幸せな方だと思えます。「幸せ」という言葉を否定していらっしゃるようですが。ブログで1人だけでも内容のある誠実なコメントをいただけるのは恵まれていると思います。
>「幸せ」という言葉を否定していらっしゃるようですが。いえ、そうではありません。わたしが心の底から軽蔑しているある男性が、「幸せ」とか「幸福」というのは「幸せではない人」「不幸な人たち」に見せつけて虚仮にする材料だと思っているところから、どうもこの言葉には抵抗を禁じ得ないのです。
こんばんは。まず、またこのブログが見続けられるようなので、うれしく思っています。(もちろん、皆さんのコメントについても同様です)さて、別の記事のコメント欄に書いたことに、少し捕捉させてもらいます。まず、ぼくは、「彼ら」(=「刷り込まれた既成概念を自分の意見であると信じて疑わない人達」)が馬鹿だからあきらめるわけではないんです。むしろ逆で、ぼくが『「彼ら」には絶対に理解できません』と言ったのは、「彼ら」が馬鹿じゃないからです。つまり、「彼ら」は理解できないのではなく、理解しようとしないのだと思います。要するに、「自分の見たいもの」しか見ないということですね。そして、「自分の理解したいもの」しか理解しないんです。そういう人に、「既成概念」から外れたことを伝えるには、大きな犠牲が必要になります。(まぁ、「カルト的な洗脳」を解くのと同じようなものですから)しかし、見る必要があるのは、必ずと言っていいほど「見たくないもの」であり、「理解する必要があるもの」があるとすれば、それは、おそらく「理解したくないもの」なのだと思います。例えば、「戦争の悲惨さ」は、平和な時代にあって、だれしも「見たくないもの」ですが、それを見ようとしない人が一定の数を超えたときに、戦争が起きてきました。「差別」も、同じだと思います。「彼ら」は、そこのところに対する「気構え」のようなものを持っていません。つまり、『なんで見たくないものを、わざわざ見なきゃいけないんだよ?』と言う考え方をしているんだと思います。まぁ、そういわれれば、『いや、見なくてもいいんじゃないですか?べつに』と言うしかないわけで、それで、「彼ら」がまた増殖していくわけです。そういうことから、Takeoさんがいくつか前の記事で書かれていたような件、つまり、30年も子供部屋にこもって、怨嗟を募らせていることは罪であり罰であるというような言葉が出てくるんだと思いますね。 つまり、「彼ら」にとっては「無差別殺人」や「通り魔が起こす惨劇」は「見たくないもの」なんだと思います。だから、「引きこもり」と言うスケープゴートを仕立てて、安心したくなるんでしょう。しかし、実際には、人が『罪であり罰である』と言えるものが、もし仮にあるとすれば、それは「犯罪」だけなのです。「殺人」は「犯罪」ですが、「引きこもり」は「犯罪」ではありません。こんなことは、子供でも知っていることなのに、彼らは不安から逃れたい一心でそれを見ないようにしてしまうのです。これは、断言してもいいと思いますが、今後30年たっても40年たっても、「引きこもり」が「犯罪」に成ることはありません。なぜなら、そこに「悪」がないからです。「殺人」に移行した時点からは、多くの場合「悪」が発生し、「罪」や「罰」も発生します。しかし、それは「エリート」から「殺人」に移行しても同じですし、「普通の人」から「殺人」に移行しても同じですし、「ブロガー」から「殺人」に移行しても、どれも全く同じです。まず、「引きこもり」を個人的な現象だと思っているというのが、ぼくには信じられませんね。「彼ら」は「引きこもり」を「社会現象」だと捉えられていません。だから、差別的な言い回しを使うことに抵抗がないんだと思います。昔は、どんな国にも「スラム街」がありましたし、そういうところでは、当然「犯罪』の発生率も高かったんでしょうが、そんなときに『スラム出身者と言うのは罪であり罰である』と言うべきなのか?それとも、『スラム街をなくして行けば犯罪が減るだろう』と考えるべきなのか?その答えは明らかです。また、30年ほど前なら、「セクハラ」や「パワハラ」は「罪」でも「罰」でもありませんでしたが、今は「やってはいけないこと」に成りました。「彼ら」は、みんなが『それは、やってはいけないんだよ』と言えば、やらなくなります。みんなが、『それぐらいいいんじゃね?』と言うと、いつまでたってもやめません。つまり、「彼ら」の中では「善悪の基準」自体が「みんながやっていること」なんだと思います。だから、「スマホ」を持つことは「無条件で肯定」だし、それを拒絶することは「馬鹿なこと」になるわけです。