2019年7月16日

追記ー「文脈」についての補足


わたしのいう「文脈」というのは、おそらく一般的な使われ方でいわれている「文脈(コンテキスト)」とは異なっていると思う。

具体的な例を挙げよう。

もうずいぶん前、まだわたしが30代のころ、渋谷公園通りのリブロポートという書店の洋書・美術書のコーナーで、やはり同世代のスタイルのいい男性が、写真集をパラパラと繰っていた。わたしはゲイではないが、カッコいい男性に性的な魅力を感じることがある。彼は細身のジーンズにバックスキンのデザートブーツを履いていた。わたしはその後ろ姿に見惚れて(?)いた。特に形のいいお尻に(苦笑)

けれども、それは彼が、Josef SudekかIrving Pennだか定かではないが、とにかく、モノクロの写真集を熱心に視ていたので、「惚れた」のであって、ヒップが魅力的に見えたのだ。仮にその全く同じ人物が、前に回ってみたら、熱心にスマホ(乃至ipad)を眺めていたり、或いは読んでいるのが男性のファッション・マガジンだったりすれば、彼をカッコいいともセクシーだとも思うことはなかった。前者と後者は、わたしにしとっては「別人」なのだ。

つまり、わたしの場合、性的な魅力は内面に左右されるということ。外見(そとみ)だけのかっこよさ、セクシーさというものは、わたしに関しては存在しないということ。

「スノッブとは、乗り合わせた電車の向かいの席に絶世の美女が座っていても、彼女の読んでいる本が気に入らないということで、声も掛けない男のことである」というジョークがある。

わたしはスノッブ=「知的俗物」ではないが、これはわたしもそうだと言えるだろう。
ただ、それは必ずしも胸を張って主張できるようなものではないとも思っている。
要は狭量ともいえるのだ。このような性質のために、多くのものを、少なからぬ出会いを取り逃がしているということは認めなければならないと感じている。

蛇足乍ら強調しておきたいのは、わたしは「人間性」の話をしているのではないということ。目の前の美女に声をかけないのは、そういう本が「わたしの」趣味ではないからであって、それは彼女の人間性とか教養といったこととはまるで無関係だということだ。








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