2020年1月1日

「美しい心」と「スマホ」は両立しうるか・・・

嘗てこれほどまでに「存在の持続」ということを意識した新年はなかった。
言い方を換えれば、「いつまで生きるのか?」── これは何も「自死」のことばかりではない。母も、わたしも、ここのところ体調が優れない。
一方で、現代に生きる意味というものを見出すことは出来そうにない。
現代という時代、そこに生きる人間に対して、そもそも敵対的な眼差しを向けている。
こんな時代にも何かしら美しいものがあり、心の美しい人がいるかもしれない、という気持ちに敢えて蓋をしているところがある。

「わたしはスマホを持たないから心が美しい」などと思ってはいない。わたしは「狂人」という「別枠」に置いて、尚、「うつくしい心」と「スマホを持つこと」は両立しうるのか、という大きな疑問がある。

先に書いたように、「スマホを持った美女(美男)」というものは存在しない。
「障害を持った美女」も「ホームレスの美女」も存在するけれども、「スマホを持った美女(美男)」は存在しない。
何故なら「スマホ」というものそれ自体が、「醜くさ」というものの象徴なのだから。



自分の体調であろうと、母の体調であろうと、具合が悪いと不安だ。「死」に怯えている。それでいて、どうしても、「健康であること」「元気でいること」の意味を見いだせない。刻々と迫りくる死の影に蒼くなって震え、同時に生きる意味がわからない。この世界に「わたし」にとって意味のある何があるのか・・・わからない。

残された道は真の(今が偽りというわけではないが)「狂気」。
何故なら「狂気とはこれ以上進行することのない心痛」なのだから。

死ぬことを 持薬を飲むがごとくにも
我は思へり
こころ痛めば

「死ぬこと」ができない以上、狂うしかないのではないか・・・

嘗てこれほどまでに「孤独」「孤立」を感じた年の瀬はなかった。
「時代に取り残されている」という感覚ではない。「置いてけぼり」という感覚は、まるでない。
「取り残される」「置いてけぼりにされている」というのは、先を行く人たちに、「距離」を引き離されているということだ。けれども、わたしが問題にしているのは距離や時間ではない。そもそも同じ空間、同じ地平にいない者同士、「取り残される」とか「遅れる」という概念は使わない。火星や金星は地球に取り残されているのか?地球に遅れているのか?或いは先んじているのか・・・

わたしは現代に遅れているわけではない。そもそも「現代」にいないのだから。
その点について、どこかのブログの愚者が言った、「現代についていけないものだから・・・」という言葉は全く当を得ていない。

生きていることが苦しくて仕方がない。辛い・・・
布団を被って、背中を丸めて膝を抱えて呻いている。それは「存在することの痛み」であり、「存在の傷」の疼きである。
蛇足を言うなら「存在」とは、そもそも「傷」である。




8 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    体調はいかがですか. 穏やかであることを願っています.

    読んで少し引っ掛かったことがあったので短くまとめてみます.
    ここ数日, 考え続けていることと通じるところもあるので.

    > 「死ぬこと」ができない以上、狂うしかないのではないか・・・

    Takeo さんは別のところで「狂っているとはどういうことか」というようなことを書いていたと記憶しています.

    昨年末, デイケアの友人たちと飲みました. 忘年会です.
    十数人が小さな居酒屋で楽しく騒ぎました.

    年末ということもあってか居酒屋は満員でした.
    友人たちと話ながら私が気付いたのは, 私たちは少しおかしいということです. それはこれまでもこのような場でしばしば感じてきたことです.

    うまく言えないのですが, 世間に染まっていない, 社会というものについて無知である, 一般常識が無い, 気配りや気遣いができない, そう言った印象です. 他の客の様子と比較して時折かなり際立ちます.

    極端な書き方をすれば「あまりに純粋で無知で脆い」となるでしょうか.
    その純粋さは, その人の人格や気質の面の美しさとしての純粋性ではなく, 病のせいで社会から遠ざからざるを得なかったためにある意味で浮世離れしてしまった結果としての悲喜劇のような純粋さです.
    社会での振る舞い方を知らずに成人してしまった結果としての無知や脆さです.
    幼少期・青年期・成人期に発症し, 「社会」から弾き出されて身体だけは大人になってしまった人たちです.

    私は以前, 所謂「社会人」でした. どのような人が社会人と呼ばれるのかは知っていました.
    今はもうわからなくなりました.