だから、「スマホ」の代わりに「自動小銃」を持たされていても気づかないんだと思います。昔なら、たぶん、自分がいつの間にか「奴隷商人」に成っていても気づきません。みんなが持って(やって)さえいればいいんですから。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~最後にもう一つ、ぼくも、このブログを「作品」として見ています。ただ、ぼくから見ていると、Takeoさんにとっては、もう「センス」という言葉は必要性が薄くなっているように思えます。ぼくは、「センス」から離れたことで、このブログが「作品」に成ったような気がしますよ。では、また。
こんばんは、Blueさん。
返信削除わたしもふたつさんと同じく毎日ここを見てゐますし、じつくり読んでゐます。
Blueさんの活き活きとした(別の言葉では生々しい)声を聴けるからです。
わたしは瑞々しい言葉や生々しい言葉を発するのが随分苦手になつてしまひました。乾燥した無機質な言葉しか今のわたしには話せません。わたしには発することのできない「なまなましい言葉」をBlueさんが発してゐるからでせうか、ここは新鮮で居心地の良い場所です。
>例えば「幸福とはなにか?」というような問題を、他のブログでは一日で答えを出している。
:実は答えを出してゐるやうでいて、強引に0と1だけに分けることに必死なのかもしれないし、PCやスマホで検索できるやうな手っ取り早い解決方法を求めた結果、納得できたフリをしてゐる人が多いのかもしれません。それで引っかかるところもなく疑問も残さず大抵のことをスルーできる人はそれはそれで羨ましいと思ふこともありますが、不器用なわたしは上手く誤魔化すのも下手なので、1日や2日どころか数年経っても答えを出せずにいます。Blueさんの「割り切れなさ」が分かるとは云わないけれど少しだけ想像できます。
たまたまコメント欄が開いてゐて良かつた。このブログに対する感想のやうなものを拙い乍らわたしなりに話せたから。ご返信は数年後に気が向いたときでも良いですし、してもしなくてもどちらでも良いと思ひます。かうしてBlueさんの新しい記事が読めるのが一番ですから。
こんばんは、瀬里香さん。
削除>Blueさんの活き活きとした(別の言葉では生々しい)声を聴けるからです。
ははは。生々しいとはどういういみでせうか?(笑)
底彦さんにも書きましたが、最近のわたしはよく怒っています。それを「生々しい」というのなら正にそうなのでしょう。
わたしは端から「あいつは馬鹿だから」という姿勢で臨みたくはないのです。
じっくりと読み込んで、それでもやっぱりおかしい、という場合には黙ってはいられません。当然あちらは「大人」で「社会人」ですから、わたしの言うことなどに耳を貸すことはありません。けれどもそれだけではない。
「引きこもり」についてのわたしの問いかけに、結局は何も答えることができないのです。当たり前です。何故なら「正当で妥当な理由のある差別」など存在しないのだから。
わたしも四人からこのようなコメントがもらえてとてもうれしく思っています。
瀬里香さんも、調子が悪くて書けない場合はどうしようもありませんが、
調子が悪い、無味乾燥な言葉しか書けないなんてことも、気軽に、短くてもいいので気が向いた時に書いてください。
コメント欄に独り言を書いてくれても一向に構いません。
来てくれてどうもありがとう^^
こんにちは。
返信削除いつも思うのですが、瀬里香さんってとてもいい方ですね。
他のお三方でもそうですが、4人も内容の深い誠実なコメントをいただけるなんて、
ブログに関して言えば、Takeoさんって本当に幸せな方だと思えます。
「幸せ」という言葉を否定していらっしゃるようですが。
ブログで1人だけでも内容のある誠実なコメントをいただけるのは恵まれていると思います。
>「幸せ」という言葉を否定していらっしゃるようですが。
削除いえ、そうではありません。わたしが心の底から軽蔑しているある男性が、「幸せ」とか「幸福」というのは「幸せではない人」「不幸な人たち」に見せつけて虚仮にする材料だと思っているところから、どうもこの言葉には抵抗を禁じ得ないのです。
こんばんは。
返信削除まず、またこのブログが見続けられるようなので、うれしく思っています。
(もちろん、皆さんのコメントについても同様です)
さて、別の記事のコメント欄に書いたことに、少し捕捉させてもらいます。
