2019年7月1日

「蠍が蠍を癒やす」


「傷を舐め合う」という言葉がひどく意味深長に聞こえて、嫌いではない。
つまるところ、非(乃至(反))人間的な大都会で人間が人間らしくいるためには、動物的本能に身を任せるしかないのだ。早い話、「愛し合う」ことだ。「生きていくうえで負った傷を舐め合うこと」だ。

ブラッサイの撮った夜の女たちが好きだ。
種村季弘は、「娼婦はすべての男を愛するが故に一人一人に対してはゼロだ」というようなことを、『幻想のエロス』の中で語っていた。種村氏がそんな単純なことを考えているわけはないだろうが、所謂公娼はともかく、ブラッサイの写真の中、暗い路地のガス燈の下で男(客)を待つ女たち(私娼)には深い孤独を感じずにはいられない。
仮に、所謂通俗的な意味での「愛情」というものが不在であっても、それが所詮はゆきずりであり、いくばくかの金が手渡されたにせよ、真の孤独と孤独が触れ合えば、そこに束の間でも「愛情」に似た感情は生まれないだろうか。
肉体そのものに「Soul」はあり得ないだろうか?



久しぶりにスコティッシュのクールなブログを覗いていてこんな絵を見つけた。


ブコウスキーの、これはなんだろう?本のカバーでもなさそうだし、映画のポスターにも見えない。


ここに書かれている文句がいかにもブコウスキーらしい。

"I don't like jail ; they got the wrong kind of bars in there."
「俺は刑務所は嫌いだね。やつらは間違った「バー」をそこに作りやがったからさ」

これはBar(s)=「酒場」と、「鉄格子」を掛けたジョークだが、それにも増して
この何やらチープなイラストがいい。
Mauro Mazzaraというイタリアのアーティストの作品らしい。




仮に売買春というものが「社会の害毒」云々と言ったところで、ならばその「毒」を以て毒を制する以外に生きる途はないのではないか。

生きる?少なくとも鎮痛剤を飲むよりは遥かに「人間的」だろう・・・

嘗て女郎屋に身を売ることを「苦界(海)くがい)」に身を沈めると言った。
どんなに厭な客でも客は客だ。一方で、真に情(じょう、なさけ)のある客もいたはずだ。厭な客の相手ばかりさせられる中で、そういう男に出会うことは真の歓びであり安らぎであり、恋であった。古来そのような場所を嫌悪した文学者、詩人、歌人、画家がいただろうか。

廓が苦界であるなら、客はひと時の安息を求めて、またよその苦界から女の元を訪れるのだ、そもそも人が生きていくうえで、「苦界でない場所」などあるだろうか。

嘗て開高健は「森羅万象に多情多恨たれ」と言った。
わたしはその言葉は「苦界」の中でこそ花開くように思えてならない・・・



'Body and Soul'  Sonny Stitt

「ボディー・アンド・ソウル」ソニー・スティット(テナー)

0 件のコメント:

コメントを投稿