    それはともかく, 初めてデイケアに参加したときに他のメンバーから感じた違和感は忘れていません. 社会からの隔絶と言えばいいのか.
    その違和感が「純粋さ」と「無知」と「脆さ」であり, それを今回も感じたということなのです.

    今では私もそれらを身にまとっているということでもあります.
    ですから今は私自身も私たち以外の客から「どこかおかしい」という目で見られているだろうことを自覚しています.

    敏感な人は私たちを「狂っている」「異常だ」と感じるのではないか.
    そうだとしたら, 私たちはその有りのままですでに狂っているということにはならないか.

    しかし, 実際は心の病と診断されているだけなのです. Takeo さんは「心の病」ということについて, あくまで現代社会との相対性において病なのであるとも書かれてはいなかったでしょうか.

    そこで,

    > わたしは現代に遅れているわけではない。そもそも「現代」にいないのだから。

    という文章ですが, 私も「現代」にはいないのだ, というようなことを忘年会以来考えているのです.

    「現代社会」などというものは単に向こう側の理に過ぎないのではないかということです.

    もしそうなら私はかなり救われます. 私に降り懸かった人格否定や無視や冷笑などの精神的暴力は, 私がたまたま間違った世界に迷い込んでしまったために起こったのだ, そのように考えられれば向こう側の世界に行かなければいいという話になりますから.

    狂っていることが私の存在の在処なのだ, という考えです.

    というようなことを考え続けているのですが, 幾分か混乱していることは間違いありません.
    まとまらない文章で申し訳ありません. これが精一杯なのです. ごめんなさい.

    他にも書きたいことがあるのですが, まとめられそうにないので箇条書きにします.

    ● ふたつさんの英詩は心に届きました. とても美しい言葉が綴られていると思いました. 詩というものは本当に心に染み込むのですね.

    ● Takeo さんの最近の絵のブログは素晴らしいと感じています. これらの絵を衝動的な直観で選ぶことができるというのは Takeo さんの素晴らしい才能だと思います. できればそれが少しでも Takeo さんの心に平和をもたらすものでありますように.

    ● こんなにも美しいヌードや, 恐怖と狂気を感じさせる不思議なダンスの絵など.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      メッセージをありがとうございます。

      コメントを読んで「狂気」について、底彦さん自身の観点、あるいは位置が定まっていない気がします。

      ここではわたしが頂いたメッセージから受け取った印象を断片的に述べてみます。
      あくまでもわたしの「印象」です。底彦さんの考えとのズレがあるかと思いますがご容赦ください。



      わたしは先日「純粋であること」「(過度に)繊細であること」はそれだけで反・社会的な態度である。と書きました。

      底彦さんの居酒屋での描写を読むと、底彦さんのグループが「他の客」に比べて「おかしいのではないか」人によっては、「狂っている」「異常である」と感じるのではないか、と。
      この地点では、底彦さんは、デイケアのメンバーを、どこか軽んじている感じを受けます。割って言えば、底彦さんは未だに所謂一般に「社会人」と称されている「多数派」の視点から、それをスタンダードとして、彼らを観、そして裁いてはいないでしょうか?

      >極端な書き方をすれば「あまりに純粋で無知で脆い」となるでしょうか.
      「あまりに純粋で無知で脆い」ことは、なにかいけないことでしょうか?
      言い換えれば、世間知があり、世慣れていること、そつがないことは賞賛すべきことでしょうか?

      今のわたしのぼんやりとした頭で考えると、底彦さんは、属性そのものの質を問うているのではなく、「世の多数派」と「私たちマイノリティー(障害者)」という極めて大雑把に二分し、木村敏謂うところの「多数派正常の原則」に加担しているように見えるのです。

      そして

      >今では私もそれらを身にまとっているということでもあります.
      ですから今は私自身も私たち以外の客から「どこかおかしい」という目で見られているだろうことを自覚しています.

