2019年6月22日

精神医療とわたしの問題


今現在わたしが何に悩み何に苦しんでいるのかを手探りで綴ってみたいと思う。
(一部、友人のブログにコメント(質問)として投稿したことを引用させていただきます。)


● 先日も書いたが、晩年の西部邁は「スマホ人たちの群れを見ると吐き気を催すので」電車恐怖症になり、移動はすべてタクシーを使わざるを得ない破目になった。言うまでもなくわたしも電車に乗れない。それでも年に数度、一駅か二駅乗ることがある。その時の「彼ら」に対する感情は、憎悪、軽蔑、敵意、(人間という存在への)絶望などの入り混じったもので、とても心穏やかではいられない。電車やバスに乗ることを「拷問」に譬えても、今やそれは決して「誇張」とは言えない。
つまるところ、わたしの外出困難は、この拡大版に過ぎない。
いや。そもそもわたしの「厭世観」「厭離穢土」の感情自体が「電車恐怖」の拡大版に他ならないのだ。
はたしてこれは「心の病」なのだろうか?言い換えれば、これは精神科医がどうこうできる問題なのだろうか?


● わたしは所謂「引きこもり」と呼ばれている「外出困難」についての本を読み漁ったことはないが、なにかどれを手にしても、わたしの感覚との「ズレ」を感じる。
春日武彦という著名(?)な精神科医の「引きこもり」に関するコラムをクリニックの待合室で読んだ時には驚いた。仮にこれが世の大方の精神科が持つ引きこもり観だとしたら・・・

余談になったが、わたしは、世に「審美的な理由による引きこもり」というものが存在するのかが知りたい。西部邁は、「スマホ人」(彼の造語)の「群れ」を見ることに耐えられず、電車に乗れなくなった。わたしはそれが更に昂じて外に出られなくなっている。
こういう例は他にもあるのだろうか?
「世界が醜いから」外に出られない。という症状・症例が・・・


外界での「アイドリング」「歩きたばこ」も、わたしの外出を困難にしている要素だが、それは電車やバスの中では存在しない。その代り、電車やバスに乗れば執拗な注意喚起のアナウンスをエンドレスで聞かされる。だからわたしはバスに乗れない。
どうしても行かなければならない場所なら、やはりタクシーを使う以外にないだろう。
といっても、タクシーの運転手が、信号待ちの間に、チラッとでもスマホを眺めるようなことがあれば、その場で戻してしまうかもしれない。ちょうど島尾敏夫の妻ミホが、ある種の顔の造作のパターンを見ると嘔吐したように・・・

「スマホ、タブレット恐怖症」・・・これは世界のいかなる名医でも治すことはできないだろう。それに加えて、わたしは電話の「音声ガイダンス」の声がダメだ。あの声はわたしには、ガラスを爪で引っ掻くような不快感を与える。


● 今、わたしには友達(といえるかどうか微妙だが)が一人いる。彼女はスマホしか持っていない。わたしは家の固定電話しかない。やり取りはメールのみ。友達でありながら(料金の問題)で電話ができない。そして街に公衆電話がなくなれば、またテレホンカードがなくなれば、わたしは外では陸の孤島にいることになる。

そんな不便な時代にわたしは生きている。言い換えるなら、「選択肢のない時代」に。


● これまで繰り返し論じてきたことだが、薬物、或いは極端な話、有能な催眠術師の治療によって、スマホにまったく嫌悪感を感じなくなることができたとしたら・・・

わたしはなぜここまで苦しい思いをしながらも、薬の力で、スマホや、ipadや、LEDや液晶テレビへの忌避感を取り除くことを、つまり自分の苦痛を取り除くことを望まないのか?
その苦しみを代償としてまで守り抜きたい自己、乃至美意識とはいったい何だ?
それはわたしにもはっきりとはわからない。何故敢えて苦しい生を選んでいるのか?
ただ、若いころから、「人と同じではありたくない」という思いを抱き続けて生きてきたから、としか答えることができない。100人中99人が好きというものなら、わたしはどうしても残りのひとりでありたいと思ってきた。わたしは今のわたしの感受性がまともだとか、正しいとは思っていない。ただ、これがわたしだと思っている。「何故スマホが平気になったあなたは、最早あなたではないといえるのか?」という問いは、わたしには難しすぎて答えることはできない。ただ、今の・・・すなわち「これまでのわたし」が、「新しいわたしになること」を拒んでいる。わたしはその気持ちを大事にしたい。

「それじゃあ孤立するのは当たり前だ」と思うだろうか?何故?
何故一人だけ意見が違う=孤立ということになるのだろう?
なぜ他の99人に合わせなければならないのだろう?
それが「社会」というものだ、というのが正解であるなら、甘んじて孤立を受け入れよう。

