2020年1月30日

現実、日常、非・日常…思いつくままに


このブログに時々コメントをくれる友人、底彦さんのブログを読んでいて、ふと立ち止まった箇所があった。以前底彦さんから、自分の日記を自由に引用していいという許可を頂いた記憶があるので、ここにその箇所を引用し、その日の日記のリンクを添えておく。
※勿論底彦さん本人からの削除要請があれば速やかに削除します。



「午後からデイケアに行く.今日はメンバーは一人しか来ていなかった. 人数が少ないのでプログラムは自由時間になる.
そのメンバーの男性とぽつぽつと話をする.
お互いの今の体調のことや, これまで読んだ本のことなど.

その中で彼は, ずっと被害妄想に苦しんでいると話しながら「やっぱり現実を見ないと駄目ですかねえ」と言ったのだが, 答えることができなかった.
現実を見る, 何と遠い言葉だろう. 自分はそういうことができるようになるのだろうか.」

ここで彼の友人がいう「現実を見なければ・・・」という場合の「現実」とは何だろう。
仮にわたしがこのような言葉を掛けられたら、先ずそのように思うだろう。
一方で、底彦さんは、

「現実を見る, 何と遠い言葉だろう. 自分はそういうことができるようになるのだろうか.」
と考える。しかし、「なんと遠い言葉だろう」「自分はそういうことができるようになるのだろうか?」と書かれている時点で、この二人の間には「現実」という言葉の意味が共有されている。

繰り返すが、「自分はそういう(=現実を見るという)ことができるようになる」「ならない」以前に、わたしにはその「現実」なるものの実体がわからない。

ここで会話を交わしているふたりは、では、いまどこにいるのだろうか?非・現実の世界にいるのだろうか?ここには、現実というものを対象化している眼差しはあるが、現実を相対化する視点が無い。
「ゲンジツ」というものを、自分たちがそこから遠ざかってしまった、当然自分たちが居るべき自明の場所という想い、そして困惑が窺える。

いま底彦さんと友人が病んでいる。所謂「一般社会」というものの内側に居ないという事実。これだけが「現実」ではないのか。この現実の他にもうひとつ「ほんものの現実」とでもいうべきものがあるのだろうか・・・


母の古い日記帳に70年代か80年代の新聞の切り抜きが挟まれていて、それが、きょうびの新聞記者やら論説委員の書く、水っぽい酒のような薄っぺらな文章よりも遥かに上手で「滋味掬すべし」と感じたので、ここに書き写す。書いたのは、当時八十五歳の杉並区の主婦である。


「これより慰する終日の労」── 子供のころ、祖父から漢詩の素読を習ったという母は、一日を終えて寝床で手足を伸ばしながら、よくこんな詩を口にした。
朝になり昼が来てやがて夜になる。それを繰り返しながら人生の終局に向かっている私たち。悲しみ、喜び、悩み、いらだちも避けては通れない。しかし、一日を終えて、わが家の安息の床に手足を伸ばして横たわることが出来る人はやはり幸せというべきか。
もし、すべてを忘れて眠るという空白の時間がなかったなら、長い人生の重みに耐えてはいけないだろう。神様は誰にでも、人生のすべての思いから離脱して夢の世界に休む時間を与えてくださったのだ。幸福に目覚めた日は、改めてその喜びをかみしめ、悲しみや不幸に出合った日も、一日の眠りが落ち込んだ心を緩和して、新たな力を与えてくれる。母もその思いを漢詩の一節に託して口にしたのだろうか。いま、私もそのころの母の年を超え、母の安らぎの眼差しを懐かしくまぶたに浮かべて、夢の世界を楽しんでいる。


この文章の中には、「日常」というものがある。地に足の付いた、確かな「日常」というものが。
しかしわたしは今日の世界に「これより慰する終日の労」という詩句に価する「日常」、「人間の生活」が「あたりまえに」あるとは思えない。