      この感懐には、自分も彼らと同じレベルに「落ちた」という意識が言外に聞こえるのです。

      わたしが屡々底彦さんの文章の行間から感じるのは、底彦さんの無意識に、抜きがたく、「社会人であることの優越性」という「幻想」「思い込み」が刷り込まれているということ。

      しかし同時に、この文章の後半にも現れているように、底彦さん自身の本質の中に、「社会人」という生き方、存在に対する、本能的な抵抗も存在している。

      >私に降り懸かった人格否定や無視や冷笑などの精神的暴力は, 私がたまたま間違った世界に迷い込んでしまったために起こったのだ

      これは間違いのないことだと思います。



      「狂っている」「まともである」というのは固定したものではなくあくまで関係性の中での現象です。江戸時代に常識であったことを今行えば、明らかに「狂っている」と言われるでしょう。バーナード・ショーだったか、「99人の狂人の中に1人の正気の者が入っていけば、彼が狂人だ」という言葉があります。

      イノセントである、ナイーヴであることは、現代社会で生きるには、マイナスに働く資質でしょう。けれどもそれは本来は「美質」であるはずです。「それじゃあ社会じゃ通用しない」が万能の物差しではありません。
      「嗤うもの」と「嗤われる者」どちらの「側」に居たいか、それはそれぞれが決めることです。
      繰り返しますが、「嗤うもの」が「正常」なのではありません。ただ、その数が多いというだけです。

      そして付け加えたいのは、底彦さん自身も含め、誰も好んで、望んで病気になったわけではなく、わたしも含めたそのような人たちの不器用さ、不細工さは、彼らの責ではないということです。自分自身精神障害者であり、また家族に同じ障害者を持ったものとして、自戒を込めてここに記しておきます。

      何か疑問や、勘違いの指摘などあれば気軽に聞かせてください。
      こちらも何やらまとまらぬままに、感じたままを率直に書きました。



      アートのブログ、気に入ってもらえてなによりです。底彦さんに褒めてもらえると励みになります。わざわざお伝えくださってありがとうございます。

      底彦さんも心穏やかな年始を送ることが出来ますように・・・

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    2. こんにちは, Takeo さん.

      返信をありがとうございます.

      Takeo さんの文章の中の一文

      > わたしが屡々底彦さんの文章の行間から感じるのは、底彦さんの無意識に、抜きがたく、「社会人であることの優越性」という「幻想」「思い込み」が刷り込まれているということ。

      には少なからず打ちのめされました. これはおそらく事実だと思います.
      そしてこの意識は, 私が良くないときに襲われる自己否定, 自己嫌悪, 罪悪感の根底にあるものです.

      それともう一つ

      > イノセントである、ナイーヴであることは、現代社会で生きるには、マイナスに働く資質でしょう。けれどもそれは本来は「美質」であるはずです。「それじゃあ社会じゃ通用しない」が万能の物差しではありません。

      私の中に, この言葉に激しく抵抗する部分と否応無しに受け入れざるを得ない部分があります.

      まずイノセント, ナイーヴであることは「美質」ではないという意識があります.
      しかし, それは私自身が特にその言葉本来の意味でナイーヴな人間であるということ, 正しく Takeo さんが書かれた通りの「そんなことでは社会では通用しない」と言われ続け否定され続けて大人になった結果の歪みの表われなのだと思います.

      > 「それじゃあ社会じゃ通用しない」が万能の物差しではありません。

      私は心の底からこの言葉を発したいです. しかし未だにどうしても言うことができません.
      私のナイーヴさを否定し続け無理矢理に矯正しようとした者たちの表情や声の調子などが明晰に私の中に刷り込まれており, それに切り刻まれ潰されてしまいます.
      私が一つ確かだと思うのは, これは明確に傷であるということです. 堪え難い痛みを引き起こす癒えない傷です.
      それは本当に確かなのです. 助けて欲しいと思います.

      デイケアの人たちに私が感じてしまう優越感は消すことは非常に難しいと思います. 歪んだ価値観でも数知れず繰り返して命令されてきた結果として, 知らず従ってしまうようになったのではないかと考えています.
      これは私の醜さで, しかし今のところどうにもならないのです. もしこの意識を消すことができるならば, どんなにか心が解放されるでしょうか.

      それでも, もう一つ私が確かだと感じることもあって, デイケアの皆・当事者である人びとと接しているとき ── たとえば忘年会などで ── の私の中には自分の本当が含まれているということです. この場所では嘘を付く必要が無い, 自分にとって非常な無理をして周囲に付いていこうとしなくてよい, 私自身の弱く恥ずかしく惨めな部分も晒け出すことができるという安心があります.

      「狂っている」と「正常である」の単純な二元論もそのような流れで私の中にあって苦しいのですが, こちらはほんの少しとは言え希望のようなものがあります.
      この数年少しづつですが「狂気」や「正常」とは様々な精神の状態の中にある色彩のようなものなのではないか, と思い始めています.
      自分が何か広く静かで穏やかな世界の中にある一つの点なのだと, なぜか思えるのです. その外は激しい嵐なのだとしても.

