写真はまたスコティッシュのブログ Fragments of Noir から。
彼のブログには、'Big Lonely City' というタイトルで、屡々このような「古き良き時代」のストリート・フォトが掲載される。彼のブログでも人気のシリーズだ。
使われるのは主に50~60’sのニューヨークやパリなどの街の風景だが、
こういう写真を見るたびに、今現在、外の世界がこのようであったなら、わたしは明日の朝からでも外に出かけるし、電車にもバスにも乗れるだろう、そのことは自信を持って言い切れる。それだけこれらの街にはその空気に身を包まずにはいられない魅力がある。
ずっと一人ぼっちだったわたしは、40代で親友を持つまで、毎日、どこかしら、東京の街をひとりで歩いていた。人間の友達はいなかったが、街が友達だった。
そして人間の友達もなく、唯一の友であった街さえも姿を消してしまった今、
わたしには「外に出る意味」というものがわからない。
以前だって、図書館に行くとか、公園に行くと言った「目的地」はあったが、
そこに着くまでの時間にも意味があった。味もあり色もあった。
今日(こんにち)外に出るということは、妙な表現だが、「ドア・トゥー・ドア」の距離が引き伸ばされたものに過ぎず、このドアから目的地のドアまでの間には文字通り何もない。ただ無意味な時間と虚ろな空間以外。
外に出ることが、「ドアからドアへ」の場所の移動でしかないとすれば、目的の「ドア」のない外出というものは当然なくなる。何故なら外出とは場所Aから場所Bへの身体の「移動」に他ならないのだから。
芭蕉たちの「奥の細道」とはいったい何だったのだろう?
俳聖は「旅を棲み処とす」とは記さなかったか?ただ江戸から奥州の地まで、わき目も降らずに「移動」したのであったか。最早旧来の「外界」は存在せず、ただ数千・数万のドアのみが存在し、それが「外界」と呼ばれる世界で、「旅」とは、「旅を棲み処とす」とは、果たして如何なる概念か?
◇
多くの所謂「引きこもり」が、「外界」の在り方、その景観、美醜についてほとんど話題にしていないことは何を意味するのだろう?
彼らにとっては、それがどのようなみすぼらしい姿であっても、乃至は田舎のお大尽のような趣味の悪さであっても、「外」とは結局物理的・空間的な、「家」「部屋」の外=「外部・外界」以外何らの意味をも持たないのだろうか。そして「彼ら」の価値観では、あくまでも「鬼は家(内) 福は外」であって、あくまでも内(家)は(-)「外」イコール(+)なのだろうか。
「外に出られない」人たちにさえ、「街の醜さ」を訴えても、彼らにはその意味が、わたしの言っていることがまるでわからないとしたら・・・仮に「まぁ言わんとしていることはわからないではない」・・・けれども、何にも増して優先されるのは、その「外」で生きることだとしたら・・・
であるならば、わたしはまたぞろいつもの疑問を独り言ちなければならない。
「では、「生きる」とはどういうことだ?」
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