● 今日初めてパソコンを開いた。まだコメント欄もチェックしていない。昨日の投稿、ふたつさんには申し訳ないことをしたと思っている。
●「孤」という文字を見ただけで、「孤独」即「孤立」という反応をしてしまうほどに「絶対的孤絶状態」「完全なる孤立無援状態」に置かれている(と感じている)者と、冷静に「孤独」と「孤立」の違いを語ることのできる人間との間に、そもそも架橋が可能だろうか?
●「吊るしの背広・・・」でのふたつさんの最初のコメントについて。
「ぼくの場合は、やはり、いくら『死にたい』と言っている人が居ても『じゃ、死ねば』とは言いませんし、その人の「死」を手伝おうとは思いません。」
そうか・・・わたしは映画『バタフライ・キス』について書いたように、ほんとうに愛する人(=「恋人」のことではない)が苦しんで苦しんで、死にたいから手を貸してと言われれば、断れない。「断れない」というよりも、寧ろ積極的に「愛する人を苦痛から解放してあげたい」と思う・・・そのようないわば「自殺を助ける」映画として、『裁きは終わりぬ』『海を飛ぶ夢』(あの時は『空を飛ぶ夢』と間違えて書いてしまった。訂正します)それから更には『ミリオンダラー・ベイビー』もそうだろうし、見方によってはこれもわたしの大好きな映画、アラン・パーカー監督の『ライフ・オブ・デヴィッド・ゲイル』もこの範疇に入るかもしれない。『母の眠り』は?
そして例えば森鷗外の「高瀬舟」はどうだろうか?
あの状況で、「殺さずにいられる」ものだろうか・・・
● これも同じコメントからの言葉
「また、これは、あくまで、ぼくの中での勝手な解釈ですが、「終末期医療」における「安楽死」は、「死の手伝い」ではなく、「苦痛の軽減」だと思っています。
切り詰めて行ってしまえば、「肉体的な苦痛の軽減」です。
要するに、ぼくは、「肉体的な苦痛」は「無い方がいいモノ」だと思っていて、「精神的な苦悩」は「有ってもいいモノ」のように感じているんだと思います。
もちろん、「精神的な苦悩」が「肉体的な苦痛」よりも軽いということではありません。
しかし、どうしてなのかははっきりしませんが、「肉体的な苦痛」に関しては『無くせるモノなら無くしてしまえばいいじゃないか』と思えるんですが、「精神的な苦悩」に関しては、『そんなもの無くしてしまえばいいじゃないか』とは思えません。
つまり、同じ「苦しむために生きている状態」であっても、それが「肉体的な苦痛」の場合は、切り捨てられるのに、「精神的な苦悩」だと切り捨てられないんですね。
理由はわかりません。」
要するに、ぼくは、「肉体的な苦痛」は「無い方がいいモノ」だと思っていて、「精神的な苦悩」は「有ってもいいモノ」のように感じているんだと思います。
もちろん、「精神的な苦悩」が「肉体的な苦痛」よりも軽いということではありません。
しかし、どうしてなのかははっきりしませんが、「肉体的な苦痛」に関しては『無くせるモノなら無くしてしまえばいいじゃないか』と思えるんですが、「精神的な苦悩」に関しては、『そんなもの無くしてしまえばいいじゃないか』とは思えません。
つまり、同じ「苦しむために生きている状態」であっても、それが「肉体的な苦痛」の場合は、切り捨てられるのに、「精神的な苦悩」だと切り捨てられないんですね。
理由はわかりません。」
簡潔な名文だ。
わたしがここに書いていることも、ふたつさんには、
「これは、あくまで、ぼくの中での勝手な解釈ですが」と受け取ってもらいたい。
わたしはただ、ふたつさんの言葉を借りて、自分の思いを述べようとしているだけで、
ふたつさんの意見への反論の意図は毛頭ない。
わたしは考え抜いた挙句、結局ふたつさんの言われている(個性・才能における)「量」と「質」の関係がつかめなかった。
上の文章でも同じことが言える。精神的な苦痛に「量的」な、或いは「質的」な「差」というものがあるのだろうか?
