2020年1月17日

憂うべき自殺者の減少


新聞によると、昨年の自殺者が、(またも)2万人を割ったという。「10年連続の減少」だと。
一時は毎年自殺者3万人以上と騒がれていた。この10年間で、当時に比べ格段に世の中が住みやすく、生きやすくなったと思う人はいないだろう。行政の自殺予防対策が功を奏したとも思えない。

この大幅な自殺者の減少は、ある意味では今という時代を象徴しているように思う。
少なくとも、わたしは「何故?」とは思わない。

昨日引用したハイデガーの言葉を思い出す。

「世界の夜の時代は、乏しき時代である。それはすでに甚だしく乏しくなってしまって、最早神の欠如を欠如として認めることができないほどになっているのである・・・

これが答えではないか?人々は「最早欠如を欠如として感じることが出来なくなる」ほどまでに麻痺し、鈍化している。即ち「悩むこと」「深く考えること」ができなくなった人たちの増加が、自殺者減少の原因であると言ってもあながち的外れとは言えないのではないか・・・
「人が人として生き易くなった」わけでも、況や「悩み」が無くなったわけでもない。「欠如を欠如として認めることができない」そして「悩みを悩むことができない」のだ。

自殺者が3万人台の時代は「まだ」人々は、社会の在り方に疑問を持ち、煩悶し懊悩していたのではないか。
先日Tumblrのジェフの投稿で、写真を観ただけなのでどのような状況なのかわからないが、人々が'Freedom Or Death'というプラカードを掲げて行進していた。「自由か、しからずんば死か!」

嘗て自殺者が多かった時代は、社会にも、人間にも、プライドの残滓があった。(「自由」を含めた)欠如を欠如として苦しみ、怒る感受性(乃至人間性)があった。
今、社会の家畜となり果てた者たちが、「自由か、さもなくば死か」などという発想を持つとは思えない。

 ── シモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』だったか、或いは『カイエ』の何処だったかに、「危険なのは、そこにパンがあるかどうかを疑うことではなく、「私は飢えてはいない」と自らを偽ることなのだ」というようなことを書いていて、ブログにも書いたはずだが、見つからない。(わたしは基本的に本は図書館から借りるので)

今日はエミール・シオランの言葉を、「欠如を欠如として認めることができない・・・」という言葉/状況に重ねて・・・

「無関心への最後の一歩は、無関心という観念そのものの破壊であろう」
ー『生誕の災厄』出口裕弘 訳 238ページ

この場合の「無関心」とは「世界・社会」への無関心にとどまらず、何よりも、自己の存在、実存、その尊厳への無関心である。
その帰結が「自殺の減少」に結びついているのではないかと思っている。「自己の軽視」が、「自殺への無関心」に容易に繋がることは言うまでもないことである。










16 件のコメント:

  1. こんばんは。 

    私事で申し訳ありませんが、また、タンブラーです。

    タンブラーで、フォローしている人が5000人に成りました。
    でも、数日前に5000人に成ったら、それ以上フォローできなくなってしまいました。

    何か制限があるんでしょうか?
    ぼくの予定では、タンブラーをやっている限りフォローし続けるつもりだったんですが、ダメなんでしょうか?
    それとも、ぼくが、すごくアホなんでしょうか?

    いや、スイマセン。
    もちろん、お答えただく必要はありません。

    それから、こちらは本当に聞きたかったんですが、タンブラーのブログで、ページを開くと音楽が流れてくるのがあるんですが、あれは誰でもできるんでしょうか?
    それとも、有料のサービスを使っているんでしょうか?

    もし、ご存じでしたら教えてください。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    次に、この前『コミュ障』の投稿に書いたコメントで、抜けていることがあったので捕捉します。

    『世の中が「普通であってはいけない」・「特別であれ」と、100年間刷り込み続けた』というようなことを書きましたが、実は、それとは全く反対に「みんなと同じであれ」というのも刷り込まれ続けてきました。

    その二つの規範(=ダブル・スタンダード)が現在の社会にとても大きな悪影響を及ぼしているということが言いたかったことです。

    ただ、「みんなと同じであれ」ということが「社会的規範」として刷り込まれているということは、ある程度意識されていますが、「特別であれ」の方は、抜けてしまうことが多いと思います。


    つまり、「普通でないこと」や「特別であること」は、常に「いいこと」として捉えられているということです。
    そして、そのこと自体が、それらのことが最も強力な「刷り込み」であることを意味していると思うわけです。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    最後に、この記事についてです。

    ここに書かれていることは、確かに言えることだと思います。

    しかし、さらに言うと、「自殺者の統計」自体が非常に怪しい気がします。

    たとえば、孤独死や薬物の過剰摂取などのように「遺書」が残されていないケースで、かなり「自殺」あるいは「緩やかな自殺」と言えるケースは確実に、そして急激に増えていると思いますが、それらはおそらく統計に反映していないと思いますし、さらに、そいう数字だけではなく、明らかに「自殺」であるようなケースであっても、統計上の数字が少なく出るようにいろいろな人の「忖度」が働いていると思います。

    この「自殺者減少傾向」は、ぼくは捏造されたものだと、ほぼ確信しています。


    その上で、さらに、この記事に書かれていることも上乗せされているというのが実態だと思いますね。

    一般的に、皆さんどう思っているのか知りませんが、この状況を『まぁ、いい世の中なんじゃないの?』と言える人は、完全にイカレテますよ。


    それから、前に、『日本だけの問題ではない』と言ったと思いますが、あれは、『日本が特に悪いわけではない』という意味ではありません。
    ハッキリ言えば、日本は、「最先端」です。
    「引きこもり」でも「精神障害」でも「人間性の欠如」でも、どれをとっても「先進国」だと思います。
    しかも、頭一つ抜けているところもあるくらいだと思っています。

    それでも、あえて、『日本だけじゃない』というのは、根本的な意味では『世界中が先進国』に成りつつあるからです。
    日本が、それをけん引しています。

    しかし、こういうことは、多くの場合「最悪の状況」から、活路が生まれます。
    ぼくは、「日本の破綻」から、その活路が見いだされると思っています。

    そして、その活路は日本人にしか見つけられないと思います。


    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      わたしもタンブラーについて9年近くやっていますが、知らないことの方が多いと思います。それに、「いつのまにか変わっている」ということもままありますし。