きょうび、いったいどこに、「あたりまえの現実」「あたりまえの日常」などがあるのだろうか。




欲しきもの少なくなりて囚身(しゅうしん)の眠りは深く覚めて愛(いと)しむ

熟睡にひたりをりしを覚めて知るみじかかりしもうれしかりけり

ー島 秋人歌集『遺愛集』(1967年)より


死刑囚であった島さんの獄中で詠んだ歌に見られるのは、芥川龍之介のいう「末期の目」であるような気がする。自殺を決意してから、観るもの聴くものすべてがうつくしく愛おしく感じるのは、生きることをやめるという決心によって生じた逆説的なエモーション・感情だと。

これは非・日常の「側」から日常を見つめることによって見出された「美」なのだろう。

これらの文章を手掛かりに、「現実」というものが、1930年代~40年代(=戦中期)、60年代~70年代(繁栄・安定期)、そして、現代と、常に不変のものとして存在し得るのかどうかを考えてみたい。

シリアの現実、パレスチナの現実、香港の現実、フランスの、英国の現実・・・
いま目の前で流動している世界は確かに「現実」ではある。けれども、「現実」であるということが、我々が、有無を言わさずそこに(帰順順応という形で)加わらなければならない、帰属しなければならない場所であるとは、わたしには思えない。
現実を見極めるということは、そこから離脱するという可能性をも示唆している。
何を現実とし、どのような生活を己の日常とするかは、「いま、そこにある」「現象・現状」が決めるものではなく、各々の主体的選択によるものだろうと思っている。








7 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    今朝の記事で私のブログが引用されているので驚きました. 自分の文章を友人のブログの一部として読むのは, 何だか不思議な気がします.

    せっかくなので, デイケアでの友人との会話のことを書いてみます.
    彼とは文学の話をしたのです. それは楽しい時間でしたが, 一区切り付いたときに彼は「現実を見ないといけませんかねえ」と呟いたのです.
    彼はデイケアでの私の尊敬する大切な友人で良く話をします. 私自身もそうなのですが, 彼がその生い立ちを通じていかに生活というものに苦しんできたかという点で共感を抱き, 彼に親愛の情を持っています.

    幻覚や妄想に苦しむ中で文学や音楽に傾倒した彼が, 私が絵や数学に逃避したことと近い気がしたのかも知れません.

    よく「現実を見ろ」とか「現実に還れ」などと言われます. 残酷な言葉だと思います.
    ここで言われている「現実」とは, 多くの場合に社会もしくはその社会を構築しているシステムといった全体性の謂のように感じられます. おそらくそうでしょう.
    そこに帰属することこそが価値なのだというような傲慢さがあり, 私には受け入れられません.
    すでに心の病に罹患しているという事実が, 私のそこへの帰属への拒絶であり, 排斥・排除・隔離といった陰湿さに繋がります.

    心の病とは単なる診断の結果でしかないのに, それは一つの在り方であるのに, です (このように考えるようになったのはごく最近です).

    人によっては, その人の現実は想像の世界に中心があります. 精神的な思索の世界がその人にとって, より身近な現実なのかも知れません. そのこと自体が極めて重要であると思います.

    そういう人が居るということに思いを馳せず, 無理矢理に一律に外部の歪んだシステムに嵌め込もうとすることの暴力性を私は恐れます.
    決して被害者ぶるわけではありませんが, 私がその暴力性にずっと晒されてきているからです.
    デイケアの友人もそうだと思います.

    > 何を現実とし、どのような生活を己の日常とするかは、「いま、そこにある」「現象・現状」が決めるものではなく、各々の主体的選択によるものだろうと思っている。

    ですから Takeo さんのこの文章には同意します.
    個としての各々にとっての現実に立ち位置を見出だし, その場所から世界の中で生じている事柄を見るということが世界の中に身を置くということではないかと考えます.

