2020年1月16日

美と悲しみ


バスの運転席近くに薄暗がりがあった。小さな影が消え入りそうに座っていた。
イエユウレイグモ。白髪のおばあさん。隣に座る。おばあさんは動かなかった。
よくみると、顎をこきざみにふるわせている。影の微動。


なにか臭った。おしめか。ダイコンのぬか漬け。おばあさんの左手の指にさわってみた。おばあさんは動かなかった。ただ、冷たい指が細かにふるえていた。
ぬか漬けが濃く臭った。


いま、どうしていますか?


きのう隣にすわったちいさなおばあさん。いまどうなさっていますか?
お昼はちゃんとめしあがりましたか。お昼寝しましたか。夢を見ましたか。
どんな夢でしたか。バスでわたしが隣にすわったこと、おぼえてらっしゃいますか。あなたはどなたですか。


どなたでもない。ということはありえません。でも、だれでもない、そうとしか言えない姿をわたしはみました。運転席をしきる鉄のバーをあなたは両手でにぎっていた気がする。骨にじかに皮をはりつけたような手で。


おばあさん、あのときあなたは時間のむこうをみていた。身に寸鉄もおびずに。
ぬか床のにおいのなかのあなた、拳銃いっちょうくらいよいのですよ。ぶっぱなしたって。バーン。わたしを撃ったって文句は言わない。どうぞ。


おばあさん、貧しく、寂しそうなおばあさん、ぼくはあのとき、引っ越しのことを考えていたのです。どこからどこへ引っ越すのか・・・・・わからなくなって。けふ、おもいつきました。それで、おばあさん、あなたに電話しようとしましたが、かかりませんでした。


おばあさん、貧しく寂しく、ぬか漬け臭いあなた。いじめられているのですか?やさしい口調(笑顔)のひとびとに、とってもやさしく朗らかにいじめられているのですか。


了解!仕返ししましょう。てつだいます。どこまでも陰湿に報復しましょう。


こくみんひとりびとりの口にビゴのピストルをくわえさせて、君が代をハミングさせませう!おばあさん、あなたに指揮を任せます。


ぼくはぼくから引っ越そうとしているのです、おばあさん。

ー 辺見庸「おばあさん」『純粋な幸福』より



おばあさんであれ、障害を持った人であれ、描くことは難しいと感じさせる。悲しいね、さびしいね、とべとついた感傷は御免だ。であるならば、いっそこのようにふざけてしまった方が「マシ」なのかもしれない。

辺見庸がどのように「おばあさん」を描こうと、世の中にこのような「おばあさん」が存在することは事実だ。

これは逆説的だが、今の救いのない、救いようのないこの世界に、さびしいおばあさんのような存在があること。それだけが救いだと近頃ますます強く感じるようになった。

世界に悲しい言葉、悲しい詩(詞)、悲しい曲があるというのは救いだ。そして悲しい運命を背負った人がいるということも、また救いだ。

寂しく、貧しいおばあさんの微笑みを心から願いながら、わたしはひとりでも多くの人が、寂しく、貧しくあれかしと、同じように願い、望む。

笑顔よりも、泣き顔の方が崇高で、美しいと信じている者より。


ー追記ー


「・・・神性の輝きが世界から消えてしまったのである。世界の夜の時代は、乏しき時代である。それはすでに甚だしく乏しくなってしまって、最早神の欠如を欠如として認めることができないほどになっているのである・・・」
ーマルティン・ハイデガー『ハイデガー選集 Ⅴ』「乏しき時代の詩人」(1972年)(手塚富雄、高橋英夫訳)より

「〇〇の欠如を欠如として認められない時代」・・・わたしがこの空欄を埋めるなら、「美の欠如を欠如として認められない時代」と躊躇うことなく書きこむだろう。

寂しくまずしいおばあさんの実在を称揚し、美化すればするほど、その崇高さが希釈され、物象化されるというパラドクスにわたしは困惑する。

わたしはただ、黙ってその実在の前に立ち、頭(こうべ)を垂れる他ないのだろう。














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