しかしこれは「量」の問題ではなく、あくまでも、わたしという「器」の問題ではないかと思う。つまり「孤独」ということについても、他の人、「ふつうの人」は、1トンくらいの重さには耐えられるが、わたしは2キロの孤独を背負っただけで、斃れ伏してしまう・・・というような、受け手の側の耐久力の問題ではないだろうか。
わたしは最近精神科に足を運んでいないが、それはそもそも、「精神科とは何をするところなのか?」ということがわかっていないからに他ならない。
わたしは昨日の投稿でこう書いた。
風ってこんなに気持ちのいいものなんだと、改めて感じました。
けれどもわたしは外に出ることができません。何故なら外にはスマホバカがいて、歩きたばこバカがいて、アイドリングバカがいて、スマホバカがいて、どこからかたばこの煙が漂ってきて、エンジンをかけた車の中ではバカがスマホをいじっていて・・・」
これがわたしが「外に出られない理由」(の「一部」)だ。そしてわたしは外に出られないことで苦しんでいる。さてでは、精神科に赴いたら、上に書いたような状況が魔法のように消え去るのだろうか?そうでない以上、わたしの苦しみはなにも解決もされず、軽減もされることもない。
ふたたびふたつさんの言葉
「同じ「苦しむために生きている状態」であっても、それが「肉体的な苦痛」の場合は、切り捨てられるのに、「精神的な苦悩」だと切り捨てられないんですね。
理由はわかりません。」
わたしも全く同意見だ。つまり精神的な苦痛はその人の心の在り方、価値観や人生観、美意識と密接につながっている。
わたしの大嫌いな言葉に「他者を変えられない以上、自分が変わるしかない」という唾棄すべき言葉がある。
自分が変わるということは、それはそのままもう自分ではなくなるということを意味する。
無論変節漢が、「これが新しい自分」ということは勝手だ、しかしわたしはあくまでも「これまでの自分」に拘りたい。仮にそのために生きてゆけなくなったとしても、自分を変えてまで生きている意味をわたしは見出すことができない。
精神的な苦痛を安易に切り捨てられない理由は、それが、「その人がその人であるが故の痛みであり苦しみであり悲しみ」であるからだ。
とはいえ、この、「わたしであるが故の精神的な苦痛」は既にわたしの限界を超えようとしている。そしてもうこれ以上は生きられないほどになっていることも、また厳然たる事実なのだ。
● わたしは精神科よりも、脳の状態について知りたい。なによりも知りたいのは、わたしが子供のころから30代まで苦しめられてきた発作(?)について。あれはいったい何なのか?
見慣れた道を歩いていて、突然自分は今どこにいて、どこへ向かおうとしているのか?という感覚。初めて降りた駅なのに見たことがある気がして、現に、この奥にトイレがある、と思うと実際にある。
一般には「既視感」(デ・ジャヴ)そして「未視感」(ジャミ・ヴ)と呼ばれているが、
単にそういう感覚があるだけではなく、自分という一つのまとまった存在が粒子のように粉々になって飛散するような感覚、「非在」を存在している・・・とでもいった、表現しがたい、そしてとてつもなく恐ろしい感覚、あれはいったい何だったのか?
現にわたしはこの感覚が連続して続いた時に、とても生きていけないと思った。
わたしが医学書を覗いた限り、一番近い症状に思われたのは、「癲癇の精神発作」のようであった。(癲癇には「神経発作」というものもあり、しかしそれはわたしの「感覚」とは異なっているように思われた。)
今現在、このようなぎりぎりの精神状態にあって、「例の発作」がまた再発しないという保証はどこにもない。
● 今日家でちょっと暴れた。誰かに向かってではなかったが。
そして先日の二つの殺人事件を振り返り、自分は「わたしは決して人を殺さない」などとは口が裂けても言えないとつくづく思った。
同時に、「人を殺すな、自分も死ぬな」と軽々しく口にする人間の恐るべき無神経・無責任さに心からの軽蔑を覚え、「絶望しないで助けを求めてください」と言う人間に対するほとんど憎悪に近い感情をも・・・
それは罪のない人が殺されたことへの怒りではない。
そう言っている者たちが、どういう理由においてか、どのような根拠に於いてか、はたまたいかなる「神との契約」に依ってか、なにやら「自分は決して、決して人を殺しません」という確信のようなものを持っていることに驚愕するのだ。
こんにちは, Takeo さん.
返信削除私にとって, Takeo さんのブログを読むことは安心を与えてくれます. 安心というのは言葉の間違いではなく, その通りの意味です.
Takeo さんの文章には何か確かなものがあると思うからです.
「精神的な苦痛」の中にありながら, Takeo さんはその痛みや苦悩を自ら引き受けています. 私もそうありたいと願う者ですが, 私にとって実際に苦痛のただ中にあるときには引き受けるのはとても難しいことです. それでも, 精神的な苦悩をどこかで認めるという Takeo さんとふたつさんの態度には同意したいです. その態度を文章表現によって提示してくれたことをありがたく思います.
