2019年12月30日

美意識と妥協・・・


書くことが覚束なくなった。これもまた、ここ数年の裡にできなくなったことのひとつだ。
筋道を追って考えるということが難しい。わたしがよく使う「つまり・・・」とか「即ち・・・」という言葉で話を繋げ、展げてゆくことが困難だ。
そして思考力の低下と共に、集中力の低下は更に著しい。

絵を選ぶことは瞬発力だ。この絵が好きか?感覚・感性、即ち非・言語的な領域だ。投稿した絵や写真についてあれこれ語る必要もない。しかしそれとても、だんだんと関心が薄れてきているような気がする。グラスの中の氷が解けだして、酒が次第に薄められてゆくように・・・



スマホと妥協することも辞さないというほど、今の世の中は、生きるに価するものだろうか?
しかしスマホを含め、ほとんどのデジタル製品を拒絶して、嘗てのような「便利な」生活は望むべくもない。

デイケアの大きな部屋の窓際に、マンガや精神疾患関連、就労関連の書籍、新聞などが並べられている。その中に、女性誌もある。何の気なしにパラパラとページをめくってみる。
若くて(?)綺麗な女性モデルの写真が並んでいる。空想の世界とは言え、20年前なら、否、10年前でも、綺麗で、話が合えば、友達になるのに問題はなかった。というよりも、「ああ、こんな女性と知り合いになれたらな・・・」などという空想は自然だった(勿論、付き合ってみて、意外な面が見えてくるということは、いつだってあることだけれど)
けれども現在は、美しく、趣味のいい女性と、「はじめまして」とテーブルを挟んで椅子に腰を下ろして、次の瞬間、目の前の女性が、バッグからスマホを取り出して、手元に置く・・・それを見ただけで、「次回はない」。
家族会の年配の女性と話した時も、「そういうことが目の前の相手に対して失礼だという感覚がないのね・・・」と言っていた。
「失礼だという感覚が無い」そのことが全く理解できない。ということは、目の前の美女とわたしとは、所詮異世界の人間であったということだ。

現実にわたしは、まだ楽天のブログを書いていた頃だったと思うが、フェイスブックで知り合った70代の女性と数回会っている。最初は新宿のジャズ喫茶で、次はその翌月に渋谷のBunkamuraの展覧会に。その時に彼女に撮ってもらった写真を観た人もいるだろう。
その後わたしが新宿や渋谷などに行けなくなった時、彼女は約1時間の道のりを、電車を乗り継いで、わたしの最寄り駅まで来てくれた。この駅は国分寺と国立に挟まれた、喫茶店も、軽い食事ができる店もなにもない駅で、わたしたちは駅ビルの中のパン屋のイートインコーナーで、パンを食べおしゃべりをした。その頃既にインスタグラムに熱中していた彼女は、特別なものでも無いパンを、食べる前にスマホで撮影する。

彼女はいいひとである。優しい人である。アート好きであり、大学では美学を専攻していたひとである。けれども、わたしは彼女のスマホ好き、インスタグラム好きに馴染むことが出来なかった。つまり「妥協」できなかった。自分の価値観を押し通した・・・
その後彼女から2度ほどメールがあったが、わたしは返事をしなかった。
何故?わたしには彼女の趣味に干渉する権利も資格もない。「スマホをしまってくれませんか?」というのはこちらの我儘でしかない。「何故あなたにそんな指図を受けなければならないのか?」

今の時代、心根優しく、趣味が合い、わたしのような人間にも優しく接してくれる人・・・だけでは友達にはなれないのだ。「趣味が合うこと」と同程度にスマホに対するスタンスが似ていることが(わたしには)「必須条件」なのだ。

優しくとも、美しくとも、どんなにアートの趣味が、映画や音楽の趣味が似ていようとも、そしてそのKさんのように、「気が合っても」「スマホ」次第で、どちらにでも転びうるのだ。



この先仮に(デイケアなどで)第二のKさん(年齢性別を問わず)が現れた時に、わたしは自分の美意識に蓋をできるか?
それともまたKさんのように、訣別か・・・

ちなみにわたしがKさんに対して左程心苦しく思っていないのは、彼女は友達も多く、頻繁に美術館に足を運んでいる人なので、わたしなどがいようがいまいが、大した問題ではない・・・全然問題ではないことを知っているからだ。

これから友達に成れそうかな?という人には、同じ轍を踏まないように、わたしのスマホ嫌いのことを伝えておく必要があるだろう。

誰もが怪訝そうな顔をするだろう。

もうとうに、わたしの時代は終わっているのだ。







0 件のコメント:

コメントを投稿