今日母が珍しく用事で日本橋まで行った。
帰ってきて母は、「十年ひと昔っていうけど、東京って十年ごとに違った街になるね」
と言った。
母はもう六十年以上東京に住んでいるが、十年ほど前に郊外に越してきてからは、滅多に都心に行く機会がなくなった。
わたしも東京で生まれ東京で育って55年経つけれども、今都心に行けば、母同様、全くの「お上りさん」だ。
これは『楽天ブログ』を使っている当時から幾度となくわたしのブログに現れるテーマだが、わたしが所謂『故郷喪失者』であるということ。
つまり東京という街には蓄積された街の歴史というものがなく、ひとつの都市に流れる時間の連続性がないということ。これは何もわたしに限ったことではなく、東京に生まれ、また東京で育ったものは、みな故郷喪失者だ。
そのことは以前「わたしが引きこもる理由 〔種村季弘の見た東京〕」にも書いた。
東京という街には、わたしがここで生まれ、ここで育ったという「痕跡」「形跡」がほとんど遺されていない。それでもまだ20世紀末までは、かろうじて東京は「わたしの東京」と同一だった。
人が心を病む契機となり得る要因の一つである「自分にとってなにか大きなものが喪失された空虚さ・・・」
それが今だ。今の銀座はわたしの知っている銀座ではなく、
今の丸の内、八重洲は、わたしが歩いた場所では最早なく、
今の馬込はわたしが17年間暮らした馬込ではない。
今の東京はわたしの東京ではない・・・・
わたしをわたしたらしめていたものは、最早「外部」には存在しない。
それが今だ。今の銀座はわたしの知っている銀座ではなく、
今の丸の内、八重洲は、わたしが歩いた場所では最早なく、
今の馬込はわたしが17年間暮らした馬込ではない。
今の東京はわたしの東京ではない・・・・
わたしをわたしたらしめていたものは、最早「外部」には存在しない。
わたしと「外部」の接点は最早存在しない・・・「あの頃の自分」と出会える場所はどこにもありはしない。
大都市というものはいずこもそういうものだ、とはわたしは思わない。
ローマやパリや、ウィーンやロンドンで、10年前に訪れた時にあったものが、あそこも、ここも、跡形もなく消え去っているとはどうしても思えないのだ。
もしも「誇れるもの」(建物・景観・歴史)があるという自負があるのなら、当然それを残そうとするのではないか?
「老朽化」とよく聞くが、それを取り壊した後に、全く同じものを全く同じ材料で新たに造るということは不可能なのだろうか・・・
何故かひどく無意味で、どうでもいいことを書いている気がしてならない・・・
「東京」はわたしの胸の裡にある。そしてわたしとともに滅びる。それでいいじゃないか・・・
ー追記ー
「わたしの生まれたパリの街がドイツ軍の支配下にある限り、わたしの人生にはなんの意味もありません…」
と、シモーヌ・ヴェイユは手紙に認めている。
何故かひどく無意味で、どうでもいいことを書いている気がしてならない・・・
「東京」はわたしの胸の裡にある。そしてわたしとともに滅びる。それでいいじゃないか・・・
ー追記ー
「わたしの生まれたパリの街がドイツ軍の支配下にある限り、わたしの人生にはなんの意味もありません…」
と、シモーヌ・ヴェイユは手紙に認めている。
それほどまでに、生まれ育った場所というものは良きにつけ悪しきにつけ、人間の心に大きな影響を与えうるのだ。それはある意味で第二の母胎であるから。
パリは、いまでもヴェイユの愛した当時のパリのすがたをとどめているだろうか?きっと・・・
Ciao Takeoさん
返信削除私も東京で生まれ、東京で育ちました。
かつての、私が小学校の頃の東京が好きでした。
前にもコメントに書いたと思うのですが、少し前に友人の家を訪ねて、(京王線沿線でした) 私は降りる駅を1つ間違えたのですが、それに気付くまで30分以上かかりました。
そしてそれに気づいた時、ゾッとして妙な嫌悪感に襲われたものです。
なぜこうも飽きる事なく、駅には駅ビル(それもほぼどこも同じなアトレという奴) が付いていないといけないと皆が揃いも揃って、疑問を抱く事もなく思えるのか、不思議で仕方ありません。
そしてどこの駅ビルでも同じテナントで同じものを売る。
同じパン屋に同じスーパー
あそこに行かなきゃ買えない。というのが私は好きです。
だから、デパ地下も大っ嫌いです。
大体お手軽にどこの土地の旨いものも居ながらにして手に入る、それを私はあら、良いじゃない?などとは、とてもじゃあないけど思えないのです。
むしろ興ざめ、味もそっけもないと考えます。
お手軽ほど卑しいものはないと考えるのです。
今日本にいます。
今回羽田空港に着きましたが、羽田国際空港の周辺は、どこもかしこも荒れ果てた巨大な工事現場と化し、1700室のホテルを作っているという看板を見て、私は吐き気を催し思わず一人で毒づきました。
私がオリンピックを反対し、今も軽蔑と共に反対し続けるのは、これ以上東京を壊されたくなかった、という事もあり、そのために、散々反対活動をした挙句諦めました。
私ひとりの力は微少です、奇跡でも起こらない限り、私にもうできる事は何もないと。
しかしながら、オリンピックが終わった後1700室を抱える巨大なデイノザウルスのようなホテルを埋める宿泊客はどこにいるのでしょうか?