    このことと関係して, 最近の Takeo さんの記事で引用された二階堂奥歯さんが卵管圧挫結紮手術について書いた日記は彼女のブログの中でも強い印象を与える文章ですね.

    > だからこそだ。私は取り返しのつかない改変を自分の身体に加えようと思った。子供をほしがる未来の私を私は決して許さない。未来の私が今の私を裏切ろうとするのならば、思い知るがいい、私は決してあなたを許さない。

    私は二階堂奥歯という女性に深い尊敬を抱いています. 彼女の知性.
    そして同時に上の文章などからは抱きしめたいような愛おしさも感じます.
    彼女の「現実」への向き合い方や眼差しの底にある透徹した明晰さと, 自己に対する極端とも言えるディシプリン (discipline) に.

    二階堂奥歯さんの世界は非常に多くの部分が, 言語とそれが喚起する像によって極端なまでに構築され過ぎているというのは, 決して考え過ぎでは無いと思います.
    彼女のブログを読んでいると, 日本語という言語で記述されていることによって辛うじて意味を取ることはできるのですが, 異世界のことを書いているのではないかと思うことがあります.
    それは彼女が見て書き記しているものが, 私にはどうしても見ることができないものばかりだから, ということがあるでしょう.

    ブログからは, 彼女にとって「見る」という行為には特別の思いと意味があると感じます. 「見たもののみが存在する」という点においてです.
    そのような「見た」ものだけから構成された世界の中で彼女は生きて, それでも現実世界にはみ出してしまった自身の精神と肉体を矯正してそれ自体を彼女の世界のオブジェクトとしようとする. 私はその姿を畏れの気持ちを覚えつつも指示します.

    「私は取り返しのつかない改変を自分の身体に加えようと思った」という言葉を選んだ瞬間の彼女の精神には, ある種の崇高さと恍惚性が含まれてはいないでしょうか.

    以上は私の乱暴な考察ですが, そのようなことが可能だった二階堂奥歯さんに「現実」へのあるべき一つの向き合い方を教えられる思いがするのです.

    今日は好天のせいか, 久し振りに午後からの鬱がありません.
    寒暖の差が激しい日々が続くようですが, Takeo さんも体調など崩されませんよう祈っております.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      早速の感想をありがとうございます。

      底彦さんがこのコメントに記されていることは、わたしも同じ考えです。
      でも今少し拘らせてください。(無論それに対する応答は底彦さんの気持ち次第です)

      底彦さんの敬愛する友人の言われた「やっぱり現実を見ないと駄目ですかね」・・・という感懐はいったいどのような気持ちから発せられた言葉でしょうか?
      そしてそれに対する底彦さんの「自分はそういうことができるようになるのだろうか.」という言葉の背後に、「そうなれればいいのだけれど・・・」という希望と諦念の入り混じった複雑な思い・感情を見ます。

      わたしは重箱の隅を楊枝でせせるように、ちょっとした片言節句を捉えて、底彦さんとご友人に非難がましいことを言うつもりはありません。
      「現実」とはなにか?ということは、わたしにとっても大きなテーマであることは既に底彦さんもご承知だと思います。

      言葉尻を捉えているのではなく、そのことについて底彦さんと話したいのです。



      このような書き方しかできないことをご容赦ください。

      頂いたコメントを読む限り、底彦さんの「現実観」は既に揺るぎない信念に支えられているように感じます。けれども、わたしの目の曇りのせいかもしれませんが、底彦さんの内面には、そうはいいながらも「葛藤」が「逡巡」が感じられるのです。
      ハッキリ言ってしまえば、「社会復帰」「現実回帰」への潜在的希求です。
      仮にそういうものが底彦さんの内側にあったとしても、わたしはそれを忌避したり、批判するつもりも、またそんな資格も持ちません。

      ただ、底彦さんの今回のコメントは余りにも歯切れが良すぎるではないか・・・と感じてしまうのです。

      そして純粋でまじめな人ほど、「現実を見ないといけませんかねえ」という言葉が口から出てくるということです。そのようなことを思わせる圧迫が、確かに社会の中に充満しているからです。