例えば、今わたしが大学生で、就職活動をしなければいけない(イコール)リクルート・ルックに全身を包まなければならないとしたら、わたしはそうしなくても受け入れてくれる会社だけを選ぶだろう。それがないというのなら飢え死にも辞さない。
現にわたしは過去一度もスーツというものを着たことがない。
それを義務付けられる場所への出席はどこであろうと辞退する。


● 一方で、外に出られないことで、わたしがすべきことをすべて母に肩代わりしてもらっている。母への申し訳なさは募る一方だ。そして行きつくところは「わたしさえいなければ」
死ねない死ねないとぐずぐずしているうちに、母の疲労は少しづつ蓄積され、またわたしの自殺念慮も次第に水位を増してゆく。

死ねない自分が情けない。わたしが死ねば母も楽になるし、何よりもわたし自身がこの苦しみから解放される!それなのになぜ死ねない?


● 先日も書いたが、「死にたい・・・」と訴えている人を救うことが何故その人の希望と正反対である「生かす」ことになるのか?いったい「人を救いたい人たち」は何故彼らに対して生きて苦しみ続けろと言うことができるか?何故「死刑」ならぬ「生の刑」を与えるのか?何故首に縄つけてでも生かそうとするのか?
それはどこか、永山則夫や麻原彰晃たちをとにかく一刻も早く絞首台へ送れというメンタリティーと闇の中で螺旋を描きながら通底してはいないか?

(理由の如何を問わず)「とにかく生かせ」「とにかく殺せ」それが日本人の心性の顕著な特徴ではないのだろうか・・・


● わたしがなによりも守りたいのは「わたし自身」と母の平穏だ。そしてそれを守るのは、決して「生き延びること」ではないはずだ。ただ、ただ、今日も死ねない明日も多分死ねないといっていて生き続けていても他人は誰も迷惑しないが、わたしの心身は運動不足と外に出られないストレスによって確実に蝕まれている。そして母の身体もわたしと父と弟の三人の世話で確実に弱っている。「死ねません!」では済まないのだ・・・

そしてこのような異常なわたしの悩みを相談できる人を、場所を、わたしは知らない・・・


P.S.

わたしの気持ちは措いて、自分の病気、病状に関する本を読む、ひたすら読む。
そして自己の内面を言葉にする。書く。書く。ひたすら書く。
そしてそれらを元に自分一人では手の届かない部分疑問について、専門家と協力して問題を浮き上がらせ、それについて検討・検証を行う。話す。話す。とことんまで「話し合う」
そんな底彦さんに敬意を表します。
またそのようなよき相談相手に恵まれたことを羨ましく思います。





「精神科医の中には、患者にすぐ診断を下したり、薬を渡しただけで治療した気になったり、症状を分析して終わりという者もいる。しかしひとりの患者と真剣に向き合うには時間が必要だ。逆に時間をかけないと、本当に治療の効果があったのか簡単にはわからない。

「石川医師が最も大切にしていること、それはカウンセリングだ。毎回、ひとり最低でも30分、患者の言葉にひたすら身を傾ける。患者が何に苦しみ、何を求めているのか、患者自身の言葉として現れる時をじっと待つ。77歳になった今も、医師として貫いてきたその姿勢は変わらない」

『永山則夫ー封印された鑑定記録ー』堀川惠子(2013年)


● 一番肝心なことを書き洩らした。上記の「わたしの問題」わたしが今何に悩み何に苦しんでいるのかを記した物を精神科医に読んでもらう。読み終わった医師は言うだろう。
「今のあなたの状態は大体わかりました。で、あなたはどうしたいの?
ここ(精神科)に何を求めて来たの?」

そう言われたらわたしはただうつむき押し黙るしかない。

それがまったくわからないからここに来た」という話が通じるわけはない。

医療とはあくまで「治す」行為である。言い換えれば、壊れた部分を修復し、「社会へ送り返すのが医療機関」であろう。

人の「死」、その選択に関して社会はまるで無関心だし、敵視さえしている。
生だけが尊ばれる。そして生を目指す病者だけが。
そのことに疑問を持つものは少なく、彼らは「通常の病人・障害者」とは一線を画した真に「病んだ人」と呼ばれる。「病める者」とは病を得た者ではなく、生を志向しなくなった者、光ではなく闇を指さす者の謂いだ。

だとすれば、やはりわたしはいつもの捨て台詞を吐く以外にない。

どのような資格で「自殺」は迷惑だなどと言えるのか!

