2019年8月23日

認知行動療法への懐疑ー間違った存在


デイケアのプログラムの中でも、「集団認知行動療法」は可能な限り出席している。
昼夜完全に逆転している生活が常態となっているわたしは、この病院のデイケア利用者になってから、AM10時から始まる午前のプログラムへの出席は過去に1度だけしかない。今日の「集団認知行動療法」は、このプログラムにしては珍しく午前に行われた。今日のテーマが「とらわれ」であるということは知っていた。実際「とらわれ」と「思い込み」と「こだわり」と、どう違うのか、あまりよくわからないのだが ── 実際にプログラムに参加してまだそんなことをいっているのは、わたしの思考力の著しい低下を物語っているともいえるだろう。思考力の低下と同時に記憶力の衰えも目立っている。今日の出来事でさえ、時間の経過とともに、細かい記憶の破片がパラパラと剥離してゆく。そういう意味で、今日感じたことは、今日の内に書いておかなければならないと実感した。日を置き、時間を置くことで、その「実感」は、みるみる色褪せ、遠ざかってゆく。

実は今日の午前中の参加も、今朝7時の時点では「止めておこう」と考えていた。
「心に思ひ煩ふところありて・・・」のせいか、或いはもっと別の気持ち、感情のせいかわからないが、午前7時半ころに、少し多めの睡眠薬を飲んで寝た。
目が覚めて、時計を見ると、午前9時10分。病院までは歩いても10分以内。特別の支度もいらない。外は曇り空で、激しい太陽の照りつけもない・・・せっかくこのタイミングで目が覚めたのだから行ってみるか・・・



さて、今回「とらわれ」のテーマの下で行われたディスカッションは、心に刻まれた傷痕=「とらわれ」をいかに手当(ケア)するか、というものだった。

今手許に今日の資料がないことと、講師であるデイケアスタッフの説明を細かく思い出せないこともあるが、スタッフ2人を合わせて、参加者約12・3人に配られた資料を読み終えて、進行役のスタッフが、「何か意見のある人・・・」と発言を募った時、既にわたしは手を差し挙げていた。そして今日の話し合いの口火を切った発言は、「一言でいって、全く賛同できない。わたしにいわせれば、これは単なる「酸っぱいブドウ」の論理であり、合理化でしかない。わたしから見れば、これは苦しみや悲しみから目を背ける方法にしか思えない」と。わたしの発言は或いは怒気を孕んでいたかもしれない。

スタッフが資料として用いたプリントの元になっている心理学者とやらの文章があまりに軽薄C調であるという事情もあるだろうが、思い出すのは、10年ほど前、さるQ&Aサイトで、瀬里香さんとわたしとの共通の知り合いであり、嘗て「Hさんとの対話」という投稿でも紹介したことのあるHさんの当時の口癖が「それはイラショナルソート(不合理な考え方)だ」というものだった。
そのような考え方自体が根本的にわたしとは合わない。

それはイラショナル=「不合理な」考えであるというからには、そういう当人は少なくともそれに対する「ラショナル」=「合理的な」考え方というものを知っているということになる。では「A」は合理的、「B」は不合理であるとするそもそもの根拠はなにか?
そこには必ず、「客観的な正しさ」が 個々人の実存の外側に存在しているという発想があり、それが論拠になっているはずだ。
 
わたしは気質として、性分として、「自分の外側」に「自分から離れたところ」に、本当の「真」「善」「美」があるというプラトンのイデア論とは性が合わない。

先日一部紹介した木村敏の『分裂病と他者』の中に、ある心的特性、思考傾向と相性のいい哲学と相性の合わない哲学があると記されていた。木村氏によると、

現象学というものが、日常性のあらゆる自明性を疑問に付し、その妥当性を停止して、自己や世界の絶え間ない動きそのものに焦点を合わせる営みである以上、現象学は、すべてが経験的・日常的次元において強固に構成されてしまっている躁鬱病患者の世界にはほとんど手掛かりを見出しえないことになるだろう。現象学とはいわばこの上なく「非躁鬱病的」な知的営為なのである。そしてこれとはうらはらに、現象学は極めて「分裂病向き」の知的姿勢に対応し、分裂病はそれ自体きわめて「現象学的」な事態だということができる。
(下線Takeo)