皆、長期的な、そして趣味の良い都市計画を持たないのです。
多分、自問自答さえしないのでしょう、ただ、今の数々の建築プロジェクトに酔いしれ、それで多忙を極め、巨額な金が動けばそれでいい、
勝手にしやがれ
勝手に壊れて、死んで行きやがれ 私の街 東京
そう思うしかないのです。
私は、幼少期を品川と目黒の下町で育ちました。
私は、あそこが大好きでした
私は、小学生の時原宿に通っていました。
当時の原宿はステキでした。
高校生の時、六本木にジーンズを買いに行っていました
当時の六本木もステキでした。
大学生の時は、夜中に青山通りにお茶を飲みに行くのが好きでした。
当時の青山もステキでした。
今では見るも無残
あの頃感じた匂いを、ワクワクした大人の「粋なお洒落さ」を感じる事はできません。
私は、今そこに行かなければ行けないとき、なるたけ周りの風景を見ないようにするのです。
何年も前になりますが、こんな経験をしました。
何気なくぼんやりしていたら、私の意識がふっと飛び、私はあの時の品川にいました。
そこには、埃だらけの道と真っ黒だからマックと呼ばれていた野良犬と三軒長屋があり、家々の物干し台があり、その奥には品川湾の運河の小さな支流が流れていました。
空気の匂いもそのままで、、、
アインシュタインが過去は過去ではなく、今も存在し続けていると言ったそうですが、私はその時それを実感しました。
私が「好きだった」東京の、私が「好きだった」場所は、今も生き生き存在し続けているのだと。
私の家のあった品川の下町の釣船が出るあの場所、あの時の地味な原宿、六本木、青山、それら
はあの時のまま、私の中に生き生きと生きており、それは誰も壊すことができません。
少なくとも私はそう信じていますし、そう信じることによって、金に対する欲望で目をギラギラさせた人間がシャベルの刃を地面に突き立て、木を倒し、かつてあった街を破壊する、その痛みから目を反らせることができるかのようです。
これもいつか話しましたが、ローマも刻々と変わっています。
かつてあった帽子屋さんは、ブランドの店になり、昔ながらのおじいちゃんのやっていたバルは皆同じ様相の「ロンドン風」カフェになり、ここもまた「なんてこと無い」街になっていっています。
なぜ変わっていないかのように見えるかと言えば、コロッセオやトレビの泉やスペイン階段は未だそこにあるからです、あそこだけは壊せません。なぜなら、何よりの金づるなのですから、
しかしながら、そこもまた変わっていっているのです。
それも極めてドラスティックに。です。
私がローマに住み始めた時はコロッセオは誰でもただでふらりと入れたものです。
今は、無機質なチケットブースが並んでいます。
そこにはローマの名物でもあって野良猫が本当にたくさん、自由にたむろしていたものですが、猫も一匹もいなくなりました。
猫はどうしたのかと聞いたら、保護したと言います。保護?