私はこのところ, 自分が居るということを不確かに感じています. ふわふわしていて居場所が定まっていない感じもします. その中にあって, 状況も文脈も異なりますが, Takeo さんが書いた「見慣れた道を歩いていて、突然自分は今どこにいて、どこへ向かおうとしているのか?という感覚。」という一文は私の現在の状態をかなり正しく表わしていると思いました. 私自身がどこかでそのような言葉を探していて, 見つからずにいたものが見つかった気がしています. 今感じている自分が消えてしまいそうな感覚, 自分のあまりの矮小さへの嫌悪, そう言ったものを直視できるかも知れません. そこに自らの唯一性を見出だすことができるかも知れません. ありがとう.
言葉というのは恐ろしいもので, 時に凶器となり肉体や精神を殺します. それは実際に過去何度かに渡って, 確かに私の精神を破壊したものです.
一方で今回の「自分は今どこにいて、どこに向かおうとしているのか?」との言葉は大切にしたいです. あらためて考えてみようと思います.
自分のことばかり書いてごめんなさい. 今回の文章には, Takeo さんの精神の苦しみと混乱が強く表われているようで読むのが少し辛いものでした. 本当に苦しみはその人そのものだと思います. Takeo さんの体調が回復することを願っています.
思ったことを書きました. また.
こんばんは、底彦さん。
削除確かにわたしは、ひとりも読者がいないということが明白であっても、書くことを止めないでしょう。けれども、同時に、今の弱った(心も、体も、思考力も)わたしにとって、この4人の充実したコメントは、支えでもあるし、その内容を補完するものでもあるのです。
底彦さんは「安心」という言葉を使ってこのブログを評されました。書き手からすると、自分のこのブログからもっとも縁遠い褒め言葉という気がします。
わたしにとって「安心」というのは、例えばクマのぬいぐるみのような、ふかふかして柔らかくてあったかくて、包み込んでくれるような・・・そんな「春風駘蕩」としたものなので、「秋霜烈日」・・・なんてカッコいいものではありませんが、「狂気」を帯びたわたしの文章に安心という言葉を選ばれたことが不思議であり、またとても興味深くもあります。あ、決してわたしは「安心」という言葉に抵抗を感じているということではありませんし、意外な褒め言葉を喜んでいます。
◇
>私にとって実際に苦痛のただ中にあるときには引き受けるのはとても難しいことです.
当然です。わたしは精神的な苦痛を引き受けていて、底彦さんは引き受けられていないなどと誰が言えるでしょう。わたしは底彦さんの日記を読むたびに、自分ならとても生きていられないと、しばしば思います。わたしはもう単純に、底彦さんを「すごい」と思っています。
◇
まだ10歳に満たないころから、30代まで、不定期にわたしを苦しめた、得体のしれない発作について、あれが何なのかを知りたいと思ったのです。
そして「その感覚」だけが単独に存在しているのではなく、わたしの考え方、ものの観方に何かしら関連があるのではないかと思うのです。
(これはゴーギャンの大作「われわれはナニモノカ?どこからきて、どこへ行くのか?」の真似ではありません(笑))
◇
底彦さんはずっとわたしの文章、日記を読み続けてくださっています。
ひとつ質問してもいいですか?
底彦さんにとって精神科医=(精神医療)とは端的に言ってなんですか?
また、しきりに精神医療を否定し続けるわたしの文章をどう感じていますか?
こんなことをわたしはもう、保健所の保健師や精神保健救死センターの相談員に訊くつもりはありません。底彦さんだからお聞きしています。
いつか気が向いた時に、よかったら聞かせてください。
◇
底彦さんが、ご自身に卑小さ、矮小さを感じ、それで苦しんでいることについて、わたしは「そんなことありませんよ」という気はありません。
前の投稿に書いたように、わたしも同じように、自己嫌悪に苦しんでいます。
でもわたしは、とことんねじ曲がっているせいか、「そんなことないよ」という言葉にどうしても反発を覚えてしまうのです。
わたしが言えることは、どんなに矮小であっても、今の底彦さんが好きだということだけです。
思ったことを書いてください。わたしがふたつさんの言葉に助けられているように、
ここをメモ代わりに使ってくださっていいんです。
最後に冒頭のわたしの言葉、気分を損なわれたら深くお詫びします。
お話を聞かせてくださりありがとうございました。
どうか平穏な週末を過ごされますよう。
こんにちは, Takeo さん.