      現代の精神医学ではそれ ── 精神疾患のスペクトラム ── は当たり前の事実だと言われるかも知れませんが, 受け入れるのは今の私の状態では無意識の抵抗が強くなかなか難しいというのが正直なところです.
      しかし不可能ではないのではないかとも考えています.

      Takeo さんとのこのやり取りには, 私の傷に関する極めて重要な示唆が含まれていると感じています.

      ジュディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』というしばしば助けられている本に

      「この暗い部分は、不動の女神の支配する世界で、真実なものはただ恐怖のみ」

      とあるのですが, そのようなものと関わっている気がします.

      まだ書きたいことはあるように思うのですが, ひとまず書けることを綴ってみました.
      考えがまとまってきたらまたコメントします.

      自分のことばかり書いてしまってごめんなさい. それからもし私の文章で不快に感じられたらごめんなさい.

      Takeo さんもできれば穏やかで平穏な年始を過ごされますことを.

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    3. こんばんは、底彦さん。

      ご承知のように、このところ、集中力が続かず、昨日の返信も、ろくに検証もせずに、文字通り、印象を語っただけなのですが、なんとか言わんとすることは通じたようでなによりです。

      底彦さんの内部で、相反する対立する感情が拮抗していること、そしてその分裂に底彦さんが苦しめられていることは承知しています。

      人の気質は様々で、幼いころからかなりの社会性を備えている人(子供)もいれば、本来の底彦さんのように、内向的な資質の人もいます。けれども、社会というものは、その本来の資質とは無関係に、人間を社会化させようとします社会に都合のいいようにカスタマイズしようとします。

      わたしのように、端から、アウトサイドにいる者、幸か不幸か、それを許容する両親に育てられたこと、プラスこれも幸か不幸かわたし自身の持って生まれた「無能性」によって、社会の方がわたしを、「要らない」と言ってくれました。

      「塞翁が馬」という故事をご存知でしょう。日本では「禍福はあざなえる縄のごとし」と。
      落馬して脚が不自由になってしまったことを嘆いていると、健康な者は皆兵隊にと取られて戦死してしまった。自分はこの不自由な脚のおかげで命が助かった。

      わたしは「無能なるが故に」社会から弾かれた。一方底彦さんは、自身の頑張りもあるでしょうし、また無理をして、ということもあるでしょうが、元が無能ではなかったので、戦場に駆り出され、第一線に於いて傷を負ってしまった。

      「フロントライン」── これは有能優秀であることを意味します。そこから底彦さんの「優越感」が生じるのは自然のことと言えるでしょう。同時に、フロントラインは「死地」でもあります。ですから、よほど精神的にタフな者でないと、潰されてしまいます。そのプレッシャーに、重責に。

      「戦場」と「会社」とを完全に重ね合わせることは無理ですが、比喩としてそれほど大幅にズレてはいないと思います。

      この返信で底彦さんの書かれていることはとてもよくわかります。
      底彦さんが、デイケアの仲間たちや、アルコール依存症のピアカウンセリングの中にいて、心の平穏を見出すこともよくわかります。そしてそれが「本来の」底彦さんの姿であろうことも。

      わたしは、底彦さんにデイケアの人たちや、ご自分に対する表裏一体となった優越感ー劣等感を捨ててくれとは言いません。それができないことが最大の苦しみなのだから。わたしのその分裂したままの優越感と劣等意識の混在物である底彦さんを丸ごと受け容れます。

      わたしがいま言えるのはそれだけです。

      またいつでも書いてください。

      真摯なメッセージをありがとうございました。

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  2. こんにちは, Takeo さん.

    本来の自分ということとも関連して少しだけ.

    > わたしのように、端から、アウトサイドにいる者、幸か不幸か、それを許容する両親に育てられたこと、プラスこれも幸か不幸かわたし自身の持って生まれた「無能性」によって、社会の方がわたしを、「要らない」と言ってくれました。

    まず, ご両親が Takeo さんを許容してくれたこと, 本当に良かったですね.