わたし自身「分裂病」なのか「発達障害」であるのか、はたまた「人格障害」であるのかは、依然として、そしておそらくは永遠に謎のままだろうが、そもそも「認知行動療法」という思考法が、わたしとは全く相容れないのだ。

このように、あるテーマについての講義、話し合い、意見の出し合い、或いは講演会などで、真っ先に手を挙げて異論を述べるというのは昔とちっとも変わっていない。

当然のこと(?)ながら、わたしの発言の後の皆の発言は、基本的にこの考え方を肯定しつつ、乃至、理解し咀嚼しようという姿勢で(少なくとも「否定」することなく)進んでいった。

このプログラムはみなが意見を言い合う場所なので、わたしは終盤、このように発言した。

「わたしはここに、(集団)認知行動療法のプログラムに、みなさんと一緒に参加しています。
そして、今日のテーマである「とらわれ」に限定せず、常々大方の参加者が良しとしている「認知行動療法」の考え方に疑問を呈しています。今日はそれが最も顕著な、見方によっては過激な形で現れました。では、そもそも、これを「全否定する」ということが、他ならぬわたしの「病い」なのでしょうか?そしてこれが所謂「認知のゆがみ」と称されるものなのでしょうか?
わたしはここに座って、今日のテーマを完全に否認し全否定している。みなさんご存知のように、他のプログラムでも大抵わたしは、程度の差こそあれ、皆とは反対のことを言っている。ではわたしはいったい何のためにこのデイケアに参加しているのでしょう?喧嘩を売るためでしょうか?敢えて不協和音を奏でて皆を不快にさせるためでしょうか?」

教室が静まり返った。

その後誰それからいくつか発言があったが、それもあまり記憶に残っていない。
ただ、丁度隣にいた最近知った60代くらいの、いったい何処が悪いのかと思わせる男性が、「自分を知るためじゃないかな・・・」と言ったことが印象に残っている。

自分を知る。自分と所謂その他大勢との隔たり、わかり合えなさ、共通点のなさというものを再確認するため・・・・?

プログラムが終わって、昼食の時間だ。わたしは午前の話し合いを終えて、すぐに帰るつもりだったので、昼食の申し込みはしていない。

みなが病院で出されるような食器(ここは病院だ)に入ったハヤシライスを食べている中で、わたしは一人、屈託と、後味の悪さに苛まれていた。
わたしの一連の発言に対し、誰一人、不快そうな表情をしたり、嫌味めいたことを言った人はいなかった。またかという苦笑も、聞こえなかった。

わたしはいつものように、自分が感じたことを率直に述べた。曰く「自己欺瞞」「喜怒哀楽の「怒」も「哀」も「わたし」(の一部)として引き受けるのが人生ではないのか?」
「あらゆるマイナスがプラスに転じる魔法が行き渡れば、芸術は存在しなくなる。フロイトは彼の許を訪れたグスタフ・マーラーに向かって言わなかったか、「あなたを治療することには躊躇いがある。何故ならあの素晴らしい音楽が聴けなくなるから・・・」と。何故そうまでして、悩みや悲しみというものを蛇蝎の如く、否、疫病の如く忌み、斥けるのか・・・あらゆる真の芸術は血の滴る「傷」から生まれるといったのは、ジャン・ジュネではなかったか。


とはいえ、この後味の悪さはなんだ・・・

そこで突き当たるのは、ちょうど一週間前、Tさんと話をした時に渡したメモの冒頭に書かれた言葉「そもそもわたしは「間違った存在」なのか?」













5 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん

    私は誰からも、なんとかの症状とかと言うなんの診断も受けてはいませんが、
    今の社会でより多くの人が当たり前の事のように共有する、定説とも言われるもののほとんどに同意しないし、大半の人が疑問をも抱かない事柄にどうしても疑問を抱かざるを得ない。と言う状況をずっと続けてきました。
    これは子供の頃からです。
    私は大体集団というものが苦手で、子供の頃も大半の子供たちが楽しみにする遠足、運動会、修学旅行、時々招ばれるお誕生日会などと言うものが大嫌いでした。
    私が今それをする事を望んでいないと言うのに、
    「さぁ、みんなで (一緒に) 何々しましょうー」と言われるとイラッと私の中で頭をもたげるものがあります。
    私は、「皆がこうしているから、、」と言う全く不可解な理由で、それが意見であろうが行動であろうが、それらに対して自分に従順を強いることができません。