      わたしが嫌い、わたしがそこから離脱した「現実」「現代社会」への断ち切れぬ思いが底彦さんやご友人にあったとしてなにが不思議でしょうか?
      わたしはそのままの、葛藤と逡巡を抱えたままの底彦さんを受け容れます。



      二階堂奥歯の文章は過去にここで数回引用しています。それはわたしがいまこの時代に子供を産む「普通の人々」への拭い難い懐疑と通底しています。
      また「連綿と続く次世代へのバトン」とか「未来」などというものが所詮幻想に過ぎないという想いとも。

      わたしは個人的には、現代世界に子供を生み出すことをある意味で「罪」だとさえ考えています。ですから二階堂のこの箇所にはとくべつに共感するのです。

      先日母が言いました。「お母さん(母の母)は何故私なんか生んだんだろう?私なんかいない方が私もお母さんも幸せだったろうに」と。そしてその思いは今のわたしに受け継がれています。

      彼女の書いたことはほとんどなんの抵抗もなくわたしの中に入ってきます。
      「眼差されることによってはじめて存在する」ということも。

      無論相違点は年齢、性別、裕福な家庭の子女であることなど、表面的にはいくつもありますが、考え方としては、わたしにとっては近親者であり、A Girl Next Doorなのです。

      改めてブログからの引用を許可(?)していただいたことにお礼を。

      そして「これより慰する終日の労」の言える日が一日も多からんことを願います。

      お大事にお過ごしください。

      不悉


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    2. 追伸

      底彦さんのブログを読んでいて改めて感じたのは、このブログと対照的に、
      「わたしは・・・」
      「しかしわたしは・・・」
      「ところでわたしは・・・」
      といった、一人称の記述がほとんど見られないということです。
      尤も、その他のブログはスタイルこそ違え、自己主張に満ちているかというとそうでもなさそうです。

      ですからここで底彦さんが、ご自分の考え、気持ちを聞かせてくれることをたのしみにしているのです。

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    3. こんにちは, Takeo さん.

      私がデイケアの友人と話したことについて少し書いてみます.

      > 底彦さんの敬愛する友人の言われた「やっぱり現実を見ないと駄目ですかね」・・・という感懐はいったいどのような気持ちから発せられた言葉でしょうか?
      > そしてそれに対する底彦さんの「自分はそういうことができるようになるのだろうか.」という言葉の背後に、「そうなれればいいのだけれど・・・」という希望と諦念の入り混じった複雑な思い・感情を見ます。

      まず, 友人の言葉です. この言葉を聴いて私は暫く何も言えなくなってしまったのです.
      友人にとって「現実を見る」ということがどのような意味を持つのか, それがどれほど苦しいことなのかは想像することしかできません.
      ただ, おそらく多くの文学作品や音楽に触れることで形成されたであろう彼の中にある豊穣な内的世界と, 彼が他人に対して見せる溢れるほどの ── 本当に溢れるほどなのです ── 愛情と優しさに触れる度に, それは決して穏やかなことではなかったのだろうと感じます.

      幻覚や幻聴の苦しみの中にある彼が人に向ける思いやりの言葉には本当があると思います.
      私は 5 年程前の最も苦しかった時期に, 彼の言葉によって心からの安心を得たことがあります.
      彼の言葉は大袈裟なものでは無く「ありのままの貴方が最も尊いのだと思いますよ」といった感じの多くの人が口にするような言葉でしたが, 彼がそれを言ってくれたことで私は救われた気がしたのです.

      ですから, そのような彼がふと漏らした「現実」という言葉が指すものの恐ろしさを, 私は受け止められなかったのだと思います.

      私にとっては「現実を見る」というのはもっと彼のものとは種類の異なるものでしょう.
      Takeo さんも指摘しておられる通り「希望と諦念の入り混じった」思いですね.
      極端に内向的だった幼少期・少年期から現在に至ってもまだ世界への違和感は苦しいです.

