先に書いたように、都立中央図書館で通常の調査期限を超え、約2週間を掛けて、「審美的理由による外出困難」という事例について、その症例、またそのメカニズムについて、「心理学」「社会学」「医学(精神科学、脳科学等)」などを調査範囲として調べてもらったが、結局参考になるような資料は見つけることができなかった。
ところで、現在読んでいる木村敏の『分裂病と他者』(1990年)の第五章「精神医学における現象学の意味」に、このような記述がみられる。以下断片的な引用になるが、
『(ハイデッガーの言う)世界内存在が「無問題的に」成立し得るためには、ハイデッガーが述べているように、現存在が諸事物のもとに住み慣れ、馴染んでいることとしての「内にあること」が、つまり世界との親しさが不可欠である(もちろんこの「親しさ」は、心理学的次元で述べられるような経験的な意味ではなく、超越論的・実存論的な意味に解さなくてはならない)。分裂病者において危機にさらされているもの、分裂病者がその確保のために ── 一般に「症状」と呼ばれる異常で非現実的な経験の次元に足を踏み入れてまで ── 必死に努力しているもの、それはほかでもない、この根源的で、ア・プリオリな「世界との親しさ」なのである。』(P98)
『現象学はフッサール以来、日常性の現実を括弧に入れて宙吊りにする、いわゆる「エポケー」ないし「現象学的還元」の操作を生命にしている。この現象学的態度が、躁鬱病者特有の対世界関係と根本的に波長が合わないのである。分裂病者と違って躁鬱病者は、病前からその際立った日常的秩序や経験への依存性を特徴としている。彼らは、共同体の伝統的規範によって、既に構成ずみの日常性の経験財と(しばしば過剰に)同一化することによって、自己の存在の安定を確保している。所与の日常的現実を疑問視し、その都度新たに自己世界を構成しなおすという創造的で、未来志向的な営みは彼らにとっては最も縁遠い。
(中略)
だから現象学というものが、日常性のあらゆる自明性(ドクサ)を疑問に付し、その妥当性を停止して、自己や世界の絶え間ない動きそのものに焦点を合わせる営みである以上、現象学は、すべてが経験的・日常的次元において強固に構成されてしまっている躁鬱病患者の世界にはほとんど手掛かりを見出しえないことになるだろう。現象学とはいわばこの上なく「非躁鬱病的」な知的営為なのである。そしてこれとはうらはらに、現象学は極めて「分裂病向き」の知的姿勢に対応し、分裂病はそれ自体きわめて「現象学的」な事態だということができる。』(P102)
(下線本書では傍点)
◇
繰り返し書いているように、「健康」とは「私」一個の身体や精神に「異常」が無いことではなく、健康とは他ならぬ「わたし」と「世界=わたしを取り巻く外界」との融和である。
「わたし個人の健康」「わたし一個の健康」というものは存在しない。それはあくまでも「自己と世界(内と外)との友好的な関係」に他ならない。
では冒頭に書いたように、「世界が醜い」と感じられる場合、ハイデッガーの言葉を借りれば、外界が最早「住み慣れ、馴染んだ場所」とは感じられなくなった時、そこに於いて健康な状態は如何にして保たれるのだろうか?
◇
上の引用について、わたしは、発達障害であるとか、人格障害、そして主訴である「他者と良好な関係を築くことができない」または「その状態を維持することができない」
ことから派生する二次障害としての抑うつ状態 ー「鬱」・・・という診断であって、かつて、「分裂病」(統合失調症)或いは「躁鬱病」と診断されたことはない。
わたしは日々に変わりゆく風景を、「住み慣れ、馴染む」ことを決して許さない世界を憎む。
ではわたしは傾向としては、上記の説明にあるように、躁鬱病的な気質の持ち主なのだろうか。
これは簡単に言い切ることは難しい。
「現象学というものが、日常性のあらゆる自明性(ドクサ)を疑問に付し、その妥当性を停止し・・・云々」というものであれば、わたしは正にこういう気質乃至思考様式を持っている。
また躁鬱病的気質というものが
「その都度新たに自己世界を構成しなおすという創造的で、未来志向的な営みは彼らにとっては最も縁遠い。」とすれば、これもまた見事にわたしに当てはまる。
わたしは古い秩序に安住を見出す=躁鬱病的審美観を持っている。
同時に「日常性のあらゆる自明性を疑問に付し、その妥当性を停止しよう」という現象学的=分裂病的傾向も持ち合わせている。
では考えてみよう、わたしは何故「スマホ」を憎むのか?
それはわたしにとっては、「その都度新たに自己世界を構成しなおすという創造的で、未来志向的な営み・・・」ということを意味しない。
「スマホを持つ」ということは、「日常性のあらゆる自明性を疑問に付し、その妥当性を停止する」というわたしの美意識に真っ向から抵触するのだ。何故なら、現代社会に於いて、今この時代に於いて、「それ」を持つということは、誰もが疑うことのないほど、当たり前すぎるほど当たり前(自明)のことだからだ。
つまり、逆説的ではあるが「恒常的な変化」「絶えざる未来志向」というものが「常態」であるのなら、「変わらない」こととは革命的なことであり、画期的で創造的なことであり、同時にそれ自体が(矢印の方角こそ違え)「未来的」なことになる時代に既にわたしたちは生きている。
繰り返すが、わたしは嘗て、分裂病とも躁鬱病とも診断されたことはない。
けれども、病気の持つ特徴として、本書に書かれているようなタイプに分けられるのなら、わたしは分裂病気質であろうということだ。極論すれば、スマホやタブレットを持つくらいなら、「統合失調症患者」と呼ばれる人間になることを厭わないということだ。
他の国のことは知らないが、近代から始まって、昭和以降、この国は、「伝統を打ち壊すこと」を「伝統」としてきた。であるから、多くの人たちは、自分の住む街(町)が10年ごとに全く姿を変えても苦も無くそれに適応してしまう。病気の特性云々以前に、この国の人たちは、立ち止まって「自明」と言われることを疑ってみるということを知らない。
現象学の祖フッサールはもちろん、ハイデッガーもベルグソンも、またフロイトもIT革命を知らない。未だ存命の木村敏氏は、今の時代をどう見ているのだろう。
最後にわたしの最も嫌いな言葉・・・「だってそういうものなんだからしょうがないじゃないか!」
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