2019年6月8日

「孤独」と「孤立」その2


ほんらいなら、最初にわたしにとっての「孤独」乃至「孤立」とはどのようなものかという定義を示すべきなのだろう。けれどもそれが容易ではない。

「群盲象ヲ撫ス」ということわざがある。

象というものを知らない盲人たちが、それぞれ象の身体に触れて、ゾウとはいかなるものかを知ろうとする。鼻を触った盲人は「長くて、しきりに動いているもの」といい、胴体を撫でているものは、「弾力のある壁のようなもの」といい、尻尾を握った者は、「ひものようなものです」という。

誰も間違ってはいない。どれもが「象」なのだ。
およそ「解釈」とはこのようなものではないだろうか。
ひとはその者の位置から見、聞いたもので判断する。われわれは誰しも彼らと同じ「群盲」である。

だからわたしにとっての「孤独」は・・・といっても、孤独とはつまりこういうものだということはできない。心のありか、在り方というものは固定されたものではないから。

一問一答形式でやってみる。

Q:あなたは今孤独ですか?孤独を感じていますか?

A:はい。

Q:それは何故ですか?

A:・・・・(しばし沈黙)── 誰とも繋がっていないという感じがあるからです。

Q:ではつながるとはどういう状態ですか?

A:わかりません

Q:孤独あるいは孤立とは何かの欠如ですか?

A:そうかもしれないし、何かの過剰かもしれません。

Q:あなたにとって孤独ではない状態とはどのような状態ですか?

A:わかりません。

Q:何故「孤独」と「孤立」は同じものだと思われるのですか?

A:「寄る辺のなさ」という共通項があるからです。

Q:「寄る辺」とはどのようなものですか?

A:う~ん。心から安心できる場。守られている。包み込まれている、という感覚でしょうか。

Q:それは何か神秘的・宗教的な体験のようなものですか?

A:違います。あくまで現世的・人間的なものです。これはそもそも日本には存在しない外来種の概念だと思いますが、一言でいえば「愛」、でしょうか?

Q:では最後に、孤独は怖いですか?

A:はい。もちろん。

Q:では当然「孤独死」も怖いですね。

A:いいえ。まったく。わたしに「孤独死」はありませんが、例えば、有名な大病院のベッドで死ぬのと、河原で一人ぼっちで死ぬのと、どちらを選ぶかと訊かれれば、一も二もなく後者を選びます。第一、大病院には野良猫も野良犬も乞食もいませんからね。さびしい。

Q:現実にそういう存在がいるいないはともかく、親兄弟親類縁者よりも、野良猫野良犬のそばで死にたいと仰るのですか?

A:はい。



わたしにはまだ母がいる。だから現時点では「完璧な孤独・孤立状態」ではない。
けれども、母の存在がなくなった瞬間に、わたしは完璧な、文字通り完璧な孤独・孤立状態に陥る。だからわたしはすぐさまそこから逃げ出さなければならない。

確かにわたしは上の質問で
「あなたにとって孤独ではない状態とはどのような状態ですか?」という問いに
「わかりません。」と答えている。

しかしただひとつだけ、孤独ではない状態=厳密には孤独から逃れる途がある。つまり孤独とは「生きているから」生じる状態であり感覚に他ならないということだ。








3 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    孤独と孤立の問題に関しては, 私もずっと考え続けています. 今回, Takeo さんの考えの一端でも知ることができてよかったと思います.

    以前の『誰が狂っているのか…何が狂っているのか…(ふたつさんへの返信に代えて)』で引用されていた, 宮子あずささんの記事が言っていることは, 私にはよくわかりませんでした. 詳しく読み解くことはしませんが, 宮子さんの文章自体もまた, 事件をそれが本来検証される文脈から, 他の多くの方々がしているような一般のひきこもりの人たちを語る文脈に持って行く手助けをしてしまっていると感じます.
    引用文の中で盛んに用いられている「孤立」という言葉もぼんやりとした印象しか持てませんでした.

    孤独と孤立についてです. Takeo さんは, 孤独は怖いものだが, その内における死 ── 孤独死 ── はまったく恐怖の対象ではないと仰っています.

    > 孤独とは「生きているから」生じる状態であり感覚に他ならない

    とまで断定されていますね. しかし特に私を捉えたのは次の文章です.

    > 「孤独・孤立」の唯一の対照物はいうまでもなく「他者」との「全き」「合一」。種村がいうような「エロス」以外にないのではないだろうか。
    > それはとりもなおさず、「わたし」が「わたしであること」を放棄する瞬間に他ならない。言い換えれば、「わたし」が「わたし」という「個別性」「一回性」「独自性」に捕らわれている限りは、「孤独」すなわち「孤立」から免れる方途はないのではないか・・・

    私はここに Takeo さんの強靭さを感じます. 実のところ, 「Takeo さんの」と言ってしまってよいものなのかは少し迷っています.
    Takeo さんは「個別性」「一回性」「独自性」に確固として捕われている, これらが Takeo さんと共に切り離すことができないほど強く結び付いていると私は受け取りました.
    それは Takeo さんの強靭さであり, あまりに強靭な故に, 他者との全き合一に至る余地すら無い, と.

    Takeo さんのそのような姿は, Takeo さんがそれに捕われることによって苦しんでいるにも関わらず, 私にある面での羨望を抱かせます.

    私はそのような確たる「個別性」「一回性」「独自性」をどうしても持つことができないでいるのです.