削除確かに私は Takeo さんのブログに安心を感じると書きました. この場所は, たとえば私のような病んだ者が自由に存在できる空気があります. 理由ははっきりとはわかりません. おそらく Takeo さんの弱った者, 倒れそうな者に対する眼差しの柔らかさがそのような空気を許しているのでしょう.
ここでは読むのも書き込むのも, 体裁を整えたり, 虚勢を張ったりといった, 私にとってほぼ不可能なことをしなくて済みます. それは安心を生み出しています.
> 底彦さんにとって精神科医=(精神医療)とは端的に言ってなんですか?
> また、しきりに精神医療を否定し続けるわたしの文章をどう感じていますか?
精神科にかかってもう随分年数が経っているので, 精神科医, 精神医療に対する私の考えもいろいろと変わってきました.
現在の私は, 苦しみからの解放を望んでいます. そして鬱病が自分にとって何であるのか, この病の中でどう生きられるのかを知りたいと思っています.
背景には, この病気が私自身の生来の気質や生きてきた環境と深く関わっているということがあります. 治ること (寛解) は無理かも知れないと考えるようになってきています.
精神医療は一つには, 私のそんな風な考えの手助けをしてくれるものと言えるでしょうね.
薬は体調をある程度安定させてくれるものです.
デイケアで他のメンバーと過ごす時間は, ちょうどこのブログのように私に安心を与えてくれます. 私にとってはデイケアに参加して穏やかな時間を得ることが大きな意味を持っています.
私と主治医との問診はいつも 5 分もかからずに終わります. 主治医が私に繰り返し言うことは「無理をしないでください」ということです. そしてその時々の症状に応じた薬を処方してくれます.
現在の精神医療では, 精神科医の果たす役割は患者に適切なメッセージを伝えることと, 薬を正しく処方することが大きいのではないかと思います. 患者と少し時間をかけて話し合って心理療法を行うのはカウンセラーがその役割を担っていますが, カウンセラーはそういうことの専門家ですからそれがいいのでしょう.
一人, 15 年ほど前に私を診てくれた老齢の主治医は, 私と時間をかけて話し合い, 私がある意味で "なるべくして" 鬱病になったことを明らかにし, 私の症状がどのようなものなのかを理由立てて解き明かしてくれました. 診察というよりは精神分析という印象を持ちました. 私はこの主治医に感謝しています.
古典的な精神科医とは, こういう診察を行う人たちだったのかも知れないと勝手に想像しています. それはちょうど, 中井久夫氏や木村敏氏の書籍を読んだときに抱くような感覚と言えば伝わりやすいかと思います.
現時点では私は, 精神医療とは, 自己がどのように在りたいかを, 対話によって助けるものであってくれれば良いと願っています. 脳科学の進歩によって精神医療にも科学的な手法が取り入れられつつあります. 完全な治癒ということも可能になる時代が来るかも知れません.
けれどもその「完全な治癒」が私には若干恐ろしくもあります. 苦しみからは解放されたいが, 心の病はその人の自我と深く関わっている場合があることを思うからですね. 「完全な治癒」が暴力的に行使されることを恐れているのです. 私は旧い人間です.
疲れてきたので, 続きはまた書きます.
Ciao Takeo さん
返信削除精神的苦痛と肉体的苦痛に関して、、
> 精神的な苦痛に「量的」な、或いは「質的」な「差」というものがあるのだろうか?