(精神科医に読んでもらうつもりで書いたこの「精神医療とわたしの問題」、断章形式で可能な限り簡潔に「圧縮」し要点をまとめたつもりでも、400字詰め原稿用紙に換算して約18枚。そしてわたしが求めているのは、「先ず」これら一つ一つの問題を「解凍」し、それらにメスを入れてゆくことだ。つまり訴えたいこと、聴いてもらいたい悩みはまだまだあるということだ。しかし現実にそんな時間は取れないから書く。とにかく書く・・・)












4 件のコメント:

  1. こんばんは。

    この記事とは、直接関係ない話なんですが、精神的な困難を感じている人の話を読んだり聞いたりしたときに、ぼくが時々思うことがあります。

    これは、あくまで、一つの見方を提示するものであって、さほどの根拠があることではありませんので、どうぞ、軽い気持ちで聞いてください。


    ぼくが、時々思うことと言うのは、精神的な困難を感じている方々の多くが、とても深く物事について考えていらっしゃるということなんです。
    もちろん、考えること自体が悪いことではないと思いますが、考えるという行為がどうしても「思考の迷宮」を作り出してしまう傾向はあると思います。

    先日、コメント欄でTakeoさんと底彦さんの対話を拝見していて思ったのですが、徹底して考えたり書いたり読んだりすることで、そういう「思考の迷宮」が強化されてしまうということもあるのかな?と言う気がしました。

    要するに、言葉とか理論と言うものは、かなり不完全なものですし、その不完全なもので知ることが出来る範囲も意外なほど限られているような気がしますから、ある時には「思考」を手放すという考え方もあっていいように思います。

    ぼくは、基本的に「原初的な考え方」をけっこう重視していて、本を読んだり、学んだりすること以上に、『もしも、自分が現在のような教育を受けて育たなかったら、こんな時どういう考え方をするのだろうか?』ということをよく考えます。

    つまり、例えば、Takeoさんがごく基本的な「言葉」とか「生存するための知恵」とか、その程度のことしか与えられなかった場合には、当然、今、Takeoさんの中にあるような「思考」は、存在していないような気がするわけです。

    おそらく、今、Takeoの中にある「思考」とはだいぶ違うであろう、その「思考」がどんなものであるのか?と考えることは、何かのヒントになるような気もします。

    もちろん、「トラウマ」のような、因果関係がはっきりしたものでもないので、それを正確に判断することは、ほぼ不可能だと思いますが、どちらかと言うと、「わかること」ではなく、「そういう視点を持つこと」が一つのヒントになるような気がするわけです。

    Takeoさんは、「治りたい」とか「生きやすく成りたい」と言う気持ちが薄いかもしれませんが、それでも、まだ、ご自身の置かれている状態や何故そういう状態になったのか?と言う問いは、捨てていないような気がします。
    と言うより、その問いを捨てられないからこそ、Takeoさんが、困難を抱えているのかもしれません。

    当然、治癒に向かうヒントとは違うものですが、もしかすると、ご自身の状態を知るためのヒントには成るのかもしれません。

    まぁ、期待しないで、もしも気が向いたなら、軽い気持ちで考えてみてください。
    また、もしかすると、この考え方は、ほかの方の役には立つのかもしれません。

    それでは、また。

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    1. いつも興味深い視点を提示してくださりありがとうございます。
      投稿が「ふたつさんのコメント」云々ばかりですね(笑)

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    2. こんにちは、ふたつさん。

      一番肝心なことが抜けていました。

      ふたつさんは「思考の迷宮」と仰った。
      「スマホや、ipadや、LEDや液晶テレビへの忌避感」は、わたしの「生理的な嫌悪」なのです。これは決して「行き過ぎた科学文明への批判」などではなく、虫唾が走る物体たちに取り巻かれて生きる者の悲鳴です。

      そんな中で何故生きるのか?
      生き続けることは可能なのか?
      そうまでして生きる意味は?

      これはもう思考であって思考ではない。悲鳴であり絶叫であり、すなわち生命の激しい葛藤の様相なのです。

      ですから、「それら」か「わたしか」のどちらかがなくならない限り、わたしは「悲鳴を上げ続けなければ」なりません・・・

      強いて思索というのなら、これは頭脳による、言葉による思索ではなく、身体(生体)による、生理による、皮膚によるそれです。

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    3. それから冒頭での二階堂、芥川への言及。あれは考えること、思考することとはある言葉、ある視点への探訪であると思ったからです。そしてある視座、ある考え方の獲得は、死生観をも動かしうるのではないかと思ったのです。
      現実にそういうケースもあるでしょう。

      けれども、やはり人間は生身の生体です。魂を救うのは言葉ではない。
      「言葉の限界」についてはわたしも同意見です。
      魂を救えるのは魂だけ、或いは温もりを持った肉体による抱擁だけではないでしょうか・・・

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