    人が集まり、会話が発生する
    それが他愛ない世間話であったとしても
    誰かが発した、私には同意できない発言、私はそれに反論をしないわけにはいかず
    でもその私の反論はほとんどが異論の様を呈します。
    私の見方、考え方は、つまり「一般的」ではないようです。
    それでも、私は私に起きる、その機会の中で異論を唱え続けます。
    それは、この世の中に異論、異端が一つもなくなることの退屈さを恐れるからであり、
    実は人を簡単に傷つけるかもしれない鋭い刃を持った、「安易な」思考や言葉のみが、取り繕ったやさしさを纏って宙に浮遊し、拡がっていくのが見るに堪えないからかもしれません。
    ですから
    Takeoさんの問い
    これを「全否定する」ということが、他ならぬわたしの「病い」なのでしょうか?
    に対しては「否」
    「病い」などで有りようがありません
    むしろ、思考することなく、ほとんどの事を肯定出来ることの方が、私には「怪しく」映ります。
    そして
    わたしはいつものように、自分が感じたことを率直に述べた。曰く「自己欺瞞」「喜怒哀楽の「怒」も「哀」も「わたし」(の一部)として引き受けるのが人生ではないのか?」
    には
    全くその通りであると思います。
    私は何においても「良いとこ取り」ほど小賢しいものはないと考えます。
    そして
    「あらゆるマイナスがプラスに転じる魔法が行き渡れば、世の中にはあらゆる芸術は存在しなくなる。」
    全くその通りだと思います。
    まずなによりもプラスしか存在しない世界などあり得ませんし、
    プラスがマイナスよりも優良であるという事もありません。
    万が一 あったとしたら、ものすごくおぞましいものになるでしょう。
    社会を良くしようとかなどとはもはやそんな夢物語は考えなくなりましたが、
    私が、少なくとも、この世にいる限り、「プラスだけの世界」「異論の存在しない世界」などに暮らすのはまっぴらゴメンですから、よって私はせっせとマイナスを、そして異論を供給し続けます。

    昨晩友人と話していて、
    君のダークサイドは実に顕著だと言われました。
    君は自分自身の成長に対して、とても前向きなのに、そのダークサイドを今まで改善しようとしてこなかった、君の性格からすると実に不思議だと彼は言うのです。
    面白いので、あなたの感じる私のダークサイドとはどう言うものか。と問い詰めました。
    そうして彼が戸惑いながら語った私のダークサイドは、私が愛する私の性格の一部でした。
    「なぁんだ。そんな事?!
    改善?そんなもの直す気は全くないけど」
    その「所謂」ダークサイドがあるから、まさに、それゆえ 私、Junko なのだと言いました。
    ダークサイドが顕著?
    お日様が強ければ強いほど、影も濃くなる。ってことを聞いたことがあるか?と私は逆に尋ねました。

    そして
    「間違った存在」という事
    誰が言ったのか知りませんが
    「間違った存在」など、この世にもあの世にもそして宇宙をくまなく見渡しても
    そんなものは存在しないと私は考えます。
    私が大嫌いなあの安倍さんの、その存在でさえ、、、。
    間違っている」のは彼に与えられた彼のキャパシティに相応でない、巨大過ぎる地位と権利ではあっても、彼の存在を「間違った存在」だとは思いません。

    間違った、間違ってないという括りは、しばしば社会の定説、社会の、機能性やら合理性やら効率やら便利やらを求める実に浅はかな嗜好から生まれるものであり、
    退屈でも安定を求める大半の人々が、バイブルのように後生大事に抱え、信じ、そしてそれに必死に準じている、私からしたら全然自然でも魅力的でもない、よって全くわくわくしない、そう言う「退屈な定説」をそれぞれが極めて「聖」である個々の存在をジャッジする目安になどしたくないし、なり得ないと思っています。
    小さかろうが大きかろうが、弱かろうが強かろうが、見た目が美しくかろうがそうでなかろうが、、( 見た目って奴も社会が決めた規範に準じています、よって私は自分の基準で美も醜も判断します)
    それぞれの存在が、間違ったものなんかではなく、唯一、欠かすことのできない必須のそして尊重すべき存在であると私は思っています。
    私が個人的にその人のことを好きか嫌いかは別として、ですが、、。


