わたしは「苦笑」「失笑」という態度が嫌いである。ムキにならず、冷静を装う心根が嫌いである。わたしはすぐムキになる。ところが相手は「どうも、まいったね、ヘンなのに絡まれちゃって」と苦笑しつつ肩をすくめ、隣の相棒と目を見交わす。相棒も同様である。
ムキになるのは下等なこと。子供っぽいことで、不快な言動、嫌いな相手であっても、(いや、だからこそ)決して真剣に、真正面から取り合わないことが「大人の態度」だと信じているようだ。ムキになるというのは真剣であるということだとわたしは思っている。嘗てネット上で論争した時に、わたしの口調を「知的な皮肉家」と評した人がいたが、わたしはもっとムキにならなければならないと思っている。相手に激情をぶつけないで、「知的」振っているのはもっとも愚劣な態度である。
◇
今回の川崎での殺人事件に関しては、わたしは情報をほとんど持っていないので、何も語ることができないが、案の定、「犯行を犯したのは50代の引きこもりの男性」というところに反応したブログがあった。
彼は、そのブログに於いて、
「〇十年も引きこもっているなんていうのは人生に対する「罪」であり「罰」である」と、断言した男だ。
以下「彼のブログ」の最新の投稿より抜粋引用する。 投稿1・投稿2
今回は主投稿ではなく、それについて交わされているコメントの内容に焦点を絞る。
わかりにくいかもしれないので、「二人」のコメントは太字にする。(強調の意味はない)
◇
先ず「投稿1」の「耐えられない試練 1/2」のコメント欄より
>犯人の事も良くわからないから、部屋に、テレビとゲームがあったなんて事が、ニュースになる。不思議だ。どうでもいい。
不都合が起きたら、何かを悪者に仕立てる。
テレビを悪者にしたい人もいるし、
ゲームを悪者にしたい人も、
引きこもりを悪者にしたい人もいるんだろうな。
「引きこもりを悪者にしたい人もいるんだろうな」と書いておきながら、そのすぐ下の段では、
>深い悲しみ〜グリーフとか、償わなければという思いとか。
罪を償えないですよね、誰も。
こんなタイプの引きこもり、ってのは、
罪と同時に罰なんですよ。
僕にはそう思うほかはない。
と、いつもの持論を語っている。
「正当で妥当な理由を持つ差別」などというものは存在しないが、現在日本全国に所謂「引きこもり」などという妙な名称を付けられた「外に出られない人たち」は数百万単位(?)(正確ではないのでご了解を)で存在している。
つまり彼はいかなる資格に於いてか、その数十万人だか数百万人だかは「人生に対する罪人」であると、ためらいもなく「裁いて」いる。
何故糊塗するのか?何故もっとシンプルに、「僕は引きこもりってやつが嫌いなんだ」と言わないのか?人気のブログの評判が落ちるのを怖がっているのか?
何故「外に出られない人たち」は「罪人」であるのか?その「罪」とは如何なるものか、彼は一度でもわたしを含めた読者に向かって語ったことがあるのだろうか?
何故「僕にはそう思うほかはない。 」のか、その理由はどのようなものなのか・・・
茶坊主のコメントを一旦とばして、再び「彼」の言葉。
引きこもりで括ってしまうと、偏見だとか、差別だとか言われるけどね。
30年も子供部屋にこもって、怨嗟を募らせてるような人に対しては、 僕は、偏った考えを持つし、扱いには差をつけるよ。
そんなの、当然だと思う。
「30年も子供部屋にこもって」・・・彼はよく20年とか30年とかいう発言をするが、では8年ならば、13年ならば「大目に見てもらえる」のだろうか?「罪」から免れるのだろうか?
この30年という期間の基準は何だ?