    私には人とのコミュニケーションに対する大きな恐怖があります. そこには二つの矛盾する極があり, その間を私は揺れ動いているのです.

    すなわち, 一つは他者とのコミュニケーションの恐怖から逃れて, 誰とも交わらず一人で孤独の中に生きたいという希望です.

    もう一つは, 人と繋がらなければならないという非常に偏った義務感と, その裏に隠れている全き抱擁への憧れです (なぜ義務と感じるに至ったかは, おそらく幼少期・少年期の歪な躾や教育によるものでしょう).

    この二つのどちらも私には苦痛であり, ですのでどちらの極にも立てません.

    「人と繋がらなければならない」という義務感は, 私の中では, 「皆と一緒に・皆のように・皆の中で」という, 気質的に私に不可能な要求であり, それ故に恐怖なのです.

    だから孤独であるべきもう一方の極である内的な世界に向かうのですが, こちらでも私は隠者にはなれませんでした. 全き抱擁への憧れを断ち切ることができなかったのです.

    別の文章で Takeo さんは「社会」を敵と見做していると書いていましたね. ふたつさんもどこかで, 「既成概念の集合体としての社会」をやはり敵と考えている旨の記述をされていたと記憶しています.

    ところが私は Takeo さんやふたつさんとは異なり, 上に書いたような理由から「皆」つまり「社会」をある意味で敵として見据えるための「孤独」という足場に立てないのです. それ故に「社会」は現在の私にとっては恐怖の対象であり, 厄介な苦しみの源とすらなっています. この恐怖をどうにかしたいと思っています.

    私にとっての孤独や孤立とは何であるのか, それは可能なものなのか, 揺れ動く者として見極めたいですね.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      今回は、わたしが、また底彦さんが、「社会」の中で生きる上での核心的なことについて述べられています。

      わたしが見ている「社会」または「孤独」と、底彦さんにとっての「社会」「孤独」との間には当然差異があります。(それはわたしとふたつさん、わたしと瀬里香さんの間においても同じです)ですからどこまで底彦さんの言わんとしていることを汲み取ることができるか甚だ心許ありませんが、わたしの気持ちを綴ってみます。



      本来なら、「孤独ではない状態」とは、わたしがわたしのままでいられる状態に他なりません。「全き抱擁」とは、一面では確かに「わたしを失う」つまり「自意識からの解放」ですが、本来は、わたしが「全き自己」のままに「包み込まれること」だと思っています。

      わたしがわたしの個別性・独自性・一回性を保持しながら、それが完全に許容される状態。それこそが、真の意味での孤独・孤立からの解放であると・・・

      そしてそれが可能なのは、所謂、'Soul Mate'=「心の友」「親友」との間に於いて、または、例えば幼子と母親の間に見られるような「無償の愛」に於いてのみ、と言えるかもしれません。
      現実にはなかなかそのような関係を得ることは難しい。殊にこの国のような場所では。そこで次善の方策として、所謂エロスの渦中での「忘我」=我からの解放というようなことを考えたのです。

      本来的本質的な他者との全き合一は「わたしが他ならぬわたしである場合にのみ」成就されるというパラドックスを含むと思っています。
      何故なら、わたしがわたし以外の他者かになって融合しても、そこには最早わたしの歓びは存在しえないからです。



      底彦さんが苦しんでおられる葛藤はわたしにもわかる気がします。そして孤独も埋没もいやだという気持ちはまったく自然な感情だと思います。

      わたしも「人とのつながり」というものが如何なるものなのか、よくわかりません。
      そして「人と繋がらなければならない」という感覚ではないけれども、つながりたいという欲求があります。繰り返しますが「繋がり」の何たるかさえ知らないのに。

      しかし物理的にも、精神的にも、誰かが傍にいてほしいというのは、少なくともわたしには生身の人間として全く当たり前の情動であると思います。

      一方で底彦さんには、他者との物理的、精神的、情緒的結びつきへの抵抗があるのか、独りを志向する傾向も持っておられる。

      自分とは異なった「他者」との接触というのは本当は単純に、皆の中で、皆と同じにだけではない筈なのです。わたしが「社会」を敵と見做すのは、他ならぬ、日本という社会が、一律一様均一均質の思考・行動様式を暗に、またあからさまに強要してくるからです。

      社会の中であれ、山奥であれ、人が本当に隠棲するということは、いろんな意味で特権的な人のみがなしうることだと思います。

      適度な人とのつながりはほとんどの人にとって、不可欠なものでしょう。

      けれども、社会が歪んでいれば、そこに住んでいる者、或いはそこと接触のある者も必ず歪みます。社会が病んでいれば、人も病みます。

      現実にゆがみのない社会などどこにも存在しないことは承知しています。

      しかしわたしは日本という国の構造、そのメンタリティーはやはりあまりに異質でありいびつであるという認識です。

      底彦さんの抱えている個と公のジレンマは、その発現の仕方こそ異なれ、今の社会で多くの人が抱えている問題だと思っています。無論わたしもその例外ではありません。

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    2. 追伸

      「市民」という人びと、が存在しない国に言葉の本来の意味での「パブリック」=「公」があるとは思えないのです。ハンナ・アーレント風に言えば、公共空間とは個々人が、その「個」を、より展げる場であるのに対し、この国では、公イコール「滅私」の謂いに他なりません。全く正反対なのです。



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