2020年1月15日

わたしとは「誰」か?


一昨日、13日付東京新聞『本音のコラム』で、過去に何度か紹介した精神科看護師の宮子あずささんが書いている。タイトルは『「甲さん」「乙さん」ではなく』

以下全文引用する



知的障がい者ら四十五人が殺傷された「津久井やまゆり園」事件の裁判員裁判が始まった。実名が出る被害者はただ一人。他は「甲A」「乙B」などと記号で呼ばれる。この中、今月八日の初公判に合わせ、殺害された女性の母親が、その名前を公表。大きな話題になった。母親は「『甲さん』『乙さん』と呼ばれることは納得いきませんでした。ちゃんと美帆という名前があるのに。どこにだしても恥ずかしくない自慢の娘でした。家の娘は甲でも乙でもなく美帆です」と語った。
本当の気持ちを言えば、私はなるべく実名に近い名前で、被害者が呼ばれて欲しい。
理由は二つある。ひとつは、障害者を人と見ない加害者にあなたが殺したのは名前を持つ人なのだという事実を突きつけたいから。そしてもうひとつは、被害者家族が障害を恥じない姿勢を示してほしいからだ。
これは批判や要求ではなく、あくまでも願いであり、望みであり、祈りである。美帆さんのように名前だけでもいい。無理ならイニシャルだけでもいい。記号以外の何かで名付けてほしい。
背景に差別があり、だから実名を出したくないのはわかる。でもこの「わかる」を乗り越えていかなければ、世の中は変わらない。ひとりひとりが少しづつ自分を乗り越えよう。そうせねばならぬほどひどいことが起きたのだ。


確かに甲だ乙だAだBだと呼ぶことは、被告に、「俺が殺したのは、結局甲とか乙であり、1番2番・・・であって、「固有名詞を持つ人間存在」ではない。ということを、向こう側が裏付けている。」という感想を持たれても仕方がない。思う壺である。

どのような肩書を持ち、どのような状態の生であっても、人間を記号で呼ぶことは、彼ら/彼女らの魂を再度抹殺したことに等しい。植松被告は彼らの生存を消し、被害者の家族を含めた世間は、彼ら/彼女らの存在自体を否定する。被告と懸隔した場所に立つわけではない。

あくまでわたし個人の意見だが、これは殺された者たちへの冒瀆である。
家族が殺された。そして殺された娘や息子、兄弟・姉妹を「甲」「乙」で呼ぶことに耐えられない人がただ一人とは。差別が怖いなら、差別するものを殺しても構わない。最早これ以上怖れるものは何もないはずではないか・・・

けれども、同時にわたし自身、はたして「武雄」であるのか?という想いもある。
嘗てわたしは「武雄」であった。けれども今は一障害者、単なるアノニマスのひとりではないのか、と・・・

以前のブログで、石原吉郎が、「無名戦士の墓」について「無名の戦士などいるはずがないし、自分はこの「無名戦士」という呼称を断じて受け入れることはできない」というようなことを書いていて、わたしはそれに対し反論をした。

その時に「名前とはどのような意味を持つのか?」ということを、『シベールの日曜日』という映画を引きながら語ったが、今その記事を見つけることができない。

やまゆり園で殺された人たちにも、無宿者にも名前がある。宮子氏のように生ぬるいことを言っている場合ではない。世間が彼ら/彼女らを「甲」「乙」と呼ぶことを許しては、肯(がえ)んじてはならないのだと思う。繰り返すがわたしはそれを(仮に家族の意思であろうと)「第二の(障害者の)抹殺・否認」と考える。

そして同時に、唯一自分を愛してくれた人を殺された時に、彼を(誤解から)射殺した警官に名前を訊かれ「もう、わたしには名前なんかない・・・」(DVDでは「もう名前なんか必要ない・・・」)とうなだれた少女シベールの気持ちも100%理解できるのだ。

わたしの心の中にはいつもこの言葉がある。
嘗て、陽気なディーン・マーティンが歌った曲のタイトル

"You Are Nobody Till Somebody Loves You..."






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