      5000人なんてちょっと想像がつきませんが、上限があるんじゃないでしょうか?
      或いはしばらく間を置くとか・・・確か一日に投稿できる上限はあったはずです。

      実を言うと、あまり人のページに行くことがないんですよ。
      フェイスブックやツイッターなどは論外ですが、タンブラーにしても、ページ(投稿ではなく)自体の面白さってあまり感じないのです。
      タンブラー以前のマイスペースは、それぞれが、自分のページに工夫を凝らして、それを見るだけでも飽きませんでした。自慢のようですが、わたしの(MySpaceの)ページも評判良かったですよ。

      余談ですが、わたしがブロガーにこだわるのは、そのページ作りがかなり自由にできるという点です。便利さという点では日本のブログの方がいろいろと便利だとは思いますが、オシャレにしようがありません。最近出てきたWIXだかWAXだかいうブログ(?)はかなり自由にカスタマイズできるのではないでしょうか。

      音楽が流れる。わたしも、マイスペースの頃はミュージックプレーヤーを取り付けていました。ページを開くと自動的に作動するので、驚く人も多かったです。
      ただ、今は、そういうページを、タンブラーでも、ブログでも知りません。
      昔のようにプレーヤーがつけられるなら、やってみたいですね。当時は自分で選んだ曲100曲ほど入っていました。いつも同じ順番なので、イタリアの友人から、シャッフルにすればと言われて、以降そのようにしました(笑)。

      ですからご質問に関しては、わたしは知識がなく、またそのようなサイトを知らないので、お役に立てず申し訳ありません。



      >「普通でないこと」や「特別であること」は、常に「いいこと」として捉えられているということです。

      う~ん。わたしの理解が及ぶのは、勉強やスポーツの場で、1番に成れ、人より抜きん出ろ。という「特別」だけです。「特別」であるということは、わたしの中学校時代、知的な生涯のある生徒たちのクラスを「特殊学級」と呼んでいたように、決して、「より良いこと」とされているとは思えないのです。かといって、「特殊学級」という言葉に「蔑視」の意味があるとも思いませんけれど。

      障害を持っているということは、「普通でないこと」であり「特別であること」です。被爆者・被曝者であるということも特別なことです。一般に「普通でない」「特別」であるということは、マイノリティーであることを意味します。
      変態だって、「普通でない」し「特別」です。
      何を以て、マイノリティーであること、多数派と違うことが、この国に於いて、称揚されるのかがわたしには理解できません。

      単に「「普通でないこと」「特別であること」といっても、漠然としていますので、具体的にはどのような人たちのこと、またはどのような状態をさしているのでしょう?



      「自殺者」と見做される人とそうでない人はどのように区別されるのでしょうね。
      ふたつさんが挙げられているように、非常に見極めにくいケースもあると思います。

      実際はわたしの周囲だけがこの世の中に毒づいているだけで、現実には、自殺者が減るだけの理由があるのでしょうかね?(苦笑)
      ・・・と、一部の不平分子に、お前は間違っていると思わせるための方策として、自殺者数の減少という数の操作が行われていると考えるのも、今の時代、そう突飛でもなさそうです。

      >この状況を『まぁ、いい世の中なんじゃないの?』と言える人は、完全にイカレテますよ。

      わははは。まあそうでしょうね(笑)

      >「引きこもり」でも「精神障害」でも「人間性の欠如」でも、どれをとっても「先進国」だと思います。
      しかも、頭一つ抜けているところもあるくらいだと思っています。

      その通りですね。2~3周遅れてトップを走っていますね。

      基本的にいい政治、いい政治家というものは存在しないと思います。
      けれども、民主主義が根付いた国では、市民と政府とは対峙乃至対立しているという形になっているように見えます。政府に文句を言うこと、つまり示威行動をしないという民主主義なんてそれこそ完全な語義矛盾です。

      しかし話を戻しますが、「引きこもり」も「精神障害」も、「普通ではなく」「特別なこと」ではありませんか?わたしは揚げ足を取っているのではなく、わからないのでお聞きしています。



      一部か、多数かは知りませんが、いまの世の中がいいと思っている人たちは論外として、現代が嘗てなく貧弱で、貧相で、薄っぺらで、「欠如を欠如として感じることさえできない」時代であることは最早明らかなことなので、せめて、このブログでは、そのような状況に取り巻かれている中、少しでも、「美」を求めていきたいと思っています。

      またこちらへのメッセージをありがとうございました。














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  2. こんばんは。

    「普通でないこと」や「特別であること」
    これについては、うまく話せる気がしないんですが、自分で言ったことなので、どうにか説明して見ます。

    それから、これらのことは、あくまで、ぼくが勝手に言っていることであって、『これが正しい』ということを言うつもりは全くありません。
    つまり、あくまで、ぼくの言葉ではこうなります、というようなことですね。


    そういう前提で言うと、「普通でない」や「特別である」は、少なくとも、ぼくから見ると、完全に刷り込まれています。

    確かに、障害者などのようなマイノリティーはある意味では「特別」なのかもしれませんが、
    「障害者」=「特別」というわけではありません。
    むしろ、「特別」という名目で語られるものの中で圧倒的多数を占めるのは、「天才」や「有名人」や「大金持ち」であるわけです。

    どちらかと言えば、マイノリティについては「特別」というよりも「劣等」という語られ方をすることが圧倒的に多いと思います。
    あえて言えば、「特別に劣等」という扱いだと思います。

    つまり、マイノリティが「良いもの」として扱われないのは、「特別だから」ではなく、それ以上に「劣等と見なされているから」です。

    これを言うとこじつけのように成ってしまうかも知れませんが、例えば、障害者であっても、パラリンピックに出れば「良いもの」として扱われます。
    「引きこもりだったこと」を売りにする芸能人なんかもいます。
    ということは、同じ程度のことをやった場合に限って言うと「マイノリティであること」=「特別であること」が有利に作用する場合もあるということです。

    それと、もう一つの決定的な違いは、障害者や引きこもりは、基本的には「望んで(望まれて)成るもの」ではないということです。この場合、ぼくが言ったのは「~であれ」ということですから、「望んで(望まれて)成るもの」を前提にしています。


    いずれにしても、100年ほどもかけて徐々に形を変化させながら、少しずつ刷り込まれて来たことですから、もう、それを一つ一つほぐしてわかりやすく説明するということは、ほぼ不可能です。
    ぼく自身が、ぼく自身に対しても、説明できません。