    以上、私が感じた事です。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      長文のコメントをどうもありがとう。

      敢えて断る必要もないと思いますが、率直に思ったことを書きます。

      先日の投稿、「木曜の午後1時半」で、デイケアのスタッフである塚田さんと話し合った時のことを書きました。

      その時お互いが何を話したか、つまり言葉のやり取りの部分はすっかり(?)忘れてしまいました。ただ忘れられないのは、「ねえ、トランプしようよー」という言葉に胸が熱くなって、その理由を塚田さんに訊かれた時に、涙がこぼれたこと。
      みみず氏の言葉にいかにわたしが傷ついたかを言った時に、塚田さんの目が真っ赤になっていたこと。そして終始変わらなかった塚田さんの笑顔・・・

      言葉のやりとりで唯一忘れることができないのは、投稿にも書きましたが、「井出さんて、ほんとはとっても弱い人なんだよね」という塚田さんの言葉でした。

      主治医も、以前から、わたしの内面の極度の脆さを指摘していましたが、塚田さんのように、井出さんてとても弱い人なんだよねと、そのまんまを言葉にして「言ってくれた人」は嘗て誰もいませんでした。その時の気持ちは、「ああ、わかってくれた人がいたんだ」という歓びでした。

      ただ、主治医も、塚田さんも、口をそろえて言うのは、井出さんが本当は人一倍弱い人であることがわかる人はほとんどいない、それが、その周囲の「誤解」こそが井出さんの生き辛さの大きな原因なんだよね。

      確かに、弱い自分を見せることは往々にして自分に不利になります。また自分自身でも、自分が弱い人間であるということを認めたくないという思いを持つ人も少なくないでしょう。

      けれども、すくなくとも、塚田さんから、真正面から、「井出さんて本当は弱い人なんだよね」とストレートに言われた時、一瞬ではあるけれど、背負っていた重荷が降ろされたような気持になりました。

      もちろん引きこもって、外部の人間との接触がそもそもないのですが、わたしが求めて已まないのは、「弱いわたしを知ってくれる人、わたしが弱い人間であるということを認めたうえで、尚、付き合いを続けてくれる人です」

      「そもそもわたしは間違った存在なのか?」これはわたし自身の言葉であり、わたしの心の奥底から湧き上がってきた気持ちです。
      塚田さんの別の言葉で言うなら、「打たれ弱さ」です。

      わたしは弱い存在であるからこそ、悲しみにこそ「美」を見ます。

      時々、もっとはっきりと一目見て「弱い人間」であると識別できる人間であったらよかったと思うことがあります。

      >よって私はせっせとマイナスを、そして異論を供給し続けます。

      わたしは今、これ以上デイケアに参加し続けることができるかと考えています。
      もうずいぶん昔になりますが、アメリカの若い女性ミュージシャンが、「ストレートに物を言うことは時に暴力的なことでもあるから・・・」という言葉に深く頷きました。

      わたしは自分がそうだから、かどうかわかりませんが、弱っちい人間に好意を持ちます。

      わたしを囲むある集団の中に、「彼は弱い人間だ」と知ってくれている人がいるということは、とても心安らぐことです。

      と同時に、「弱い人間」=(障害を持った人)には親切でも、人として弱い人間に理解を示す人間は遥かに少ないという事実も知っています。

      「こころがよわい」ことを示すヘルプマークも存在しません。

      わたしが感じた後味の悪さは、「わたしは自分の思うところを正々堂々と述べた」
      で、終わらないところかもしれません。究極のところで、「おれはおれ」で完結(いい意味での開き直り)ができないのです。

