2019年7月25日

存在論的視点を欠いた「脱・引きこもり」論


「脱・ひきこもり」という言葉を時折目にする。その度に首をかしげてしまうのは、
いったいその「引きこもり」とやらから「脱した」人たちは何処へ行くのか?ということだ。

嘗てITの世界を「ドッグ・イヤー」と称していた時期があった。
人間の1年は犬にとっての7年に相当する。そのような速さで、IT産業は進歩し続けていると。

今や「ドッグ・イヤー」どころではない。1年間外に出ないと、こんな郊外の駅前の様子さえまるで変っている。

つまり「脱・引きこもり」とは「浦島太郎現象」に他ならず、「脱した」ところで、元いた場所はもう何処にもないという世界にわたしたちは生きている。

「脱」は、「帰還」も「生還」も意味しない。脱した者は、未知の世界で、一から生き直すことが可能なのか?そのことが「脱・ひきこもり」論とやらではあまりにも等閑視・・・否、無視されてはいないか?

或いは当事者自体が、外界の様子など問題にしていないのか?



わたしはもう二度と美術館に行くことはないだろう。スマホバカたちが作品を激写しているだろうから。

わたしはもう二度とコンサートに行くことはないだろう。スマホバカたちが一斉にステージに「それ」をかざしているだろうから。

渋谷駅前の再開発で「東急東横店」が消えるという。その後に例によって超高層マンションが建つとか。

先日初めて「無人レジ」とやらを使った。何故そうまでして人と人との接触の機会を、可能な限り減らしたいのか?

今わたしは外に出ると、家にも、行く先にも連絡の取れない世界に住んでいる。
公衆電話が見つからないからだ。

「わたしの世界」は目に見えて狭まっている。

「文句を言うなよ。自分でそう仕向けているんだから」という奴がいるとしたらよほどの馬鹿だ。彼らは「長い物には巻かれろ」という貧弱で姑息な人生観しか持ち合わせていない。彼らは愛すべきバートルビーの対極にいる者たちだ。



自分が浦島太郎であるという煩悶も絶望も、また諦念もなく、そこがどんな場所であろうと、とにかく外に出ることだけが「彼ら」の唯一無二の「ゴール」あるとしたら、最早何もいうことはない。


ー追記ー

都立中央図書館に期限を超えてまで調査してもらったが、その限りにおいて、
「審美的理由による外出困難」について言及している資料は遂に見つけることができなかったということだった。


“I would prefer not to” 











3 件のコメント:

  1. Takeoさん、こんばんは。

    お探しの本とは、違う内容だと思いますが、いま、「子供の脳を傷つける親たち」(友田明美著)という本を妻が図書館で借りていて、それをちょっと見たんですが、いろいろと新しい情報が出ていたみたいですよ。
    (2017年の本です)

    心理学や精神分析学的なことは、ほとんど出ていなくて、どちらかというと「脳科学」の本ですが、情報が新しいのと、脳に与えられるダメージについて「マルトリートメント=不適切な養育」という切り口で研究されていたのが、ぼくには興味深かったです。

    といっても、ぼくが読んでもわかるような、比較的優しい言葉で書かれている本ですから、もしかしたら、若干物足りないところもあるかもしれませんが、読んでみても損にはならないように思いました。

    前に、ヒロさんが『Takeoさんは脳に欠陥があるんじゃないか?』と言っていたのを、Takeoさん自身も完全には否定できないとおっしゃっていましたから、そこのところに、ナニカの回答を与えてくれる本なのかもしれないと思いました。

    たとえば、ぼく自身が、もっとも意外だったのは、「幼児虐待」についてなんですが、実際に身体的な暴力を受けた子供よりも、「言葉による虐待」を受けた子供の方が、脳のある部分の萎縮がはるかに大きい(数%~20%ほども!)という結果が出ていたことです。


    ただこれは、「脳の欠陥」についての話ではなく、「脳の萎縮」や「脳の発育不全」についての話であることをお断りしておきます。

    「身長が小さい人」や「痩せている人」は「欠陥」ではないでしょ?