    だから、ぼくは『20世紀を丸ごと喪失する』という考え方でやっています。

    そして、その刷り込みに最も強い影響を与え続けてきたのが、「芸術の20世紀」だと思っていますので、「芸術の20世紀」を喪失するということに成っています。



    それはともかくとして、「みんなと同じであれ」という要求と、「人と違うことをしろ」という背反的な要求は、常に両立していますし、しかも、それをその時々で、その要求を出す側に居る人間が、自分の都合に合わせて、適当に使いまわしてしまうというのが今の世の中の状態です。

    「親」でも「教師」でも「上司」でも、常に上に立っている者に、その「ご都合主義」の権利が与えられてしまいます。
    その結果、単なるダブル・スタンダードが、さらにやっかいなダブル・バインドの状態を創り出してしまいます。
    (「二重抑圧」とでも言えばいいのでしょうか)

    そして、さらに、現在に至っては、その「ダブル・スタンダード=二重規範」が二重にとどまらず、「多重規範」を生み出し、それが、どんどん積み重ねられ続けています。


    つまり、そこから生み出されるものは「多重抑圧」ということに成ります。

    そして、現在は、その「多重化した抑圧」が、掛け合わされるようになってきていると思います。
    つまり、「多重抑圧」×「多重抑圧」という負の掛け算で出来上がっているのが、現在の社会だと思うわけです。
    (ぼくは、これを「2×2バインド」と呼んでいます)


    あくまで、個人的に思うことですが、それらのことに最も大きな影響を与えたのが「芸術」であり、「マスコミ」であると考えるわけです。

    ぼくは、個人的には、『もしかすると「芸術」は滅びていくのかもしれない』と思っています。
    でも、何かが滅びるには、その滅びるものにふさわしい「滅び」があってもいいように思います。
    だから、ぼくは、「芸術の滅び」に参加したいという気持ちもあって、それをやっているつもりです。
    と言っても、「本当の滅び」が目に見えるように成るのはおそらく数百年後のことでしょうから、ぼくが、今何をしようと、どうでもいいことなんですけどね。

    まぁ、自己満足と言われれば否定はできませんが、出来なくても一応否定します。
    自己満足でやっているのとは違うので。


    話が大幅にそれてしまいましたが、とりあえず、ぼくに言えるのは、こんな程度のことですね。

    自分のやっていることの話になってしまい、どうもすいません。
    どうしても、すべての話が、そこにつながっていってしまうので。


    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      最後に
      >話が大幅にそれてしまいましたが
      と書かれているのに乗じて、今回は、コメントへの返信というよりも、いまわたしの考えていることを、この場を借りて書こうと思います。

      今日はタンブラーを開いていません。絵を選ぶ気にもなれずに、『八班脚の蝶』や、愛読(?)している海外のブログ、久しく訪れていなかった2つほどの日本人のブログなどを眺めて過ごしました。

      ブログの方向性に迷っているのです。
      二階堂奥歯のブログは別格として、見知った日本人のふたつのブログは、わたしの刺激にはなりませんでした。

      簡単に言うと、わたしは、日本のブログに足りないのは、(広義の)「アート」と「詩」だと感じています。個人的には、この一つ前のブログ「Nostalgic Light」や更にその前の楽天ブログでやっていた頃のブログに遡行したいと感じています。

      勿論「引きこもり」「精神障害」「マイノリティ」といったことを抜きにしてわたしのブログは考えられません。「自殺について」「わたしとは何か?」「生きる意味とは?」そのようなテーマも同様です。

      けれども、なによりも求めるのは皮肉にも、ここでふたつさんが否定している「アート」です。

      英国の編集者のブログを眺めていて、そこに貼られている彼女らが住んでいる田園地方の写真、フェアリー・テイルやフォークロアが好きな人なので、それらの絵、絵本のイラスト、エドモンド・デュラック、アーサー・ラッカム、カイ・ニールセン、ビアズリー等の有名な画家たちや、現代の絵本作家たちの絵、(先日わたしがポストした「アイスベア」の作家も、彼女のブログで知りました。

      わたしは余りに彼女のブログに惚れ込んでいたので、フェイスブックに居た時に、友達になっていたこともあります。しかし、フェイスブックに限らず、ある集団の中の人気者というのがどうも苦手で、勝手にフレンドを止めてしまったというエピソードも。(苦笑)

      以前Junkoさんが気に入ってくれた、月夜の絵がありました。
      ふたつさんも、イタリアの写真家の「わが道を行く」というタイトルのモノクロ写真を気に入ってくれましたね。(数名の男性が、それぞれ違った方向に歩み出す写真です)

      そのようなことを一番わたしに伝えてくれたのが底彦さんで、二階堂奥歯のブログはもとより、プリーモ・レーヴィの詩や石内都の写真を好きだと言ってくれました。

      その原点には、初めの頃、瀬里香さんや、わたしの「親友」が、主に、絵をメインにしたわたしの投稿に、毎回面白いコメントをくれたこと、彼女たちが、率直に、おもしろい。きれい。と言ってくれたことがあります。

      アート・ブログはすでにいくつも持っているので、そうではなく、文章とアートが程よくミックスされたブログをつくりたいと思っているのです。

      わたしがふたつさんの作品を載せたのも、正に、絵と、詩が気に入ったからに他なりません。僭越ですが、ふたつさんの作品は、このブログを彩るにふさわしいものであると思っています。

      とはいえ、二階堂奥歯であれ、英国の編集者であれ、力量の差は歴然としています。
      だからといって、モデルがないよりは遥かにマシです。

      どのような方向に進んでゆくのか、まったく暗中模索の状態ですし、ふたつさんの好まない方角かもしれませんが、とにかく試してみようと思います。

      「特別」・・・とは言わないまでも、毛色の違ったものを作りたい。

      そして繰り返しになりますが、その動機は、多彩なブログは見ていて飽きないということと、それがどのようなフォームのものであれ、わたしは「美」の信仰者であるから、でしょうか。



      ふたつさんの「特別であること」「普通じゃないこと」についての解説には触れませんでしたが、それは否定を意味しません。これを読んでくれた人がそれぞれに考えてくれればと思います。

      これに対する意見・感想も歓迎します。

      よい日曜日を過ごされますよう。



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  3. こんばんは。

    いえいえ、ぼくは芸術を否定してはいませんよ。
    「喪失」です。

    そして、ぼくが喪失したのは「芸術の20世紀」と言う時代です。
    「20世紀の芸術」ではなく「芸術の20世紀」なんです。
    つまり、「芸術」ではなく、「芸術が先導した時代」を喪失したわけですね。