      上手くまとまりませんが、Junkoさんに、そしてこれを読む人にぜひ知ってもらいたいと思うところを記しました。

      わたしのダークサイドへようこそ。





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  2. 晩夏、というには早すぎるだろう。蒸し暑い夕暮れ時、わたしはどうしようもない、ほんとうになすすべのない孤独、孤立に沈んでいる。なにがこんなにさびしいんだろう・・・

    夕べ頂いたJunkoさんの言葉。

    >昨晩友人と話していて、
    君のダークサイドは実に顕著だと言われました。
    君は自分自身の成長に対して、とても前向きなのに、そのダークサイドを今まで改善しようとしてこなかった、君の性格からすると実に不思議だと彼は言うのです。
    面白いので、あなたの感じる私のダークサイドとはどう言うものか。と問い詰めました。
    そうして彼が戸惑いながら語った私のダークサイドは、私が愛する私の性格の一部でした。
    「なぁんだ。そんな事?!
    改善?そんなもの直す気は全くないけど」
    その「所謂」ダークサイドがあるから、まさに、それゆえ 私、Junko なのだと言いました。
    ダークサイドが顕著?
    お日様が強ければ強いほど、影も濃くなる。ってことを聞いたことがあるか?と私は逆に尋ねました。

    「ダークサイド」というからには、「明るい面」もあるという前提で彼はしゃべっている。
    わたしには「明るい」「側」も「よい」「側」もない。
    わたしに「側」はない。

    あるのは暗闇だけ。そしてわたしは明るさを避け続ける。

    わたしが最も恐れるのはあたかも真っ当な人間であるかのように「誤解されること」そしてその結果として「失望されること」。

    だからこそわたしは機会をとらえては自分が「狂人」であると「化け物」であるといっている。それを否定されること、「あなたは狂ってもいないし化け物なんかじゃない」と言われることがどれほど苦しいことか。

    その言葉はわたしには「もし本当にあなたが狂人で化け物だったら、とても付き合えない」という言葉と同じ意味だ。

    嘗て山田花子が皮肉たっぷりに書いていた、エレファント・マン、ET、美女と野獣、外見の醜い者は大抵美しい心を持っているように描かれる、と。吐き捨てるように。わたしは彼女に共感する。

    しかしジョン・メリックが怪異な容貌を持ったのも、同時に美しい魂を持ったのも、彼の責任ではない。

    昨夜の投稿「暗い言葉」で列挙した言葉たちすべてに親しみを持つ。
    そしてこれらすべてがわたしの中に存在している。

    「あなたからは犯罪の臭いがプンプンする」と言った言葉にこれほどわたしが傷ついたのは、
    それが青梗菜たちの百の軽々しい言葉よりもはるかに「真実」だからだ。

    そして「だからこそあなたのような人間のカスにならないために、あなたのブログを読み続けたいんですよ・・・」

    あれ以来、わたしはおかしくなった。


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    1. Ciao Takeoさん

      >わたしには「明るい」「側」も「よい」「側」もない。
      わたしに「側」はない。

      あるのは暗闇だけ。そしてわたしは明るさを避け続ける。

      明るい、暗いはそれをどこから見るかで変わってくると思います。
      大事なのは明るい暗い。ではなく、いろいろな性質が混ざり合って、「その人らしく」 「その人自身」になるのだと言う事で、。
      Takeoさんにも 「側」はあります。
      少なくとも私には見えます。
      そうじゃなかったら、こんなにまとわりつかないでしょ ははは
      そして 百歩譲って 暗闇だけだとしましょう
      でも私にはその暗闇がとてもやさしく心地よいのだと言ったら、信じてくれますか?
      私が1日の中で一番好きな時間がお日様が沈んで辺りが暗くなり始める時、
      お日様がカンカン照ってる日中は、なんだか闇雲に頑張れと言われてるみたいで疲れる、と言うか、落ち着かないのですね
      で、お日様が沈み始め、辺りが薄暗くなり始めるとまあ、今日も終わったねとホッとして、寛いだ幸せな気分になります、そして闇がもっと深まった、町中すでにみんな寝静まっているだろう12時過ぎた辺りが、これまた好きなんですね
      深い静けさの中で、いるのは自分と闇だけ、そう言う空間は最高です。