    そして, 社会が Takeo さんを「要らない」と言ったかどうかはともかく, Takeo さんからも折々の局面で社会に対して「要らない」と言ったことは無かったでしょうか.
    社会や集団意識というものは個人に対する暴力装置として機能することがあります.
    もしそれを「要らない」と言って拒絶したのであれば, 私はそれを Takeo さんの強さだと思いますし羨望の念も感じます.
    私はそういうことができませんでした. できずに無理をして社会に合わせようとした結果鬱が酷くなりアルコール依存症にもなったわけです.

    けれども鬱がどうしようもなくなって入院したことをきっかけに自分の中に小さな安心が生まれてもいます.
    以前 Takeo さんのブログの中に, 心の病からの治癒に関して述べた

    > 平気で(彼にとっての)「バトルフィールド」或いは「地獄」に留まって居られることが「治癒」の謂いなのか?

    という文章があり印象的でした.
    治癒ということについては機会があれば別に書きたいと思いますが, 私は心の病を患ったことによって助けられたと思うことがあります.
    そのような「地獄」に戻らなくても良いのだ, と感じる部分があるのです.
    堪え難い苦痛は変わらずにあるとしてもです.

    Takeo さんはそのような感覚はありませんか.
    苦しみだけがある世界ですか.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      >まず, ご両親が Takeo さんを許容してくれたこと, 本当に良かったですね.

      そう思います。といってわたしの親は確たる教育方針や哲学を持ってわたしになにものをも強要しなかったのではないと思います。父は子供のことは母に任せたままでしたし、母も、今のわたしという人間が、母の影響を色濃く受けていることからもわかるように、所謂「普通の」母親とは違っていたのだと思います。
      ですから、こんにちでも、娘や息子に、「いい歳になっていったいいつまでひとりで・・・」云々という発言、発想は、わたしや母にとっては全く理解できないことなのです。とにかく「結婚」「孫の顔」をはじめ「定職」「いいところ」「将来の安定」といった、社会的なことを一切両親の口から聞いたことがありません。

      底彦さんの「成人」までの成育環境をしりませんが、かなり違っていたのだろうと想像します。

      わたしは極めて弱い人間です。ですから、無理強いされることに耐えることができません。ですから、底彦さんの考えている「強さ」とは違うと思います。
      底彦さんは、ある程度までの無理が可能だった・・・こういう言い方が適当かどうかわかりませんが・・・少なくとも、わたしほど徹底して無能ではなかった。また社会や会社も、底彦さんに無理することを求めた。それは底彦さんに「能力」があったからではありませんか?
      わたしのように単なる「頭数」であれば、「いいよいいよ来なくても」「他はいくらでもいる」のだから。



      このコメントを拝見する限りでは、底彦さんが、最終的に、なにをゴールとしているのかがよくわからないのです。

      >私は心の病を患ったことによって助けられたと思うことがあります.
      そのような「地獄」に戻らなくても良いのだ

      この文章だけを読むと、あたかも、今の状態が、戦場からの離脱が、安息の地であって、もう、わたしの解釈するところの、「社会復帰」を志向してはいないようにも聞こえるのです。
      しかし、わたし自身そうですが、人の気分なんてちょっとした条件や契機でしょっちゅう変わります。

      そして、その時々の気分や考えに翻弄・・・乃至従順で構わないのだと思います。

      >Takeo さんはそのような感覚はありませんか.
      苦しみだけがある世界ですか.

      難しい問いかけですね。

      「苦しみだけがある世界」というよりも、「楽しいことの何もない世界」と言った方がより正確だと思います。

      こういう言われ方は遺憾かもしれませんが、底彦さんの苦しみは詰まるところ「病に因る」苦しみ(だから取り除ける、というのではありません)けれどもそれは、わたしのような、存在自体の生きていることそれ自体に伴う苦しみではないように思えるのですが、それはわたしの身勝手な言い草でしょうか。

      わたしは決して、苦しみの軽重を論じているのではありません。

      ただ、わたしの十倍の苦しみの中で、映画に行ったり、友人と飲みに行ったりしている底彦さんと、何が苦しいのかさえ分からず、何もできないわたしとの相違を改めて、考えるのです。

      不作法がありましたらお詫びします。

      先日投稿した絵、頭の中が疾風怒涛のように混沌としているかに思いましたが、実は全くのべた凪なのかもしれません。





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    2. こんにちは, Takeo さん.

      数日が経ってしまいましたが, 返信を書きます.

