2019年7月13日

断想…


「世界はわたしが見ることによって存在する」という考え方がある。
哲学では「主観的観念論」と呼ばれている。

けれども現実には、世界はわたしの存在などと全く無関係に、そこに在る。

これはなんども引用している言葉だが、

"We see the world as it is, We see the world as we are."
「我々は「世界」をそのあるがままに見てはいない。私たちは世界を「私たちがあるように」見ている」(アナイス・ニン)

わたしは「わたし」という個性、わたしという「在り方」を超えて、この世界を見ることはできない。それでも、やはり世界は現にそこに存在している。わたしの眼差しとは無関係に。

同じように、わたしは「わたしだけ」で存在し得るだろうか?
誰からも愛情を注がれることも、関心を寄せられることもなく、この世界の内側に存在することが可能だろうか?

わたし自身は、誰からも好意的な関心を寄せられないで存在することはできないと考えている。

全く身寄りがなく、孤独なお年寄りがひとりで値引きされたスーパーの弁当を食べている。
医療・福祉などの関係者以外、彼・彼女に個人的な関心、好意を寄せている者はいない。
では、そのような老人たちは「存在していない」と言えるのか?
否。彼や彼女は、他人の眼差し、愛情、好意、関心の有無とは無関係に、確かにこの世界に存在している。

「わたし」の存在乃至生存は、他者の愛情・関心・好意なしにはあり得ず、
身より頼りのないお年寄りは、誰の力も借りずにそこに生き、存在している。

存在の在り方は一様ではない。愛があって初めて存在できる者がいて、
何ものにも頼らずに単独者として存在している者がいる・・・


● 今日スーパーで、脚の不自由な若い女性を見かけた。両脇でからだを支えている二本の松葉杖がなく、普通に歩いていれば、まったくどこにでもいるような若い女性。
わたしがまず思ったのは、「彼女は歩きスマホができない。故に普通に歩ける女性よりも上等な存在である」

何かが出来るということに比べて、「できない」ということははるかに貴重な美質だ。
わたしは人間性を量るときに、「何ができるか」ではなく「何ができないか」を目安にしたいし、できれば「殆どの人ができることができない人」更には「殆どの人が平気でいられることに平気ではいられない人」と友達になりたいと思う。

彼女は脚が不自由な分、健常者よりもきれいに見えた。


● わたしはできないことばかりだ。脚の不自由な彼女は、歩けないゆえに価値があり、うつくしく、わたしはできないことが多すぎる故に誰からも愛されない。
しかしわたしは「人並み」になりたいとは思わない。現在の世界で、「できない」ということに、より大きな価値を見出しているからだ。
人がこのような無能者を受け容れることができるか(何のために?)
できないか?ただそれだけだ。


● わたしは何もできないが、孤独で、話し相手のいないお年寄りの話を聴きたいと思うことがある。人に愛されない分を、せめて愛することで埋め合わせたいという想いからだ。
しかしわたしが愛することができるのは、おそらくわたし同様、誰からも愛されていない人に限られてしまうかもしれない。既に誰かから愛されているものを愛するということが、どうしても屋上屋根を架すことのように思えてならない。


● 人が人を、単なる「人手」としてではなく必要とするということは果たしていかなることなのだろう?
わたしは言うまでもなく誰からも愛されていないがゆえに「人」ではなく、その無能さゆえに「人手」ですらない。「人外(にんがい)」の存在だ。

わたしは何者かの愛を得て初めて人間になる。(恐らくその日は永遠に訪れることはないだろう)ところで、人間でない者が、人間を愛する資格はあるだろうか?



最後に過去にも引用したことがあると思うが、二階堂奥歯の『八歩脚の蝶』から、わたしの好きな箇所を引用する。
(以下下線Takeo)


2002年12月5日(木)その1

6歳の頃私が考えていたこと。あるいは責任について。

「人間性」とは感情移入される能力のことであり、感情移入「する」能力ではない。
ほとんどすべてのヒト(ホモサピエンス)が人間であるのは多くの人々に感情移入されているからである。ヒトであるだけでまずヒトは感情移入され、人間となる。
しかし、人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。

そう、ピエロちゃんは人間だった。私が人間にしたのである。「した」と言う言い方は傲慢だ。言い換えると、ピエロちゃんは私にとって人間として存在していた。
上に書いたようなことを私は小学校1年生ながら理解していて、すさまじい責任を感じていた。なぜなら、ピエロちゃんに感情移入しているのは世界でおそらく私一人だったからだ。ピエロちゃんが人間であるかどうかは私一人にかかっていた。これは大きな責任である。ピエロちゃんに対する責任に比べると、この意味での責任を例えば生まれたばかりの弟に感じることはなかった。私一人弟に感情移入しなくたって世界中のおそらくすべての人間は彼を人間として扱うだろうから。

私がピエロちゃんが人間であることを忘れてしまったら、ピエロちゃんはきたない布切れで構成されたくたびれたピエロのぬいぐるみに過ぎなくなってしまう。それは人殺しだと私は思っていた。私がピエロちゃんをどこかに置き去りにしてしまったらピエロちゃんを見た人間は誰一人ピエロちゃんを人間だと思わないだろう。忘れもののぬいぐるみだと思って捨ててしまうかもしれない。

そして実際私はピエロちゃんを忘れ、ピエロちゃんはどこかにいってしまった。
ピエロちゃんはいつのまにか捨てられた。殺された。
違う。私が、ピエロちゃんを、殺した。
(私が子供を産まずペットを飼わないと決めている理由の一つは、私がピエロちゃんを殺した人間だからである)。





「ヒトであるだけでまずヒトは感情移入され、人間となる。」
という意見には大いに異論があるが、それは措いて、
「母の死と同時にわたしの生命も終わる」というのはこのようなことだ。
つまりわたしは母によって「人間」となり、母にとってのみ「人間」なのだ。









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