      TakeoさんがTakeoさんの持っている才能や魅力をTakeoさん自身が認識しない事をとても残念に思いますが、だからこそ、Takeoさんなのでしょう。
      私はTakeoさんは弱い。と言うよりもやさしい、やさし過ぎるのだと思っています。
      そのやさしさが繊細さであり、それが脆さにもなり、だからこそTakeoさんのような深い洞察力や稀有な感性が生まれるのだと思っています。
      まあ、それを弱いと称するか、脆いとするかはどっちでもいいのですがね

      でもね、前にも言ったし、何回でも繰り返しますが、
      みみずのような、コンプレックスに苛まれ、ひとりですったもんだしている、自分のおぞましさ、残酷さを認識できないような小人間が(こう言うのを人間と枠組めるのであれば、、)「吐いた」言葉などに傷つき、おかしくなるのは、まったくもって遺憾です。
      ああ言う人間の、いわゆる悪意の威力が発揮されたなど思いたくないのです

      Takeoさん以上にTakeoさんのことを理解している人は多分いないのでしょうから、
      Takeo さんにそれが真実だと言われると二の句が継げませんが、
      私はTakeoさんからは今の世の中が喪ったやさしさの匂いを嗅ぎます。
      犯罪の臭いがプンプンするのは、むしろ彼の方ですし、 人間のカスと言うものが、彼の存在を持って初めて存在するのだと知りました。
      あれだけのカスは他に類を見ません。
      私は、青梗菜さんたちも多かれ少なかれそうだと思っていますが、
      彼がTakeoさんに対して、なんかしらの羨望、妬みを抱いていると感じています。
      そんな不幸で悪意しかない人間の思う壺になど、Takeoさんにはむしろ絶対にはまって欲しくないと心から思います。

      少し前からゴロゴロと雷の音がしていました、
      お洗濯物を干していたので、まだもう少し大丈夫だと思っていたら、
      うちの猫のビアがひょこひょこ、急ぎ足で帰ってきたので、雨粒が落ち始めている事に気付きました。
      夕立ちも大好きです。

      取り急ぎ、、

      Junko

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    2. こんばんは、Junkoさん。

      ここにいるひとたち3人。Junkoさん、ふたつさん、そして底彦さんは、(そして確か瀬里香さんも)前にも、「ここは居心地がいい」と言ってくれました。

      わたし自身は、その理由がわかりませんが、みなさんの気持ちを否定するつもりはまるでありません。

      わたしは自分が何者かまったくわかりません。だから、誰かがわたしの書いたものに共感するというようなことを言ってくれても、「え?どこが?」としか思えないのです。

      >Takeoさん以上にTakeoさんのことを理解している人は多分いないのでしょうから、

      以前はそんなことを考えていましたが、「わたしにとってのわたし」とJunkoさんにとってのTakeo、ふたつさんにとってのTakeo、底彦さんにとってのTakeoはどれもが真実なのだと思います。

      それは嘗てフォイエルバッハが、『キリスト教の本質』の中に書いた、「地球にとっての太陽と、天王星にとっての太陽は全く別のものである。太陽系の星の数だけの太陽がある」ということと同じだと思います。

      いずれにしても、自分で自分を肯定できないというのは、大げさではなく「悲劇」ですね。

      わたしは数年前、俳優のロビン・ウィリアムスが自殺したというニュースを聞いた時に、ジョン・レノンの暗殺の時よりもはるかに大きな衝撃を受けました。

      それこそ、どんな不幸なことでも、乗り越えることのできる稀有なユーモアのセンスの持ち主だというイメージしかなかったので。

      『シンドラーのリスト』撮影中のスピルバーグが、気が滅入って仕方がないので、彼のところに国際電話をかけて、「頼むからなにか面白い話を聞かせて笑わせてくれ」と頼むと、ロビンは、それこそお腹の皮がよじれるほどに笑わせてくれたそうです。
      (これはまだロビン・ウィリアムスが生きていたころの「アクターズ・スタジオ」でのインタヴューです)

      そんな人が首をつって死ぬなんて。

      わたしは今、深い森の中で道に迷っているようですが、いったいどっちに進めば出口で、どっちに進めばより深い森の中に入り込んでしまうのか全く分からずにひとり立ち尽くしています。

      声をかけてくれて、どうもありがとう。

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