精神的苦痛のみならず、肉体的苦痛にも同じことが言えると私は考えています
私は精神的苦痛を切り捨てられないのと同じく、肉体的苦痛も切り捨てたくないと考えています。でも、それは「ある程度までの苦痛であれば」です。
私がチャラチャラと精神的苦痛も肉体的苦痛も切り捨てたくない、などと言えるのは、私がそこまでの、つまりこんなことなら殺してくれと言わずには居られないほどの苦痛を、精神的であれ、肉体的であれ、まだ味わったことがないからです。
ですから、その苦痛を切り捨てるとか、ない方がいいものにするとか、という事は量的な、あるいは質的な差によって、と語られるのではないかと思います。
少し前に子亀の1匹を失って、打ちひしがれている私に友人が、君の感情の動きは19世紀のそれだと、今の人は、忙しいのでいろんなことが体の中に留まってる暇がなく、
うれしいことも辛いこともそれをきっと体が納得するまで味わうことがないのだと言われたと書きましたが、そうやって哀しみも苦しみも、そして喜びさえ、そんな事に時間をかけるのは無駄でしかない、とばかりスマートフォンを操作するように指でさらっと削除し、それで済ませる事の出来る生き物ってなんなんだろうと思います。
Takeoさんもこの間どなたかのお返事に書いてらっしゃいましたが、私も哀しみとか苦しさって美しいと思っているのですね。
生きることの本質はそこはかとない哀しさにあり、嬉しい事、有難い事は一年のほんのすこしの時期に咲き、すぐに散っていく花たちのようだと、花は散るから美しいのだとそう思うので、
うまく言えないのですが、生っていずれ終わるという儚さの後ろ盾があってこそ、美しいと感じられるのではないかと、
感情を噛みしめることを、また思考によって苦悶することを、面倒くさいと厄介だと、自分に都合のいいように切ったり貼ったり、捨てたりできる人の思考回路を私は理解しません。
そしてそう言う世界を私は簡単で気楽でいいね。などとは決して思えないのです
つまり私には「ある程度」の苦痛が必要です
肉体的苦痛もしかり、それは「あくまでも私にとって」ですが、肉体的苦痛とは、私の細胞の声であり、生きているからこそ感じることのできる生きている証であり、
あえて苦痛を求めているわけではありませんが、じゃあ、それが全くなかったら?と考えると、そんな世界はごめんだと私は言うでしょう。
私にとっては、苦痛より、麻痺という「何も感じない」「全てが不在。よって空虚な、」そんな状況の方がよっぽど気味の悪い恐ろしいもので、麻痺なら苦痛を選びます。
そして、あらゆる苦痛が不在で、皆がお手軽に全てを指先一本で済ませる世界
そこに拡がるのは、ただ荒涼とした、軽くておかしな不毛な世界、つまり今の世の中のようなものであると、そう思います
こんばんは、Junkoさん。
削除考えてしまいますね。精神的な苦しみ悲しみが不可欠であるのと同じように、身体的な痛みも必要だ。と言われると、一笑に付すことはできませんが、やはり考え込んでしまいます。
わたしにとって、仮に、肉体的な苦痛があった方がいいといえるとしたら、それは、身体という形而下的なものの苦痛が、苦しみが、精神性を生み出す要因になり得るから、という点に於いてだと思います。
辺見庸の世界観人生観は、彼が脳出血で倒れて、右半身マヒになってから、目に見えて深まりました。身体の障害は、おそらく、精神の深度を深めるのでしょう。
当然普通の人と違う不自由な身体で生きることの意味や、人生の不条理性について考えるであろうから。
昔から「病は魂を耕す」と言います。そしてそれは「心の病は」という限定つきではありません。
確かに、痛み苦痛に向き合ったときに、つまり「死」を想起させるものに向き合ったとき、人は生について沈思するのでしょう。
>でも、それは「ある程度までの苦痛であれば」です。
まったく同感です(苦笑)情けないけど。
◇
先日ふたつさんと、別の文脈ですが、「無駄な時間」について話しました。
子ガメの亡骸を手にして、日の暮れるまで電気持つ点けずにぼうっとしていることが果たして時間の無駄といえるか?断じて「否!」。
逆に「忙しい」ということは時間を、すなわち人生を無駄にしているということに他なりません。
何故なら、自分の行為、自分の言葉を、成したそばから、発したそばから忘れているのですから。ジジイのようなことを言いますが、「忙しい」とは「心」を「亡くす」と書く・・・(笑)
◇
>生っていずれ終わるという儚さの後ろ盾があってこそ、美しいと感じられるのではないかと、
そう、だからわたしは秋が好きなのだと思います。
枯葉が、病葉が好きなんだと思います。
「花は散るから美しい」、もそうですが、わたしは世阿弥が「花伝書」に記した。
「花の萎れたる風情、かえすがえすも大事なれ」という言葉に深く共鳴します。
衰えることの中に潜む美しさ・・・
◇
>あらゆる苦痛が不在で、皆がお手軽に全てを指先一本で済ませる世界
そこに拡がるのは、ただ荒涼とした、軽くておかしな不毛な世界、つまり今の世の中のようなものであると、そう思います
全くその通りだと思います。
悲しみでも、うれしさでも、喜びでも、じんわりと身に、魂に染み込ませるには、何よりも時間が必要です。
そしてプラスチックの板にはなにも沁みこむことはできません・・・
コメントどうもありがとう。
哲学的な話はわかりませんが、医学的な言葉を使えば、その”発作”というの離人症のことではないでしょうか
返信削除多くの精神病者が経験する症状で、人それぞれ表現法は異なりますが、現実感の喪失をそう呼びます
あれ?優介さんて、あの優介さん?