    ぼくは、少し発育が悪かったのを「欠陥」と言うのは、違うと思います。
    それでは「欠陥」という言葉は成り立ちませんから。
    それは「個体差」に過ぎません。
    そこに「優劣」もありません。
    そこで「優劣」を比べることに、意味がありません。

    まぁ、とりあえず、ぼくは、面白そうだなと思いました。

    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      相変わらず「思考の迷宮」についての迷宮に嵌まり込んでしまっています(苦笑)

      頂いたコメントから離れてしまうかもしれませんが、「考え方」と「脳」とは切り離せませんから、全く無関係ではないでしょう。

      先日の投稿「友とわたし」で、「わたしは「化け物」でなければならないし、そうありたいのだ」と書きました。
      そう言いながら、ここまで度外れて人と違うということはいったいどういうことか?と考え込まずにおれません。

      「独特の認識の化け物」は、他者に対してそうであるだけでなく、わたし自身にとっても、わたしはやはり理解困難な「化け物」なのです。

      なるほど、『1984』に並び称されるディストピア小説『素晴らしき新世界』を書いたオルダス・ハクスリーも、「みなと違えば孤立する」と書いています。

      さすがにここまで誰とも話が通じないんじゃどうしようもないから、ぼくも「スマホ」を買ってヘラヘラと生きようとは、どうしても思えないのです。

      わたしは何故誰からも理解されないのか?誰からも好かれないのか?
      それはわたしが皆が生きている「現代社会」というものを全否定している以上当然なのか?或いはスマホを持てば好かれるのか?

      前にも書きましたが、「誰だって、愛され、好かれる「努力」をしているから「愛され好かれているのであって、そのための努力もしないで、ありのままの自分で好かれようなんて虫が良すぎるよ」ということなのでしょうか?



      身体的な虐待よりも言葉による心の傷の方が遥かにダメージが大きいというのは当然だと思います。心の傷は生涯癒えることはありません。とはいえ、多くの場合身体的な虐待だけが行われるということはないでしょうが。
      暴力が用いられず、言葉のみによる虐待はいくらもあると思います。

      わたしがyy8さんの「脳の欠陥」というのを否定できないと言ったのは、上に述べたように、あまりにも他の人と違いすぎるから。それが結果として「孤立と独特の認識の化け物」を生んだからそう思うのかもしれません。
      脳に全く欠陥なり、後天的な損傷がなければ、ここまでその他大勢と違うということがあり得るでしょうか?

      「性格とは運命である」という言葉にわたしは殉ずるつもりですが、それにしても、ここまで違うということはどういうことなのか・・・
      残念ながらそれの答えを教えてくれる人は何処にも存在しません。

      よかったら、また本の感想など、聞かせてください。


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    2. 追伸

      これはわたしの生涯のテーマですが、
      「何故わたしは誰からも好かれないのか?」
      「何故わたしはこれほどまでに誰とも似ていないのか?」
      ということを、本当に解明出来たらと思います。

      わたしは誰からも好かれていないということをよく知っています。しかし、好かれるための努力とはなんだかわからないし、それがわかったところでそのために「自分を変えよう」とは思わないのです。

      「人に好かれるためには努力が必要」なのでしょうか?
      ではビリージョエルのヒット曲「素顔のままで」「Just the way you are」という歌は、テェット・ベイカーの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は?シンディー・ローパーの「トゥルー・カラーズ」「True Colors」は、みな、「ありのままの君が、あなたが好き」と歌った歌ですが、全部間違いでしょうか?
      おかしな歌詞なのでしょうか?

      「ありのままでは好かれない」という厳然たる事実があったとしても、わたしは自分を変えられないし、変える気もない。

      人を、或いは猫を好くということ。人を嫌う、或いは毛虫を嫌うということはやはり脳の問題なのでしょうか?それとも心理学なのか?



      わたしは好かれる努力を放棄している。
      そして自らを「孤立と独特の認識の化け物」「神でさえも抱擁することを躊躇う者」と見做している。
      であるからには、おかしな言い方ですが、人間は、誰であろうと、如何に努力しても、わたしを決して好きになることはできない。わたしを好きになるということは、人間の限界を超えているのではないでしょうか。

      また、そもそも人間が、他者を本当に好きになるとか愛するなどということが可能なのでしょうか?
      すると当然ながら、「愛とは何か?」という問題にぶつかります。

      わたしは「生きる意味を問わずにとりあえず生きる」「愛の意味を知らずとにかく愛す」ということが、どうしても、「現象的人間」であって、「本質的人間」ではないように思えるのです。
      つまり現象だけあって本質が欠けている。わたしはどうしても「何故?」「どうして?」「なんで?」ということをとことんまで追求せずにはおれないのです。

      ところで、このブログは、誰が閲覧したかはわかりませんが、特定のページが閲覧されましたという表示が出ます。(その投稿のページを開いた場合のみ)

      先日どなたかが、今年一月の投稿「『異常の構造」ー永遠のアポリア」という投稿を読んでくれたようです。今もわたしは木村敏の『分裂病と他者』という本を借りています。
      一般に分裂病は狂気と境を接しています。わたしのような狂人にとって、「「他者」とはなにか?」は大きなテーマです。『異常の構造』よりも更に哲学的で難解ですが。

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