    『もしかすると、芸術は滅びるかもしれない』と言ったのは、「芸術」や「感動」を切望する人が少なく成っているからです。
    (今、「芸術」に求められているのは「面白さ」でしょうから)
    だから、ぼく自身がそうなって欲しいわけではないんです。

    ただ、あえて言うと、本当は「人間が創作した芸術」がなくなっても、「自然が与えてくれる美しさ」だけで人間が満たされるならば、それが理想なのかもしれないとも思います。

    でも、実際には無理だと思いますから、本来は「芸術」に生き残って欲しいと思っています。

    ただ、今の世の中の「心の希薄さ」や「人間精神の霧散ぶり」を見ていると、そこから導き出される結論は、「芸術の消滅」ということに成ってしまうということですね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    それから、Takeoさんのブログについての考えは、とても興味深いですね。

    その考え方は、ぼくの持っている「芸術の多重化」という方向と非常に近い方向だと思いました。

    ぼくが、「ポエティック・タイトル」と呼んでいる「長い題」を「詩」とは言わずに「詩のような題」と言っているのは、その「多重化」の一環として行っていることだからなんです。

    つまり、「絵」と「詩」という「別の物」ではなく、あくまで「絵でもあり詩でもある」つまり「絵と詩が一体化した一つのもの」という「多重化」を目指しているわけですね。

    それから、ぼくが絵の中に「枠」と呼んでいるストライプの部分を書き込んでいるのも、この「多重化」の一環です。
    これは、「絵でもあり額でもある」ということですね。
    (さらに、その外側に「二重の額」を自作したいという構想があります)



    Takeoさんのブログに対する構想も、それに近い印象を受けました。

    ぼくは、「芸術」は「多重化」していく以外に、もう残された方向はないと思っています。
    だから、ぼくが「好き」とか「嫌い」とかということは、もう、だいぶ小さいことに成ってしまっていて、どちらかというと『どうでもいい』という感じに近くなってきています。

    これは、ある意味では、とても寂しいことなのかもしれませんが、そこに行くしか道がないので、仕方ありませんね。


    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      >本当は「人間が創作した芸術」がなくなっても、「自然が与えてくれる美しさ」だけで人間が満たされるならば、それが理想なのかもしれないとも思います。

      確かにわたしもそう思うこともありますが、仮にわたしが自然に囲まれて暮らしていたとしても、詩を求めるし、文学を求めると思います。自然の中で生きていれば、絵画や写真は今ほど求めなくなるかもしれません。

      人々が感動や芸術を求めなくなっている・・・という点については疑問です。
      現に先日のラグビーのワールドカップなども随分盛り上がって、「感動をありがとう」という言葉もネット上で見ましたよ(苦笑)
      マラソンでも駅伝でも、やはり人々は「感動」を求めているとわたしは思います。
      また、「芸術」にしても、相変わらず、例のブログの茶坊主などは、西の展覧会東の美術館と飛び歩いているようですし、彼のような人種は決して少なくはありません。
      美術館に閑古鳥が鳴くようになったという話も聞きません。

      ただ、彼らの求める「感動」や「美」とわたしの求めているものとはほとんど重なるところが無いのです。

      茶坊主のフェイスブックの「友達」で、どこかの大学で、美術(史?)の先生をしている人のページには、いろんな絵が貼られています、そして職業柄でしょうか、その絵についての蘊蓄も忘れていません。

      でも、絵がずらりと並んでいても、それが先ず、例によって、今何処かの美術館で展示会をやっている画家の絵であることや、それこそ絵(とその解説)ばかりになっていることで、観ていてもワクワクしない。アートや詩の欠けたブログ同様、(SNSはブログではありませんが)絵画だけのサイトもまた単調であるのです。

      ふたつさんの作品が、「絵でもあり詩でもある」というコンセプトにわたしのブログも近いと思います。

      美術館に行って、入り口から出口まで絵ばかり・・・というのは当然ですが、わたしのブログは美術館にも、古本屋にもするつもりはないのです。
      あれもありこれもあり、「好奇心の部屋」にしたいのです。

      ただ、そんなに複雑にむずかしく考えなくても、道に落ちているどんぐりでも、木の枝にしがみついている蝉の抜け殻でも、それは「芸術」ではないけれども、やはり「美」です。しかし確かに、そのような極シンプルな美に心動かされる人ー例えば獄中の人のようにーが少なくなっていることは確かなのでしょうね。

      島秋人の歌を読んでいて、ふと、「美は細部に宿る」という言葉を思い出したのです。ミースの言葉の本来の意味とは違うでしょうが、「細部」とは、例えば道端の落ち葉であったり、窓から舞い込んだ小さな虫のようなもの。

      まとまらない文章になってしましました。いつもメッセージをありがとうございます。このブログも人気(にんき/ひとけ)ないです(苦笑)

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  4. こんにちは。

    『人々が感動や芸術を求めなくなっている・・・という点については疑問です。
    現に先日のラグビーのワールドカップなども随分盛り上がって、「感動をありがとう」という言葉もネット上で見ましたよ(苦笑)
    マラソンでも駅伝でも、やはり人々は「感動」を求めているとわたしは思います。』

    確かに、そうではありますが、『スポーツは芸術ではない』とは言いませんが、やはりスポーツは創作ではありません。
    スポーツが生み出す感動は、選手や監督コーチなどが「全力を尽くすこと」によって生み出されているという点では、「芸術」となんの違いもありませんが、そこに作為はありません。
    作為があれば、スポーツによる感動は一瞬にして崩壊してしまいます。

    スポーツにおいて、追求されているのは「勝つこと」です。
    「勝つこと」に血眼に成るということは、本来はどちらかというと醜いことかも知れませんが、そこで、「勝つこと」だけのために「果てしなく全力を尽くすこと」によって、「勝つことの醜さ」が浄化されていくんだと思います。

    いっぽう「創作」は、あくまで「作為」です。
    「作為」も、また、どちらかと言えば醜いことに入ると思います。

    スポーツにおいては「勝つことの醜さ」を浄化することが、芸術においては「作為であることの醜さ」を浄化することが、「感動」につながるんだと思います。

    スポーツも芸術も「勝つこと」や「作為」からは逃れる術がありません。
    「勝つこと」=「勝負」を完全に捨てればスポーツは成り立ちませんし、「作為」=「創作」を完全に捨てれば芸術は成り立ちません。