削除ブログ村が変わって、フォローしていたブログが見にくくなったので、主なブログはここにリンクを移しました。
あまり見に行ってないけど、牛乳拭いた・・・は非常に哲学的なブログだと思っています。だからフォローはやめられないのです。
「離人症」という言葉は聞いたことがあります。精神科の領域ということなんですね。情報をどうもありがとう。
でも驚いた。優介さんからのコメントなんて^^
わたしがフォローしているブログで頻繁に更新しているのは優介さんのブログだけのようです。
あ、その優介さんで間違いないと思います
削除このブログはたまに読んでいるんですが、僕はあまりに無責任な人間なので、よそ様のブログにコメントするのは中々気が引けてしまって…
自分のブログだけは、好き勝手やっています
Takeoさん、こんにちは。
返信削除この前のコメントで、「精神的な苦悩」と「肉体的な苦痛」というふうに、きっぱりと分けてしまいましたが、実を言えば、「苦しみ」はすべて精神的なものなのだろうということを思いました。
たぶん、ぼくが言いたかったのは、「肉体に端を発した苦痛」と「精神の中で生み出された苦悩」と言うようなことだったような気がします。
そして、「すべての苦しみ」についていえば、「量」や「質」の「差」はあると思いますが、「小さい苦しみ」=「楽ちん」ではないですし、「大きい苦しみ」=「死」ではありません。
また、「苦しみの質」に関しても、「いかなる質の苦しみ」であっても、「楽ちん」であることはないわけですし、「=死」ではないと思います。
(例えば、指にささくれが出来たくらいでも気になってしょうがないわけですから、鼻の頭にオデキなんかできれば、本人にとっては大惨事ですよね)
「楽ちん」であれば、それを「苦しみ」とは言いませんし、「死」もまた、「苦しみからの解放」に他なりませんから。
つまり、すべての「苦しみ」が、「楽」と「死」の間にあるということですね。
かなり大雑把な言い方に成ってしまいますが、「死」に近いほど「苦しみ」が大きくなるというように、ぼくは解釈しています。
すいません、それだけです。
たぶん、役に立ちません。
それから、「個性」と「才能」についてですが、ぼくが一番言いたかったのは、実は、本当の意味での「個性や才能」と言うよりも、世間では、「良い個性」だけが「個性」と言われ、「大きい才能」だけが「才能」と呼ばれてしまうということです。
もっと単刀直入に、『Takeoさんは、「天才の才能」や「有名人の個性」を、「凡人の才能」や「一般人の個性」よりも、より「才能」であり、より「個性」であると思いますか?』と聞けばよかったのかもしれません。
「才能や個性」に「量的な差」を認めてしまうと、どうしても、そちらの方向へ行かざるを得なくなってしまうのは確かなことですし、まして、大多数の人は、「天才」という言葉や、「有名」と言う呪文に拘束されてしまいます。
なにせ、ごく小さい時から、そういうことばかり刷り込まれているわけですから、当然だと思います。
だから、それを責める気持ちにはなりませんが、ぼくが、そういったことを『おかしい』と思うのも、また、どうしようもないことなので、困ることがとても多いということです。
(そういうことを言ったとたんに怒り出す人がたくさんいるので)
自分が、なんでそう思うようになったのかはわかりませんが、たぶん、ほとんどが偶然だと思います。
でも、まぁ、実際には、まったく「量的な差」がないというよりは、一般的に考えられているよりもはるかに「差」が小さいということだと思います。
たとえば、「質の差」があるということ自体が、「量の差」に変換されるという考え方は成り立つでしょう。
しかし、「質」の違うものを比べて、その「量の差」を測ることには、ほとんど意味がありません。
たとえば、「100メートル走」の世界記録と、「マラソン」の世界記録を比べて、どちらがより素晴らしいかを測ることが、もしも可能であったとしても、そこに意味はありません。
ここで、どうしても「世界記録」と言うことに惑わされますが、実は世界記録同士を比べることに意味がないのと同じように、平凡な記録同士を比べることにも、意味はないですし、そうなれば、平凡な記録と世界記録を比べることにも意味はないということです。
それは『ただ単に、比べることが出来る』ということに過ぎませんし、そこで、それらを測るのに使われる物差しは、けっきょく「世間的な評価」であり「誰かの利益」に他ならないわけです。
「足が速いこと」は「足が遅いこと」よりも、エライと言う絶対的な思い込みこそが、「個性や才能」の「量の差」を生み出していると思います。
でも、実際には「足が遅いこと」が、何らかの価値を持つ場合もありますし、もしも、価値がなくても、そこに「意味」があるということを否定できる人は居ないはずです。