更に「部屋に籠って」と盛んに言っているが、これではまるで「自分の意思で外に出ない」と言っているのと同じではないか。彼がほとんど救いがたいほど愚かしいのは、「出たくても出られない人たちがいる」という発想がスッポリ抜け落ちていることだ。
「ヒキコモリ」イコール「外に出ない人たち」ということになるのだとしたら、端から話にならない。
そしていかに彼の論理が脆弱であるかは、「僕は偏った考えを持つ」=「偏見を持つよ」と言っておきながら、これまたそのすぐ後で、「そんなの当然だと思う」と、あれあれ、いつの間にか「自分独自のバイアス(偏り)」が「そんなの当然じゃないかな」と、「一般化」されてしまっているところにもみられる。「当然」というのは「あたりまえ」という意味だ。言い換えれば「そんなの常識じゃないかな」と言っているのと同じことだ。
こう言うのを支離滅裂というのは「当然じゃないかな」
さて、一つ戻って、茶坊主のコメント。
それにしても、テレビとゲーム機って、テレビさえない家の方が危険なような〜。
なんだかこの弥次喜多のやり取りを読んでいると、「犯人は引きこもりだった」という一つの事実が「ヒキコモリだから人を殺した」という風に、話があらぬ方向へ流れて行っているように見える。
「こういうタイプの引きこもり」ってなんだ?彼は犯人がどのようなタイプの引きこもりであるという認識なのだろうか。
「支援の言葉が届かない」=「困った人たち」という発想のようだが、わたしは過去に、「所謂」引きこもりや社会不安障害などで、なかなか外に出られない人たちのブログにおいて、彼、彼女らが「地域行政の支援」なるものが次々に破綻しているという記事を引いて、「こういうやり方じゃ(僕(私)たち当事者が)ついてこない(ついていけない)のはあたりまえですよ・・・」という、絶望と諦めに近い書きこみに接し、深く頷いた記憶がある。
更に聞き捨てならないのは、
「こういうタイプの引きこもりの存在が許される日本って特殊だなと思いますね。」
彼はいったい何が言いたいのか?そもそも読者には「こういうタイプの・・・」が「どういうタイプ」であるのかさっぱりわからないし、またいかなるタイプであろうと、「こういうのが許されるってことが特殊」とはどういう意味だろう?
普通はこういうことが書いてあれば、言外に「許されてはならない」という意味を読み取るはず。では「許されざる者」たちをどうしようというのか?
いくら「東大」とは言え、この人の言うことはいつもお粗末で空疎且陳腐すぎて呆れてしまう。
◇
「投稿2」
―― 引きこもりが募らせている怨嗟も信仰だよ、
を持つ相手を異端として排除して、
自分たちの信仰を、
唯一の真理だと偽装するゲームだな。
邪悪な心の持ち主の、僕から言わせてもらえば。
この男、難解なこと=高等で正当なことだと勘違いしているようだが、
「引きこもりが募らせている怨嗟も信仰」とはどういう意味か?
では訊くが「信仰ではない」ものって一体なんだ?
更に重ねて聞くが「良い信仰」とか「悪い信仰」というものはあるのか?
怨嗟が信仰だなどとわかったようなことを言う前に、まず何故「怨嗟」が生じるのか、
何故「殺意」が生まれるのかに、思いを致したことが一度でもあるのか。その頭で。
何故そう言うことがコロコロと変わる?
何故良かれ悪しかれ主義主張に一貫性が見られないのか?
繰り返す、
―― 引きこもりが募らせている怨嗟も信仰だよ、
を持つ相手を異端として排除して、
自分たちの信仰を、
唯一の真理だと偽装するゲームだな。
邪悪な心の持ち主の、僕から言わせてもらえば。
再度訊く
あなたはさっき
こんなタイプの引きこもり、ってのは、
罪と同時に罰なんですよ。
僕にはそう思うほかはない。
罪と同時に罰なんですよ。
僕にはそう思うほかはない。
といってはいなかったか?これはあなたの「信仰」ではないのか?
そして
30年も子供部屋にこもって、怨嗟を募らせてるような人に対しては、
僕は、偏った考えを持つし、扱いには差をつけるよ。
そんなの、当然だと思う。
僕は、偏った考えを持つし、扱いには差をつけるよ。
そんなの、当然だと思う。
とも言っていなかったか?
最後にあなたの言葉を引用する。
ダブルスタンダードが気持ち悪いだけかも。
わたしの目には正にあなたの発言こそ「ダブル(トリプル?)千変万化スタンダード」の見本のように見えてならない。
もう少し考えろ。
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