まず、ぼくは、「彼ら」(=「刷り込まれた既成概念を自分の意見であると信じて疑わない人達」)が馬鹿だからあきらめるわけではないんです。
むしろ逆で、ぼくが『「彼ら」には絶対に理解できません』と言ったのは、「彼ら」が馬鹿じゃないからです。
つまり、「彼ら」は理解できないのではなく、理解しようとしないのだと思います。
要するに、「自分の見たいもの」しか見ないということですね。
そして、「自分の理解したいもの」しか理解しないんです。
そういう人に、「既成概念」から外れたことを伝えるには、大きな犠牲が必要になります。
(まぁ、「カルト的な洗脳」を解くのと同じようなものですから)
しかし、見る必要があるのは、必ずと言っていいほど「見たくないもの」であり、「理解する必要があるもの」があるとすれば、それは、おそらく「理解したくないもの」なのだと思います。
例えば、「戦争の悲惨さ」は、平和な時代にあって、だれしも「見たくないもの」ですが、それを見ようとしない人が一定の数を超えたときに、戦争が起きてきました。
「差別」も、同じだと思います。
「彼ら」は、そこのところに対する「気構え」のようなものを持っていません。
つまり、『なんで見たくないものを、わざわざ見なきゃいけないんだよ?』と言う考え方をしているんだと思います。
まぁ、そういわれれば、『いや、見なくてもいいんじゃないですか?べつに』と言うしかないわけで、それで、「彼ら」がまた増殖していくわけです。
そういうことから、Takeoさんがいくつか前の記事で書かれていたような件、つまり、30年も子供部屋にこもって、怨嗟を募らせていることは罪であり罰であるというような言葉が出てくるんだと思いますね。
つまり、「彼ら」にとっては「無差別殺人」や「通り魔が起こす惨劇」は「見たくないもの」なんだと思います。
だから、「引きこもり」と言うスケープゴートを仕立てて、安心したくなるんでしょう。
しかし、実際には、人が『罪であり罰である』と言えるものが、もし仮にあるとすれば、それは「犯罪」だけなのです。
「殺人」は「犯罪」ですが、「引きこもり」は「犯罪」ではありません。
こんなことは、子供でも知っていることなのに、彼らは不安から逃れたい一心でそれを見ないようにしてしまうのです。
これは、断言してもいいと思いますが、今後30年たっても40年たっても、「引きこもり」が「犯罪」に成ることはありません。
なぜなら、そこに「悪」がないからです。
「殺人」に移行した時点からは、多くの場合「悪」が発生し、「罪」や「罰」も発生します。
しかし、それは「エリート」から「殺人」に移行しても同じですし、「普通の人」から「殺人」に移行しても同じですし、「ブロガー」から「殺人」に移行しても、どれも全く同じです。
まず、「引きこもり」を個人的な現象だと思っているというのが、ぼくには信じられませんね。
「彼ら」は「引きこもり」を「社会現象」だと捉えられていません。
だから、差別的な言い回しを使うことに抵抗がないんだと思います。
昔は、どんな国にも「スラム街」がありましたし、そういうところでは、当然「犯罪』の発生率も高かったんでしょうが、そんなときに『スラム出身者と言うのは罪であり罰である』と言うべきなのか?それとも、『スラム街をなくして行けば犯罪が減るだろう』と考えるべきなのか?その答えは明らかです。
また、30年ほど前なら、「セクハラ」や「パワハラ」は「罪」でも「罰」でもありませんでしたが、今は「やってはいけないこと」に成りました。
「彼ら」は、みんなが『それは、やってはいけないんだよ』と言えば、やらなくなります。
みんなが、『それぐらいいいんじゃね?』と言うと、いつまでたってもやめません。
つまり、「彼ら」の中では「善悪の基準」自体が「みんながやっていること」なんだと思います。
だから、「スマホ」を持つことは「無条件で肯定」だし、それを拒絶することは「馬鹿なこと」になるわけです。
だから、「スマホ」の代わりに「自動小銃」を持たされていても気づかないんだと思います。
昔なら、たぶん、自分がいつの間にか「奴隷商人」に成っていても気づきません。
みんなが持って(やって)さえいればいいんですから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後にもう一つ、ぼくも、このブログを「作品」として見ています。
ただ、ぼくから見ていると、Takeoさんにとっては、もう「センス」という言葉は必要性が薄くなっているように思えます。
ぼくは、「センス」から離れたことで、このブログが「作品」に成ったような気がしますよ。
では、また。