たとえば、JUNKOさんのように「足の遅い」亀の子を愛している人が居ることはだれにも否定できないことですから。
そう考えれば、「個性や才能」においては、「量の差」が限りなく「0」に近い、あるいは、その「差」を人間が測ることはできないということに成ります。
要するに、「限りなく0に近いモノ」を『差がない』と言ってもいいだろうということです。
そして、ぼくが一番言いたいことは、上に書いたようなことにおいてもそうですし、それ以外のありとあらゆることに関して言えることだと思いますが、現在の社会においては、あらゆることが「逆転」していると思うわけです。
もともと、「才能」という言葉は、その昔、ある「一つの頂点」を設定していたことで成り立っていた言葉です。
つまり、その「頂点に近い者」を「天才」と呼んでいたわけです。
「個性」は、どちらかと言えば多様性を認める言葉ではありますが、それも、けっきょく、「一つの頂点」に向かう絶対性の前では、ほとんどの意味と失ってしまいますから、その時代は頂点に近い「輝く個性」と、それよりも劣る「平凡な個性」があって、「才能」においても「個性」においても「量の差」があると考えることが出来たんだと思います。
「宗教」においては、「神」も、そういう「頂点」を意味する言葉だったと思います。
つまり、「神」は、常に「最大かつ最上かつ最善」の、まさに「頂点」であったということでしょう。
しかし、現在は、そういう「頂点」を設定することが難しくなっている時代です。
もし、何らの「頂点」を設定することが出来たとしても、「現在」においては、それがいつの間にかひっくり返って「逆転」してしまいます。
たとえば、「原子力」が「夢のエネルギー」であるのか、「死のエネルギー」であるのかは、もう、だれにも結論を導き出せなくなっています。
つまり、ここでは、「価値」が「逆転」する可能性があるわけですし、それは、いつも「逆転」を内包している状態ともいえるわけです。
これは、「原子力」のように極端なことだけでもなく、例えば、「自動車」一つとっても、それによって死んでいる人が結構たくさんいるのは間違いないことですが、誰も『自動車は、もうやめよう』とは言いません。
少なくとも、誰も「悪意」を持っていないのに、人が死ぬような乗り物は「夢の乗り物」ではないはずです。
「引きこもり」が子供を殺すと、大騒ぎになりますが、その騒いでいる本人が車に乗っていたりします。
その人は、明日、居眠り運転で大事故を起こすかもしれません。
これは、だれにも否定しようのない事実です。
ただ、その事故が、まだ起きていないというだけです。
だから、まだ「罪」でも「罰」でもありませんが、その「日常的な乗り物」の中に「逆転」が内包されているということです。
ちょっと、話がそれてしまいましたが、とにかく、ぼくは、この「現在」と言う時代が、内包している「逆転現象」こそが、あらゆる問題を深刻にしている原因の最たるものだと思っていて、その「逆転」を誘発したのが「芸術の20世紀」と言う時代であると考えているわけです。
まぁ、この話も、誰の役にも立ちませんけど、そんなことです。
それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除役に立つとか、助けになる話なんてのは、まあたいていは説教染みていて、誰もが言っていそうなこと。わたしは役になんか立たないその人独自の意見、考えを聞きたいのです。
先ず最初の部分、苦痛に関して、よくわかります。
>すいません、それだけです。
たぶん、役に立ちません。
いや、それでいいんじゃないでしょうか。少なくともわたしは面白く読んでいます。
◇
>ぼくが一番言いたかったのは、実は、本当の意味での「個性や才能」と言うよりも、世間では、「良い個性」だけが「個性」と言われ、「大きい才能」だけが「才能」と呼ばれてしまうということです。
これは確かに仰る通りで、読んでいて笑ってしまいました。
「個性」とは文字通り「個別性」であって、「赤」はいい色、「黒」は悪い色なんて誰も言えないのと同じですよね。無論「スキ・キライ」はあっていいでしょうが、「多数の嫌い」が寄り集まって、いつの間にか「悪い」になってしまっている。
>もっと単刀直入に、『Takeoさんは、「天才の才能」や「有名人の個性」を、「凡人の才能」や「一般人の個性」よりも、より「才能」であり、より「個性」であると思いますか?』と聞けばよかったのかもしれません。
わたしは「天才」は認めますが、「有名人」というのはどうしても好きになれません。もちろんカラヴァッジョやバッハのような「有名な天才」は別です。
「吊るしの背広」でブルース・メンが有名になることについての抵抗・・・読んでいただけたでしょうか?