      それでも私の中には未だに「社会の中で働く」ということに価値を認める思いの残滓があり, それが「希望と諦念」ということなのです.

      ほぼ全ての繋がりを断って逃げました.
      今は世の中から隠れるようにして生きています.
      顔を上げて前を向いて歩けません.
      外に出るのが辛いです. 人と触れ合うことが恐怖です. ネットも怖いです.
      チラシ配りとチラシ印刷の仕事には全力で取り組みましたが鬱が悪化してほぼ寝た切りの時間が続きました.

      「社会」に「復帰」する余地が何処かにあるのでしょうか.
      だから友人が「やっぱり現実を見ないと駄目ですかねえ」と呟いたときに「何と遠い言葉だろう」と感じたのです.

      「救い」というものを求める自分を嫌悪していますが, いくつかの詩や哲学に縋る自分が居ます.
      この先私が自己肯定感を得ることも無いと思いますが, 自分が穏やかに在ることのできる場所を求めてしまいます.

      昨日今日と比較的過ごしやすい日が続きました. けれども二月になって寒さはこれからだと思います.
      Takeo さんが静かで穏やかな日々を過ごせますよう祈っております.

      P.S.
      (1) 私のブログを読んでくださってありがとうございます. 一人称の記述が少ないのは, あのブログは第一に私にとっての記録・メモとしての意味が大きいことによるのではないでしょうか. 後から読んで症状や体調の波がわかりやすいように書いているためかも知れません.
      それに内面の吐露などを書くと後から感情の揺り戻しが来て寝込んでしまうこともあります. それは辛いので避けているのです.

      (2) 二階堂奥歯さんに惹かれるのは, 彼女の「見る」行為が, 彼女自身の精神性と身体性を強く規定しているように感じられるからです. 彼女の眼が成し遂げているものとは「感覚の論理学」ではないのか, と思えるからです. この考えに私は興味を持っています.

      (3) 返信がタイムリーに行えないのはどうか許してください. 考えるのに時間がかかってしまってどうしようも無いのです.

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    4. こんばんは、底彦さん。

      底彦さんは失笑されるかもしれませんが、わたしは二階堂奥歯のブログをライバル視しているところがあります。それは決して彼女のように書くということではありません。彼女の読んでいるような本を読むということでもありません。
      わたしは「際立った独自性」で彼女と競いたいのです。
      ブログ=日記に於いて「競う」という言葉は適当ではないかもしれませんが、やはり、わたしには「競う」という言葉しか思いつかないのです。

      この投稿の上にある二階堂関連の投稿はそういう意味での「競う」こととは無関係です。わたしは彼女の文章彼女の思考の中にわたしとの相違を見つけて、自分の正当性を主張するつもりは毛頭ありません。

      例えばドロローサやオーファンに対する気持ちも、やはり二階堂に対する思いと似ています。やはりそこにも「競う」という気持ちがあります。

      どの程度わたしの気持ちが底彦さんに伝わるかわかりませんが、わたしが目指しているものは「優・劣」でも「勝・敗」でもありません。無論読者の多寡でもありません。実際彼女のブログや、アートのブログに於けるドロローサやオーファンの存在がなかったら、どれほど味気ないことでしょう。



      前にも書きましたが、彼女は今でも一部で「メンヘラの女王」と呼ばれているようです。そしてそのことによって多くの支持者を得ています。
      しかしわたしは彼女の精神が病んでいるとはどうしても思えないのです。
      成程彼女は、日記を読む限り、会社でのいじめに遭い、鬱状態になって自殺したように見えます。けれども、その一部分を取り出して、「心を病んでいる人」と決めつけるのは余りに粗忽に過ぎます。実際には彼女が精神障害者であってもわたしの彼女を見る目はなんら変わりませんが、彼女は精神を病んでいるとはやはり思えないし、それを言うのなら、病んでいない人って何処にいるのでしょうか?