    だからこそ、そこに「果てしない力」を注ぎ込む必要があります。
    そこから生まれる浄化作用によって、見た人が感動するんだと思います。


    まぁ、いずれにしても、現代人がマスコミに乗った情報から受け取っている「感動」は、ぼくに言わせてもらえば、「切実に求められた感動」ではないですね。
    (もちろん、そういう人も居ますが、少数派でしょうね)

    それは「エンターテイメント」=「面白さ」だと思います。
    それが悪いという意味ではありませんが、「切実に求められたもの」ではないと思いますし、「切実に求められたもの」だと、気楽に楽しめないという背反があると思います。

    要するに、「喜怒哀楽」の中の「喜」が「感動」に近い部分で「楽」が「面白さ」に近い部分だということでしょう。

    一見すると「喜怒哀楽」のなかの「喜」と「楽」は重複しているようにも思えるんですが、おそらく、この二つが入っていることには何か深い意味があるんだと思います。
    それから、この四つの文字の並び順にも、もしかしたら意味があるのかもしれません。
    これについては、時々考えるんですが、まだ、納得できる答えに達したことはありません。

    そして、近年ますます、芸術も「面白さ」を追求するように成ってきています。
    「エンターテイメント化した芸術」があってもいいと思いますが、「切実な芸術」も少しは残しておいて欲しいというのが、ぼくの気持ちですね。

    このまま、『「エンターテイメント化した芸術」でいいじゃない、面白ければ、何がいけないの?』という状態を続けて行けば、きっと芸術という分野は霧散してしまうでしょう。
    なぜなら、「気楽な面白さ」では芸術よりも上回るものがたくさんあるからです。
    「エンターテイメント性」だけで勝負した場合、芸術に生き残りの目はありません。

    というよりも、厳密に言うと「芸術」という分野は、もう存在していないと言ってもいいくらいです。

    「切実なまでに求められる感動」だけが芸術の生き残りの目だと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


    「自負心を満たすために覚えられた知識」としての「ウンチク」は、さらに「芸術の中心」から遠い位置にあります。

    「好奇心を満たすために吸収された知識」が、本来の蘊蓄なのかもしれませんが、今はそういう使われ方をしていませんね。

    だから、そういう「ウンチク」は「蘊蓄」ではないのはもちろんのこと、「ウンチク」ですらなくて、「ウンチ」なのではないかと思います。

    「知識」は、吸収されて「知恵」に成るんだと思います。
    「おぼえた」だけで、それを「知恵」だと思ってしまうと「ウンチ」止まりでしょうね。
    つまりは「クソ」です。

    だから、そういう人のことを「うんこ製造機」と言うのだそうです。
    (知り合いが、自分のことをこう呼んでいました)


    それでは、また。

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    1. こんばんは。

      昔は、プロ野球、西武ライオンズ(秋山、工藤、石毛の頃)のファンでした。その後、監督であり、広島カープ育ての親でもある根本陸男さんが、乞われて、ダイエーに行った時に、ダイエー・ホークスのファンになりました。
      根本氏は広島時代に、山本浩二や衣笠を育てて、古葉監督にゆずり、赤ヘル旋風を巻き起こしました。工藤も秋山も、根本さんの子飼いですが、その後広岡、森と監督が代わって、常勝球団になり、ダイエーに行ってからは、王監督で。
      選手としても、監督としても派手な活躍はありませんが、広島、西武、ダイエーを育てた人。知る人ぞ知るという人です。

      わたしは秋山が現役の頃までしかプロ野球を知りませんが、スポーツと「感動」がどう結びつくのかわからないのです。ライオンズでも、ホークスでも、優勝すれば喜びます。でもそれを「感動」とは言えません。日本シリーズでも幾多の名勝負、名シーンがありますが、どれをとっても、「ああよかったなあ」とは思いますが、やはり「感動」という言葉とは結びつきません。

      だから、優勝した、メダルを獲ったということと、感動がどのように繋がっているのかがわかりません。

      スポーツに限らず、映画を観ても、いい詩を読んでも「感動」「感激」って、正直言ってよくわかりません。

      映画を観て、音楽を聴いて、涙を流したことは何度もあります。それが「感動」だ、と言われると、どうも違う気がするのです。じゃあわたしは不感症なのか?それならそれで構いません。

      わたしは「感動」の記憶はありませんが、これまで充分映画でも、音楽でも、詩でも「親しみ」「愉しんで」来ました。そこに感動が不在であろうとどうでもいいと思っています。

      わたしは「アート」を求め「詩」を「文学」を求めますが、「感動」を求めてはいません。そして観賞することが感動を求める営みであるとも思いません。

      「あなたは島秋人や尾崎放哉の歌、句を読んで感動しましたか?」と訊かれれば、わたしは当然「いいえ」と答えます。辺見庸であっても、シモーヌ・ヴェイユ、石原吉郎、プリーモ・レーヴィ。誰の名前を挙げられても同じです。

      上記の人たちの作品には「美」はあります。けれども、わたしには「美」即ち「感動」という等式は当てはまらないようです。・・・そう。わたしが例えば島秋人の歌や尾崎放哉の句に感じるのは、感動というよりも、むしろ「おもしろさ」のような気がします。



      わたしは殊更に「感動」という言葉を嫌い、避けているのか?そういう意識はありません。ただ、「感動」ってなんだ、という感覚しか。

      こういうことを書いていると、またぞろ、yy8さんの言った「脳に障害がある」という言葉が蘇ります。そうかもしれないと思います。
      「社会派」の映画を観ても感じるのは「面白かったなぁ!」という感覚です。

      結論としては、わたしは「感動」というものがわからない、ということでしょうか。

      或いは「脳に欠陥がある」ということ・・・?



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  5. こんにちは。

    でも、それを見て涙を流しているのに、それを「感動」ではないという理由は何なんですか?