      Takeo さんの

      > このコメントを拝見する限りでは、底彦さんが、最終的に、なにをゴールとしているのかがよくわからないのです。

      という文章を読んで自分の書いたものを何度も読み返してみましたが, 私もよくわかっていないようです.

      > わたしは極めて弱い人間です。ですから、無理強いされることに耐えることができません。ですから、底彦さんの考えている「強さ」とは違うと思います。

      Takeo さんはその文章を読めばわかりますが, 自分に対する否定・攻撃性が非常に激しいかたです. それは自己肯定感の低さといものを超えているようにも思います. その一方で「無理強いされることに耐えることがきません」という気質を備えているのですね.
      それらのことにより「社会」から「離れる」ことができたのではないのかと思いました.

      特に「無理強いされることに耐えることができません」と言い貫いた Takeo さんへの羨望があります. どうしてかというと私はそれができないからです. 私なら「無理強いされたとしても何とかしてやり遂げる」「それは自分の成長に繋がる」と思って身を投じていったことでしょう. 自身のこの醜い前向きの姿勢にはうんざりします.

      極めて内向的な人間が非常な無理をしてこのような行動をとることは, 精神に著しい負担をかける結果になります. 最終的に心が折れ心の病に罹る結果に至ったのです.

      以下, 繰り返しになってごめんなさい.
      周囲からの自分の内向性を「否定」「矯正」する「教育」もしくは「躾」の行動や言葉, 鬱病で何もできなくなったときに投げかけられた人格否定, 無能扱い, 侮蔑の言葉や無視などの行為, それを行った者の表情・声の調子・周囲の冷笑などは, まるで写真のように明晰に記憶の中にあって何かの拍子に頭の中に浮かび上がってきて私に堪え難い苦しみを強います.

      私は記憶の中のこのような者たちを抹消したいのです.
      そしてそれが私の「治癒」であると思っています. 現在でもその考えは基本的には変わりません.

      しかし, それでも心の病になったことでそういう者との接触はしなくてもよくなった. アルコール依存症の自助グループやデイケアへの参加によって心の平穏が得られる場所も見つけられた.

      先の Takeo さんの文章での私の混乱は, これほど望んでいる「治癒」が私のそのような安息の場を奪ってしまうことになりはしないか, という恐れから来ているのだと思います.

      そこには再び私の歪んだ倫理観「人は自ら働いて得た収入で誰にも迷惑をかけずに自立した生活を営むものだ」が入り込んでくるのです.
      「治癒」が成されたのだからまた「社会」に「復帰」して戦わなければならない. すなわち再びあの「地獄」の中の住人にならなければならないという極端な結論を自分自身で導きだしているのです.

      これは私の思い描いていた「治癒」ではありません.

      ただおそらく, 昨年末からの私の思索の試みはこの問題に対する別の道筋を示していると思われます. 小さな希望と共に.
      それは, 私の病が精神の様々な在り方の中での一つの色彩としての点であるならば, この色彩が穏やかに在り続けられる方法を見出だせればいいのではないか, それを見出だすことが治癒なのではないか, という考えです.

      これを受け入れるには, 私の持っている歪んだ「社会」や「仕事」「社会復帰」という概念を根源的に見直すもしくは棄て去ることが必要な気がします.
      これらが混ざり合って私の先の文章は混乱してしまったのでしょう.

      Takeo さんに, 病によって安息を得たというような「感覚」が無いかと質問したのは, 「治癒」という行為に疑念を持っているような Takeo さんは自分の存在の在処を何処に持っているのだろうか, と聞いてみたかったからです.
      私には自分の居場所が無いのですから.

      > 「苦しみだけがある世界」というよりも、「楽しいことの何もない世界」と言った方がより正確だと思います。

      「楽しいことの何もない世界」という言葉からは, どうしても「虚無・空虚・絶望」といった印象を受けてしまいます.
      このような世界に置かれたら, ことによれば人は発狂してしまうでしょう.

      それでも Takeo さんの感性は鋭敏だと思います. それは絵のブログを見ていればわかります. また考えがまとまらず文章が書けないと仰っていますが, 明晰な分析力は十分に働いていると思います.
      それらが Takeo さん自身にも抑え切れずに表出したのがこのブログでありもう一方の絵のブログなのではないでしょうか.
      Takeo さんの実生活の閉塞感がこのことに繋がっているのですか?