この「才能=個性」と「有名性」との間のジレンマは、わたしにとっては常に大きな問題です。
所謂ジェラシーとか劣等感というやつですが、先のお話で、見出され、脚光を浴びたブルース・メンと、無名極貧のうちに生涯を終えたミュージシャン。仮に後者が、有名になった者に対し、激しい嫉妬と羨望を感じたとしても、わたしはその感情を全く否定できないのです。言い換えれば、その嫉妬や羨望の眼差し、狂おしい気持ち。妬み・・・正にそれこそが「ブルース」ではないのかと思うのです。
嫉妬、劣等感って、醜い感情でしょうか?或いはそうかもしれません。
では人間て、そもそも醜くない生き物なのでしょうか?
「否」。
つまり「それが人間ってやつです」
人間の感情に綺麗も汚いもない。それがあると思う者には芸術も文学も理解することは不可能でしょう。
ジェラシーや劣等感を可能な限り消毒去勢しようとする。とにかく避ける、遠ざける。そういう感情を持つべきではないという発想こそいびつだし、正に『素晴らしき新世界』=モダン・ワールドです。
わたしが自分のブログに決して、ゴッホや、シーレやモネを貼らないのは、単に彼らが「有名だから」です。彼らは天才でしょう。でも有名すぎるから嫌いです。
わたしは「非凡」でありたいのです。そして「非凡」であるということは、誰も彼もが理解できるものであるはずがないと思っています。まあこのあたりは難しい議論になりますのでわたしにはちょっと無理ですが。
>「足が速いこと」は「足が遅いこと」よりも、エライと言う絶対的な思い込みこそが、「個性や才能」の「量の差」を生み出していると思います。
皆が同じように足が早かったら、足の速い人なんて存在しない。
皆がテストで全員が100点を取れば、頭のいい人なんていなくなるのと同じです。
つまり極端な言い方をすれば、足が速いのは、足の遅い人のおかげといえるのです。
相対的でない絶対的な速さ・遅さなどというものは存在しません。
最後に「逆転現象」についてですが、わたしは、あらゆる価値は多義的であり、また両義的なものではないかと思います。
「頂点」とか「絶対なる善」というものが仮構されることによって、序列が生まれ、悪が生じるのだと。
>「原子力」が「夢のエネルギー」であるのか、「死のエネルギー」であるのか
核を夢のエネルギーだと思えていたのがそうではなくなったのは、「価値の逆転」ではなく、核融合の恐るべき負の要素に目が注がれたからに他なりません。
「絶対」と思っているのは、単に、一側面しか見ていないからに他なりません。
「ロバート・ジョンソンは神だ」と思うことに間違いはありません。けれども、それはその人にとっての絶対的価値に他なりません。
わたしは辺見庸の意外な一面を見ました。けれどもそれはわたしの中での価値の逆転、というよりも、新たな発見と言った方がより正確でしょう。
>「引きこもり」が子供を殺すと、大騒ぎになりますが、その騒いでいる本人が車に乗っていたりします。
その人は、明日、居眠り運転で大事故を起こすかもしれません。
これは、だれにも否定しようのない事実です。
>ただ、その事故が、まだ起きていないというだけです。
だから、まだ「罪」でも「罰」でもありませんが、その「日常的な乗り物」の中に「逆転」が内包されているということです。
これはよくわかります。この逆転というのはわかりやすい。
無論そういうと、「故意」と「過失」とでは全然違うという人がほとんどでしょう。
しかしそれは厳密に言えば「未必の故意」というべきであって、全くの「過失」「アクシデント」とは言えないと思います。
どうも、反論めいたことを書きましたが、思ったことを率直に伝えるしか能がないので、まあ大目に見てください。わたしは「自分が正しい」と思って書いたり話したりしたことはありません。「これは正しい」「これはこうなんだ!」ということはあっても、あくまでもそれは、「わたしにとって」の正しさでしかありません。
そしてふたつさんのコメントをいつもたのしみにしていると付け加えておきます。