    『それを「感動」と呼ぶことが出来ない』ということは理解できますが、『それは「感動」ではない』とも言えないでしょう。

    もしも、Takeoさんが、「感動」ということを一切イメージできないのであれば、今、この話はしていないような気がします。
    ということは、Takeoさんの中に「感動」に関する何らかのイメージがあるということだと思いますよ。

    それは、映画や音楽を鑑賞して涙を流すこととどう違うんでしょうか?
    ぼくが聞いている限りでは、それが「感動」でないとしたら、世の中に「感動」と言えるものが存在しなくなるような気がします。

    つまり、Takeoさんは「感動」ではなくて「感動という言葉」が嫌いなんだと思いますよ。
    だから、自分が「感動」していても、それを「感動」と呼びたくないんだと思います。

    Takeoさんは、たぶん、「感動」とか「芸術」とかという言葉に対して、大仰なイメージを持っているんじゃないですか?
    要するに「上から目線」で言われているように感じているような気がします。

    それは、ぼくにもけっこう理解できますね。

    ただ、『涙を流している』のに、それを『ただ単に、面白いから』というのには、若干の無理を感じますよ。

    もしも、Takeoさんがどうしても「感動」という言葉を使いたくなくて、それでも、何かに『涙を流してしまう』のだとしたら、その感情を見事に表現できるような「言葉(詩)」を創り出すしかないような気がします。

    ただし、それは、他人には通じませんから、自己満足としか思われませんが。


    では、また。

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    1. こんばんは。

      正直いってよくわかりません。確かに「嫌いな言葉」「聞きたくもない、見たくもない。まして自分で書く(使う)なんてとんでもない」というような言葉はいくらもあります。
      しかしそれらのほとんどは、わたしの持っている辞書に載っていない言葉・語法です。それは「わたしの心の辞書」、ということではなく、実際の国語辞典(辞書)のことです。

      けれども、脳に欠陥のあるわたしから言わせてもらうなら、「涙を流しているから感動」ということがそもそもわかりません。ただ、理解できないながらも、そんな些細なことで言い争っても仕方がないので、「一般には映画を観たり本を読んだり、美しい景色を見て涙を流すことを「感動した」というのだよ」と言われれば、「ああそうなんですか」というだけです。

      無論いさかいを避けるための上辺だけですけれど。

      いまのわたしではなく、20代の頃、ベット・ミドラーの歌った、映画の主題歌「Wind beneath my Wings」という歌(シーン)を見て、滂沱の涙を流したことがあります。30年前を振り返って、「あれは感動したなぁ」という気持ちは、やはりないのです。少なくとも自分の中では「感動した」と、言いたくないのではなく、「感動?」といったかんじでしょうか。素直に、自然に口から出てくる言葉は「あれはよかったなぁ・・・」です。

      わたしが病気で寝込んでいる時に、わざわざ高価な果物の詰め合わせを持って訪ねて来てくれた親友。とてもうれしかった。でもそれも「感動した」ではない。

      「うれしい!」「うつくしい!」「ありがとう!」これらはみな感覚に基づく言葉、身体ないし、その感覚・感情から発せられた言葉です。ところが、感動というのは抽象的な言葉です。つまりわたしには感覚を抽象化して言葉にする能力が欠けている、という仮説が成り立ちます。

      例えば「真逆」「ため口」といった言葉は、はっきりと、嫌いです。「真逆」は「正反対」或いは「対照的」ですし、「ため口」なんてそもそも日本語か?と言いたくなります。
      「何故きみは目上の者にため口を利くんだ?」という代わりに「何故きみは目上の者に丁寧語を使わないのか?」と言います。

      ただ、「感動」という言葉は、好き嫌いを超えて、「感覚的にわからない」としか言いようがありません。

      わたしは自分で咀嚼消化し、理解している言葉だけを使いたいと思っています。

      「で、それを見ていたら(聴いていたら)涙が流れてきてね・・・」
      「感動したんだね?」
      「感動?いや、そういうことじゃなく、涙が流れて・・・」
      「だからそれを「感動した」って言うんだよ」
      「へえ、よくわからないな・・・」
      「君がどう思うかは、まあご勝手にだけど、そういうものなの。」
      「・・・・」



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  6. こんにちは。

    まず、はじめに、ぼくの言葉が足りなかったようなので言っておくと、、ぼくは、Takeoさんに」、それを「感動」と呼んで欲しいという気持ちは全くありません。
    もちろん、「涙を流す」=「感動である」と言ったつもりもありません。

    それから、『「感動という言葉」が嫌いなんじゃないですか?』と言いましたが、それは、『好んで使いたくはない』というような意味であって、「すごく嫌いな言葉」という意味で言ったつもりではなかったんです。
    でも、どうもそちらに近い意味で伝わってしまったようです。

    確かに、そう取れるような書き方をしているのかもしれません。
    それで、Takeoさんが、ご気分を害されたのであれば、申し訳なかったと思います。


    だから、ここでは出来るだけ、ぼくがこのやり取りの中で、率直に感じたことを言います。

    これは、ぼくが個人的に感じたことですから、無視していただいてもかまいません。
    これ以上は書きませんから、そういうことを感じる者も居るということでご理解ください。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    ぼくには、Takeoさんの中に「ちっちゃいTakeoさん」が居て、その「ちっちゃいTakeoさん」が、涙を流しているように感じられたんです。

    それで、その「ちっちゃいTakeoさん」は、そのことを誰かに伝えたくて口を開こうとしているんですが、なかなか言葉が見つからない。

    そうしていると、「大きいTakeoさん」が現れて、「ちっちゃいTakeoさん」の口を封じてしまうんですね。
    自分が理解できていないことを口走ってはいけないと。

    「ちっちゃいTakeoさん」は「大きいTakeoさん」にはかなわないので、口を閉ざしてしまいます。


    だいぶ前に、Takeoさんがデイケアで絵を描いたときのことを記事にしていたことがあり、その記事は、鞭で打たれている人の絵を描いたという話だったと思います。
    その時に受けた印象とほとんど同じものを感じました。

    鞭で打たれているのが「ちっちゃいTakeoさん」で、で、打っているのが「大きいTakeoさん」です。

    ぼくは、「感動」という言葉を、Takeoさんに限らず、誰かに使って欲しいとは思いませんが、それよりも、「ちっちゃいTakeoさん」の言葉を聞きたかったのだと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    これは、『だから、どう』ということではありません。
    ただ、ぼくが感じたままです。