      Takeo さんは昨年末以来, 現在の生活の状況がご自身を何らかの vanishing point に追い込むだろうと誠実に告白しています.
      この告白は私にとって非常に辛いものです. 可能なれば, このことをまた別の文章で書きたいと思っています.

      少し長い文章になりました. あまりまとまりが無いですね. すみません.

      Takeo さんの日々が静かで平穏であることを祈っています.

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    3. こんばんは、底彦さん。

      前にも言いましたが、このブログには、日本製のブログにあるような「最新のコメント」というお知らせの欄が無いので、せっかく長文で、一考に値するコメントが寄せられても、気づかない人も(ふたつさん、Junkoさん含め)多いでしょうね。というよりも、どうやって底彦さんが新しいコメントをした、ということがわかるのでしょう?

      さて、

      >私なら「無理強いされたとしても何とかしてやり遂げる」「それは自分の成長に繋がる」と思って身を投じていったことでしょう. 自身のこの醜い前向きの姿勢にはうんざりします.

      おもしろい文章だなぁと思いました。「無理強い」とはいえ、どんなことでも自分の成長に繋がると思ってしまうということでしょうか?半分はお仕着せであっても、半分は自発的でもある、ということでしょうか。

      「自身のこの醜い前向きの姿勢にはうんざりします.」失礼ながらこれには笑ってしまいました。「醜い前向きの姿勢」見事なオキシモロンですね。大多数は、「前向きであること」を無条件に肯定します。その「前向きの姿勢」に「醜さ」を重ねた。こういう視点の獲得こそが、本当の成長・成熟ではないかと僭越ながら思います。

      「治癒」ということに対する底彦さんのアンヴィヴァレントな想いはよくわかります。苦しみの源を消滅させたいと思うのはまったく自然な感情です。ところが、自己の内面に「彼ら」がいなくなった時が、「治癒」であるとしてしまうと、その時点が、皮肉にも「彼らとの再会」にも繋がるわけです。「彼ら」イコール「一般社会」であり「金を稼ぐ世界」です。

      底彦さんが前回から言われている「ひとつの色彩」という比喩は、わたしは、「グラデーション」乃至「スペクトラム」の中での自分の「居場所」ではないかと思っています。

      「治る」ということは、白が黒になり、また白に戻るということではなく、連綿と続く色彩の帯の中で、自分の色を知り、その上で、それにあった、色彩の中で生きるということ・・・そのような意味であるならば、わたしにもよくわかります。

      病と治癒は必ずしも往還運動ではない。つまり病になる前の状態に還ることが治癒を意味しないということです。であるならば、底彦さん自身が言われるように、

      >私の持っている歪んだ「社会」や「仕事」「社会復帰」という概念を根源的に見直すもしくは棄て去ることが必要

      だと思います。



      「楽しいことの何もない世界」これは換言すれば「孤独」「孤立」ということができるでしょう。一縷の希望があるとすれば、’Someone’の出現ということになるでしょう。"To Love and To Be Loved" これこそが人が生きる意味だということを疑いませんが、愛というものもよくわかっていません。

      嘗て、底彦さんやふたつさんたちが、わたしのブログを「作品」と言ってくれたのも、正に底彦さんの言われるように、内面をなんらかの形にせずにはいられないからでしょう。極めて拙いものではありますが、これがわたしの生きている証しであり、また「作品」と言っていいと思っています。
      確かに実生活の閉塞感が、このブログに反映されていることは間違いありませんが、
      仮に、閉塞状況が多少なりとも軽減されたとしても、書くこと自体が好きなので、必ずしも全面的に閉塞状況が生み出している、とは言えないと思います。

      ここのところ、母の具合があまりよくなく、せめて母の精神的な、心労だけはできるだけ掛けたくないと思います。それでも、ことあるごとに「自分さえいなければ・・・」という想いが口を突いて出ます。

      そういう意味でこのブログは、福祉行政がなんら当てにならない状況下で、苦しみを吐き出し、またそれを共有できる貴重な場所だと思っています。

      ただ、現在は状況は非常に流動的だし、母の不調は直にわたしの心の状態に影響を及ぼします。

      最後に底彦さんの新年のブログを興味深く読みました。神保町に行ったこと、新年会のことなど。デイケアの仲間が書いた詩集というものに非常に興味を引かれました。

      いつもながら、穏やかな語り口のメッセージと、その底に秘められた励まし、気遣いに感謝します。

      底彦さんも、穏やかな日を過ごされ、思索の芽を育てていかれますように。


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