      「競う」という言葉の中には、数少ない・・・というか数人(?)のこのブログの読者に、「チッ」と言われたくないという気負いもあります。わたしがわたしの偽らざる思いを書くことによって、皆が離れてゆくことは致し方のないことです。けれども、「つまらなくなったな」とは思われたくないのです。もっともそれとても致し方のないこと=わたしの心身の状態がそうさせているのですからと言えなくもないのですが。

      最後にわたしのブログでも、底彦さんのブログでも、返信については気になさらないでください。書けるときに、書けるだけ、書けることを書いてくだされば充分です。
      そんなことで無理をなさらないように。たしか瀬里香君が「お返事は10年後でも」と言っていたことを思いだしました。彼女の不在はとても惜しいと感じます。

      いろいろとご不快な記述もあったかと思います。改めて深くお詫びします。

      底彦さんも穏やかな如月をお迎えください。

      親愛の情を込めて、

      武雄


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    5. こんにちは, Takeo さん.

      Takeo さんの文章の記述で私が不快になったということは全くありません. 私のほうは心の中のざわざわするものを言葉に表わせてすっきりした気持ちもあるのです. もしかしたら私が吐き出したその表現が Takeo さんに気を遣わせ過ぎてしまったのでしょうか. 何だか申し訳なく思います. どうかお気になさらないでください.

      「現実と向き合う」「社会の役に立つ」「他人に迷惑を掛けない」, 尤もらしいこのような言葉が, 私には以前にも増してこの社会に生きる人間に課された義務のように感じてきています. それもかなり強い義務にです. 世界の雰囲気がそのようになってきていると言えばいいのでしょうか.

      本当にこれらは私たちに要求されて良いことなのでしょうか. 考えていくとわからなくなります.
      寧ろ相当に偏った無理であって, 決して個々人が果たすべきことではなく, まして強制されるべきものではないという思いのほうが強くなってきています.
      私はこれがかなり辛いのです. この追い詰められていくような感覚, 圧迫感・閉塞感は何でしょう.

      Takeo さんの文章の中での「際立った独自性」という言葉を読んで, 上のようなことが頭に浮かびました. 私が感じているそのような感じ, それを押し付けてくるシステムというか全部の反対側に位置している概念だと思います.

      Takeo さんは二階堂奥歯さんと竸いたいと書いています. そしてその場として「際立った独自性」を選んだ. この Takeo さんの選択は私には象徴的に感じられます.

      以前の私の言葉をここで再び使わせていただくと, Takeo さんは世界に対して, 時に憎悪とすら感じられる程の強い否定の意思を持っているように読み取れます. それは例えば権力や制度に対する叛逆というようなものでは無く, より根源的な何かのように感じます.

      自分勝手にこのような分析めいたことをしてしまってごめんなさい. Takeo さんがなぜそのような意思を持つのかというところには, 私は到底踏み込めません.
      ただ, Takeo さんを構成しているこの烈しい否定の意思を私は読み解いてみたい気がするのです.
      そのことで私自身の圧迫され閉塞した心の状況を少し変化させることができるのではないかとも思っているのです.

      私は先の私の文章の最後で, 二階堂奥歯さんの眼が成し遂げているものは「感覚の論理学」なのではないかと書きました.

      彼女はその「眼差し」で見ることによって, 彼女の世界で存在すべきものを現世の構成物の中から選び取っていきます.
      それらには彼女にのみ与えられた感性によって彼女の言葉で名前を与えられて彼女の世界を構築していきます.
      まるで一欠片の石材, 一本の杭, 果ては蝶番の型に至るまで選び抜かれて組み上げられていく大聖堂の建築のような印象すら受けます.