    だから、残念ながら、これ以上言えることはありません。

    また、ここでも、ご気分を害しましたら、重ねてお詫びいたします。


    それでは、また。

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    1. こんばんは。

      まず最初に、前のコメントで、気分を害したということはありません。ただ、なんとなくお互いに伝わってないな、という感覚はありました。

      それから昨日、主治医のところに久しぶりに行ってきました。まあ北風が冷たかったですが天気が良く、いける感じだったので。
      それに、ここのところ、明らかに以前にくらべて、状態が悪くなっていると感じたからでもあります。具体的に言えば、倦怠感、ひどいだるさ、それから底彦さんがよく使っている「無気力」、更にイライラといった感じでしょうか。
      それが改善できれば・・・という気持ちがあり、薬の相談に行ったのです。
      いつもの薬のままであったら、また改めて母に行ってもらっていたでしょう。

      これまでもなんどか抗うつ剤を試しましたが、いつも副作用で頓挫していました。また副作用が無い場合には主作用もないと言った感じです。

      しかし現在はこれまでになく状態が悪いので、それこそダメ元であっても、試してみなければと考えたのです。

      イライラや何もできない状態はダイレクトに母に影響を及ぼします。それもあるのです。

      そういえば、一度だけ、デイケアの「絵画」のプログラムに出て、一本の大木が、無数のスマホに包囲されている絵と、誰かが誰かを鞭打っている絵を描きました。すっかり忘れていました。

      最後にわたし自身、精神年齢は子供のまま、というか思秋期を引きずっている感じですし、それを言う人は大抵みな悪意を含んでいますが、成長しないまま年だけ取った奴と言われています。その辺りはどう感じていますか?

      それと、わたしの一連のコメント及び投稿で、皆が投稿を躊躇してしまうことを危惧します。

      これもまた無意識の領域でわたし自身どうしようもない「感覚」の領域なのだと思っています。
      わたしは本当に、欠点・欠陥だらけの人間ですがそれを受け止めてくれる人を求めています。

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  7. Ciao Takeo さん、そしてふたつさん
    実は私も感動って言葉が嫌いです。
    人の感情っていろいろな感じ方、いろいろな種類があるし、よってそれをどう表現するか?と言うのも、それぞれにちゃんといろいろな言い方、語彙が存在しているわけで、
    それをどう言い表そうか?と、どんな言葉を選ぼうか?とちょっと思索して言葉を探すわけでもなく、全ての感情を十把一絡げで、なんでも「感動」と言って済ませてしまう、そのお手軽感が嫌だなと思うのです。
    感動をありがとう。に至っては、、「何言ってんだ!このやろうっ」とガン付けたくなるくらい嫌いです。
    感動という言葉自体に罪はないのでしょうが、あまりに安売りされてるので、全然心に響いてこないのですね。
    楽しい振りをしているといかにも人生をちゃんと満喫している幸せな人のように見えるから、楽しそうに見えるシーンを求めて、ただ大騒ぎしたい人々の常套句のようにしか、私には、響きません。
    響かない言葉の無用さなど、言い表せないほど悲しく寂寥です。

    つまり、これまた「こういう方々」がFace bookなどで必死で集めてる「友人」と一緒、空虚にバーチャルです
    感動を人から与えて貰う前に、沈黙の中で自省、内省、熟考ってもんをやってみろと私は思います。

    まあ、これは今日本から始まり、(特に東京が酷いのですが)、世界中に伝播しつつある安っぽさと言う「伝染病」故ですが、先日お二人が芸術とか美の話をなさっていましたが、大半の人々は芸術に触れたいと出かけて行くのではなく、「有名な」なんとかさんのこれまた「有名な」なんとかって作品を見「ておこう」と出かけるのであって、そこになにかを感じようとは露ほども思っていない気がするのですね
    スペインのサグラダファミリアに行って、ただ外から見上げて、凄い凄いと言っておしまいにしてる人はとても多いですが、じゃあ中に入ってガウデイのデッサンなどが展示されているのまでを見て、彼が何からインスピレーションを受けたのかを探ってみようと考える人がどれだけいるか?という事でも説明が付きます。
    大体、今や日本人の人が普段使用する日本語の語彙がめちゃくちゃ少なく、簡素で平坦になっていることは悲しいかな明白です。
    もしくは
    なんでも、凄い。で済ませる
    それどころか、端折ちゃうってのもしばしばですからね
    懐かしい、をなついとか、、。
    そう言う症状を私は一種の嫌悪感と脱力感で見つめます。
    感動したーーと喜んでる人に
    どこがどう感動したのか、
    おいしーと喜んでる人にどこがどう美味しいのか
    凄いーーと叫んでる人に、どこがどう凄いのか?聞いてみたい衝動に時々駆られます。

    ところで、ふたつさんが「ちっちゃいTakeo さん」「大きなTakeo さん」と書いていらっしゃる事にびっくりしました。その昔、私も「ちっちゃなTakeo さん」と言う話をTakeo さんにした事があるからです。
    私たちは皆、「ちっちゃな私たち」を内に抱えていると思っています。
    そして大半の人がその「ちっちゃな自分」に気づかず、「ちっちゃな私たち」は、私たちに相手にしてもらえなくて、受け入れてもらえなくてそして愛してもらえなくて、私たちの中で膝を抱えて寂しそうに隅っこに蹲っています。
    彼らが誰よりも愛してもらいたい人は私たちなのです。
    私はその「ちっちゃな私たち」の寂しさが、私たちがなぜか感じる物足りなさだったり、寂しさだったり、疎外感なのだと思っています。
    ですから、皆がまずその「ちっちゃな私たち」の存在に気づき、抱きしめてあげるだけで、世の中に幸せな人が増えるのではないかとさえ考えているのです。
    何故なら、私はそのそれぞれの人の中で膝を抱えて蹲ってる「小さな人たち」が見えるので、その「ちっちゃな」人たちの心の様子と私たちの心の様子がリンクしているのがわかるからです。
    ですから、Takeo さんがいつか熊に抱き締められて眠っている子供の絵をアップした時、Takeo さんの小さなTakeo さんもこうして抱き締めてあげてほしいと書いた記憶があります。
    同じようなことをふたつさんが書いていらっしゃったので、嬉しく思いましたので、一言。

    Takeo さんの状態が良くないと聞いて、とても残念に思いますし、そこで何もできない自分を悲しく思います。
    明日、Takeoさんとお母さんに、例えどんなに小さな事であっても、そよいだ風が頬を撫でるほどのささやかさであっても「ちょっと心が沸き立つ、、と言うか心がふっと微笑む」そんな感じが、訪れますようにと祈ります。
    良い一日をと祈ります。




