昨日の投稿「人外として想うこと」に対して、日記の一部を引用させていただいた底彦さんからメッセージを頂いた。
先ず、底彦さんをはじめ、拙文を読んで下さった方にお伝えしなければならないのは、この「人外(にんがい)として想うこと」という投稿は、本来、あくまでも極私的な感懐を綴ったものであったのが、わたしの表現力の拙さから、人生の一般論になってしまったということ。
極めて特殊な個人の感情を、あたかも普遍性を持つかのように書かれれば、底彦さんならずとも、抵抗を感じる人がいるであろうことは容易に想像がつく。
以上のことについて、底彦さんはじめ、拙文を読んで下さった方に、お詫びを申し上げます。
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上に書いたように、ひとことで言えば、これは今現在のわたし自身の偽らざる気持ちなのだ。
「生の倦怠」・・・などともったいぶった言い方はやめよう。ただただ生きて在ることに草臥れはてているのだ。
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二月の十日、前日から東京地方に大雪警報が出されており、昨日までの晴天とは打って変わって、灰色の空から白いものが舞い落ちる日、わたしは一年と三カ月つづいた立川での生活を切り上げ、元の場所に戻って来た。耐えきれずに逃げ出した場所に舞い戻って来たのだ。状況は改善されていたか?「なにも・・・」結局立川の生活で、孤独に因る自律神経の乱れにより、眼圧の急激な上昇=緑内障の悪化を招き、もともと二十代前半から既に視野の半分以上が欠けていた右目の視野が更に狭まったという結果だけを持って、「我が家」に還って来た。
一年間のほぼ完全なる「引きこもり」生活によって、外出困難と対人恐怖はますます昂じ、引っ越しから一か月後、即ち今月十日に久し振りに外で会った友人と過ごした時間も、絶え間ない不安と緊張に終始した。
母以外の家族との不和からここから逃げ出したが、片目を潰して戻って来た。ついでに外出恐怖と対人恐怖も一緒に引き連れて・・・
尾籠な話で恐縮だが、来年卒寿(九十歳)を迎える父とは、毎晩競うようにトイレに通う日々である。共に一晩に六回はトイレで用を足す。
わたしは父の一挙手一投足が気に入らない。父と暮らしているといつ暴力沙汰になるかもしれないという懸念から、三年前、父を埼玉のケアハウスに入れた。けれども、そこでの待遇が良くないということと、父のいなくなった部屋に、毎日立川から通って来る弟が泊まる日が増えるようになって、それにも耐えられなくなり、いっそわたしが出て行った方が早いのではないかと判断し、わたしが弟のいた立川のURに移り住んだ。そして父も戻って来た。(ケアハウスから呼び返したのは、主に、コロナにより、一切の外出と、外部からの面会が禁止されたことによる。父を呼び戻そうと主張したのは他ならぬわたしである・・・)
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立川での生活は静かであった。エレベーターなしの五階建ての五階の部屋で、ひとりで住むには十分な広さであった、大規模団地ではあるが、隣の棟との間隔も広く、不規則に並んでいるので、見晴らしは良かった。一歩も外に出ない生活であるならば、ほぼ、申し分なしと言ってよかった。けれども、その間ほぼ毎日、母がここから食事の世話に通って来てくれていた。以前書いたように、自炊生活はひと月ほどであっけなく挫折し、スーパーやコンビニで買ってきた出来あいの食事で味覚障害を起こした。
わたしは折々「人の世話にならなければ生きることのできない者の生きる権利」について云々するが、それも決して一般論には成り得ない。わたしはあまりにも特殊な人間である。
誰かの世話にならなければならない人間の生きる権利について語るときに、わたしのように、世話をする人間の負担が大きすぎる場合には、「誰しも生きる権利がある」などと「綺麗事」は言ってはいられない。再三述べるが、イタリアの哲学者クローチェのいう「何者かの犠牲の上に成り立つ生は許されるのか?」という問い掛けにわたしはいつも考え込んでしまう。
以上のような、人生に対する存在の芯からの疲労と、それを放棄してしまいたいという捨て鉢な気分が、昨日の文章を書かせた。
決して一般化できない特異な人間・・・ならぬ人外の正直な気持ちとして。
これ以上生きることにいったいどんな意味があるというのか?左目の具合も決して良くはないどころか、悪化している気もする、けれども、この辺りの眼科では緑内障をきちんと診られる眼科医はいない。昨年、悪くなった右目を手術した御茶ノ水の眼科病院に通うのを止めた理由は既に書いた。わたしの目は悪くなる一方なのだ。そして草の根を分けてでも名医を捜すというほど、わたしは最早生に執着を持ってはいない。
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いまのわたしには底彦さんの言われる
「無価値感は苦しいものです. 自分のしていることの全てに意味も価値も無いように思えてきます.
これは堪え難い苦しみです.」という言葉の意味がわからない。
いや、「今のわたし」に限らない、わたしは昔から言葉による自傷行為を繰り返してきた。このように自分を「人外」(=人ニ非ズ)と呼ぶのも、決して、卑下の気持ちからなどではなく、その方がずっと気持ちが楽なのだ。
もとよりわたしの存在は無意味であり無価値である・・・と言いたいが、わたしの存在は母にとって有害である。わたしの生は母の人生の犠牲の上に成り立っている。そのような自分をどうして赦すことができようか。
わたしは自ら自分を鞭打つのだ。生まれてきたことに対して。
「生誕の災厄」とは、障害のある子を持つ親の言葉であるはずだ・・・・
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