パリの美術館を真似たブックショップなどもありませんでした。
私がローマに住み始めた30年前、遺跡はただの遺跡のままで何十世紀も前のその時のように、ただそこに佇み、その存在を私たちに提供してくれていたのです。
イタリアの人々もまた、遠い過去から使い続けていたコーヒーメーカーを使うのをやめ、おぞましい、お手軽なカプセルコーヒーのネスプレッソに変え、ローマの石畳は歩きづらいとアスファルトにしろと事あるごとに市に訴えます。
そして私は、この石畳、サンピエトリーノが無くなった時にローマから去ると決めています。
そんな中で、最近大好きな人に会いました。
おじいさん2人でやっている時計屋さんです。
小さなお店に入ると、2人がそれぞれ作業台に座って作業しています。
まるで昔の、診ただけでどこの具合が悪いのか、一目で言い当てた名医のように、時計の裏蓋をカチリと器用に開けて、やっと治りに来たねと言うような、やさしい目で時計を見、殆どのものを修理してしまいます。
そこに入ると、空気が違います。
彼らは、お愛想笑いをしません。
そして笑っている時も笑っていない時も、全く「人間」です。
私が自分の生に執着がないのは、多分こういう事でもあると思います。
汚い街に、そこに居たいと思わない場所に私の居場所はないのですし、
ああ、大好きだなぁ、素敵だなあと思えない人々と交わす言葉はありませんし、場を共有しようとも思えない。
それでは、私はここで何をしているの? 何がしたいの?と。
こんばんは、Junkoさん。
削除>なぜこうも飽きる事なく、駅には駅ビル(それもほぼどこも同じなアトレという奴) が付いていないといけない
わははは(笑)そうですね。駅ビルイコール「アトレ」って感じですね。わたしが子供のころに住んでいた蒲田の駅ビルも確か今はアトレです。
>あそこに行かなきゃ買えない。というのが私は好きです。
う~ん。でもそれは今は店がネット通販というのをやっているので、稀少な存在かもしれませんね。
>お手軽ほど卑しいものはない
これは全く同感です。正に「卑しい」という表現がぴったりだと思います。
>勝手にしやがれ
勝手に壊れて、死んで行きやがれ 私の街 東京
そう思うしかないのです。
うん。素晴らしいセリフです。一も二もなく共感します。
もうそうとしかいいようがないもんね・・・
>あの頃感じた匂いを、ワクワクした大人の「粋なお洒落さ」を感じる事はできません。
私は、今そこに行かなければ行けないとき、なるたけ周りの風景を見ないようにするのです。
大人のオシャレさ・・・70年代頃のテレビのCMを思い出すと、すべてではないにせよ、「品」があったなと思います。酒でもコーヒーでもね。ひとつの「作品」といってもいいレベルのものも少なくなかったように思います。
わたしはもう今のCMを全く知りませんが、流れている番組の感じからして、ただただ低劣なだけなのでしょう。
>私の家のあった品川の下町の釣船が出るあの場所、あの時の地味な原宿、六本木、青山、それら
はあの時のまま、私の中に生き生きと生きており、それは誰も壊すことができません。
少なくとも私はそう信じていますし、そう信じることによって、金に対する欲望で目をギラギラさせた人間がシャベルの刃を地面に突き立て、木を倒し、かつてあった街を破壊する、その痛みから目を反らせることができるかのようです。
無理やりにでもそう思わなければとても生きていけない。でもそれはやはり現実ではないという思いもあって、心の中で葛藤が生じ、それが病を引き起こすということもあるかもしれない。
昔はよかったということを、以前誰かに「せせら嗤われた」経験があって、おそらく「ありうべき」姿と、「今ある姿」との間の葛藤で苦悩するなんて人間は、ほとんどいないのが現実なのでしょう。そういう人には
「そこに『現実』があるとうけとってしまえば、そこは、或る種の想像力の墓場となる」という 埴谷雄高の言葉も理解はできないでしょう。
以下のローマの現状の話はショックです。「ヨーロッパよ。お前もか!?」という脱力感。やはり世界中がニッポン化しているというのはわたしの思いこみではなかったのか・・・
>そして笑っている時も笑っていない時も、全く「人間」です。
街が変わったというよりも、極論すれば、「地上から人間が消えつつある」と言った方がより近いのかもしれません。
彼らは人間だったという表現はまったく正しい表現だと思います。
◇
>私が自分の生に執着がないのは、多分こういう事でもあると思います。
汚い街に、そこに居たいと思わない場所に私の居場所はないのですし、
ああ、大好きだなぁ、素敵だなあと思えない人々と交わす言葉はありませんし、場を共有しようとも思えない。
それでは、私はここで何をしているの? 何がしたいの?と。
うん。これも全面的に共鳴・・・といまさら言わなくてもわたしはここでそんなことばかり書いているからJunkoさんも先刻ご承知でしょう。
引きこもり対策・支援として、「彼ら彼女らが」「安心して居ることのできる」「居場所」づくりなどとよく耳にしますが、Junkoさんの話の全体を見渡せば、そんなものは所詮は「小手先の上辺だけの対策」でしかないことは明らかです。
それは本当に砂漠の中のオアシスになり得るでしょうか?
99%嫌いな街に、ぽつんと一点だけある「居場所」、それが本当の心の回復にどれだけ役立つのか?
少なくとも日本を、東京を、面としてとらえることはできない。地図の上に、針の先でつついたように、まあなんとか息が付ける場所として、「ここと・・・ここと・・・」とやって、細々と小心翼々として生きるしかない。
最後の5行は正にわたし自身の言葉と言えるでしょう。