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    1. こんばんは、Junkoさん。

      今日はちゃんと反映されていますね。(苦笑)

      わたしの世界は現在・・・というかここ数年は本当にインターネットと本だけの世界です。わたしはいいブログを書きたいのです。繰り返しになりますが、「いいブログの第一条件」は、わたし自身が納得することです。次に3人が何かしらを感じてくれるか、居場所として不快ではないと感じくれること。そして先ず家の中でだけでも、わたしの状態が安定することが、母にとっても、(お互いにとって)必要だと思います。

      ほんとうに言葉であれ、形のあるもの(商品)であれ、何もかもが安っぽい。
      だから何に対しても毒づきたくなります。

      ただ、上で、ふたつさんに言ったように、このブログを単なる愚痴のはけ口としてではなく、もっと多彩に、そして気恥ずかしい言い方ですが、「美」を取り込んでいきたいのです。



      さて、話が興味深い方向に向かっているようです。
      Junkoさんの投稿は覚えています。あの絵もまた、イギリスのエディターのブログから拝借したものですが、パジャマをきた少年が熊に抱きしめられて寝ている。

      ふたつさんの言葉を読んだ時に、以前も同じような話を聞いたぞ、と思いました。

      おふたりの言葉に対して、わたしが疑問に思うのは、わたし自身、今現在もまだ子供のままだという意識を持っているということです。
      いまこうしてJunkoさんに返事を書いているのが、ちいさなたけおです。
      つまりわたし自身では、内なる子供のたけおが、今、大人になったたけおに何らかの形で抑圧を受けているという感覚を持っていないということです。

      それはJunkoさんも、ふたつさんも、わたしが繰り返し、「全き抱擁」というようなイメージを使っていることからも分かると思います。

      Junkoさんやふたつさんのみるわたしと、わたしの見る、また感じている自分とは違っていても不思議はありません。それだからこそ、何故Junkoさんやふたつさんの目に、わたしが二重構造になっていると感じるのか、それを聞きたいと思うのです。

      わたしは自分でも子供のまま大きくなったと思っています。そして、いまのわたしが「全き抱擁」を希求しています。

      これはJunkoさん、ふたつさんの意見への反論ではないということを改めて強調しておきます。だって、わたし自身の自己イメージとズレがあるといっても、根っこのところで、「わたし」のことを気遣ってくれているからこそ、このような意見が出るのですから。

      先日お断りしたとはいえ、あまりまとまりのない返信になってしまいました、とはいえ、あまり恐縮ばかりしていると、気楽に書きこめないでしょうから、あまり自分に多くを求めないようにします。

      母へのお心遣いに改めて感謝します。

      メッセージをありがとうございました。

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  8. Ciao Takeoさん
    > 内なる子供のたけおが、今、大人になったたけおに何らかの形で抑圧を受けているという感覚を持っていないということです。

    私はそうは言っていませんし、思ってもいません
    だから、Takeo さんがそう言う感覚を持っていないのもわかります。
    未だ子供のままだと思っているTakeo さんの中に、さらに小さなTakeo さんがいるのを感じます、と言っているのです。
    その「さらにちっちゃな」Takeo さんは、つまりTakeoさんがそうだと認識するところの、子供のままの意識のTakeo さんに気づいてもらえず、よって抱きしめてもらえず、愛してもらえず、隅っこで膝を抱えて寂しそうにしているけれど、それは抑圧ではありません。
    だからこそ、クマが少年を抱きしめているように、Takeo さんがその「さらにちっちゃな」Takeo さんに目を留め、彼を抱き締めてあげる事ができたら、どんなにいいだろう、と思っているだけです。
    子供のままだと思っているTakeo さんが、「さらにちっちゃな」Takeo さんに気づかない。
    それは、おそらく、Takeo さんがどんなに私たちに言われても、ご自分の才能や素敵なところを認める事をしない。出来ない。と言う事を語っているように思います。

    恐縮もその一面ですね
    Takeoさんがいつも見せてくださる、やさし過ぎるお心遣いなのですが、
    Takeoさんがどんな状況で、どんなに書く事に対して困難を感じていたとしても、こうして返事を書くことができ、答えてくださっているわけで、
    今Takeo さんが書いていることが、例えTakeo さんの理想からすると全然不充分だとしても、それが、今現実に存在しているTakeo さんが、今書けることであり、紛れもなくTakeo さんの声であるのですから、それが今の真実でありそれで充分だと私は考えます。
    いつも、もっともっとではなく、まだまだだ、でもなく、とりあえずこれで、、。で良い。 と思えないかなぁ、、と。
    少なくともこちらにおじゃまして、互いの意見の交換に快く参加している私たちにとっては、どんな文章であれ、それが今存在する真実であるのですから、それで充分です。

    ちっちゃな自分に気づいていない人は、Takeo さんだけではなく、今の社会の、問題も不足もなく、全て事足りているかのように暮らしている人々の中にもたくさんいると思います。
    だから、私は特に東京にいると、やり切れない孤独感(私のものではなく)や、ただただ深くて限りなく冷たい寂寥感をあちらこちらで感じるのだと思います。
    その自分が好きであろうがなかろうが、まずは自分の中で膝を抱えて私たちに気付いてもらうのを待っている、その真の自分を認め、受け入れない限り、人が本当に幸せを感じることは困難であるのではないかと私は考えています。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      Junkoさんと同じように、わたしも孤独を感じています。
      何故ならわたしには、Junkoさんの言われている「子供のたけおのなかの、更にちいさなたけお」のというものの存在がわからないからです。

      >自分が好きであろうがなかろうが、まずは自分の中で膝を抱えて私たちに気付いてもらうのを待っている、その真の自分を認め、受け入れない限り、人が本当に幸せを感じることは困難であるのではないかと私は考えています。

      自分の中で二重三重になっているそれぞれの「わたし(たち)」。その小さな存在こそが「真のあなた」だ、と言われているのでしょうか?

      これはわたしには理解の及ばないところのJunkoさんの「人間観・人間論」です。

      Junkoさんは「どんなに出来損ないでも、至らずとも、ありのままのわたし=たけお」を受け容れてくれているのか?
      或いは「こうあってほしいたけお」を求めているのか・・・「求めて」いないまでも、「いまのまま」ではなく「こうあってほしい」と思っているのかがわかりません。

      いまのわたしに書けるのはこれだけのようです。

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