      私は『八本脚の蝶』を読むうちに自分が受けたこのような印象から「感覚の論理学」という稚拙な言葉を思い付きました. 小さな言葉ではありますが, これは私を支えている言葉になっています.
      私もそのような「論理学」を展開してみたい, という願いのようなものも相当に含まれています.
      二階堂奥歯さんがしたことのほんの僅か少しでも真似できれば, と.

      それに似た感覚を Takeo さんの深い場所にある否定の意思, そしてもう一つ付け加えるならば Takeo さんの非常な繊細さと優しさからも受け取っているのです. おそらくそのような泉から湧き出てくる Takeo さんの美への感覚や引用される詩の一節などは私にとても大切な感情や思索を与えてくれています.

      私の文章力の拙さから纒まりが付かなくなりそうなので一旦区切ります.
      もう少し書けそうならまた続きを書きますね.

      今日も温かい一日になるようです. このような気候はありがたいです.

      Takeo さんにとってこの一日が平穏で豊かなものになりますように祈っております.

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    6. こんばんは、底彦さん。

      返信のメッセージをありがとうございます。

      これは全くわたしの独自の見解ですが、
      >「現実と向き合う」「社会の役に立つ」「他人に迷惑を掛けない」
      これらの言葉を科せられた義務と感じ、またそれを不当な圧迫であると感じるのは、或いは、底彦さんご自身の中に、これらの言葉に一定の価値を認めているという逆説が潜んでいるのではないかと思うのです。つまりそれらから自由になりたい、または、人間はもっと自由で自律的であるべきという、底彦さんの内側に芽生えつつある新たな価値観と、かつて底彦さんが刷り込まれた旧来の価値観との間(はざま)での相克が今の底彦さんの気分の根底にあるのではないでしょうか。



      「現実と向き合う」「社会の役に立つ」「他人に迷惑を掛けない」

      これらの価値観は、現代人の多くにとっては、まったく疑問の余地のない自明の事。
      今更「義務」であるとかないとかいうことすら珍妙に感じられるほど、社会人として、疑う余地のない価値であり、存在の在り方として内面化されているのではないでしょうか?

      >本当にこれらは私たちに要求されて良いことなのでしょうか. 考えていくとわからなくなります.
      寧ろ相当に偏った無理であって, 決して個々人が果たすべきことではなく, まして強制されるべきものではないという思いのほうが強くなってきています.

      このような考え方を、こんにちでは「反社」というのでしょう。そして「際立った独自性」というものも、わたしに関していえば「反・社会的」であることと膚接しています。

      これら、深い検証を経ずして、疑うべきではない価値とされていることに疑問を持ち始めたということは、底彦さんの進歩であり、また深まりであるとわたしは評価します。

      じゃあ人に迷惑を掛けてもいいというのか?社会に貢献しなくても構わないというのか?現実を見ないでどうやって生きてゆくのか?という反論は容易に想像がつきます。
      けれども、それは反駁にはなり得ない。何故なら、「人に迷惑を掛けない」の対概念が「人に迷惑を掛ける」ではないし、社会貢献という曖昧な言葉が厳密には何を言っているのか多くの人にはわかってはいないし、同じく「現実を見る」のアントニムは「現実を見ない」ではない。そもそも「現実」とは何か・・・

      先の投稿「社会の家畜或いは与えられるだけの人々」で、触れたかもしれませんが、
      多くは、社会が投げ与えるこれらの空疎な惹句を疑いもなく鵜呑みにしているだけではないでしょうか。

      プリーモ・レーヴィが、「寧ろ恐ろしいのは一握りの権力者ではなく、疑うことをせず彼らに付き従う大衆である」と言っています。

      哲学というもの、読書するということは、本質的に反・社会的な行為であることは、例えばブラッドベリの『華氏451』や『1984』などでも明らかです。
      いまそこにある現実、現状を追認するだけの思索は哲学ではない。曲学阿世の徒の他愛のない言葉遊びに過ぎません。言うまでもなく哲学とは「批判的思惟」の謂いです。



      >Takeo さんは世界に対して, 時に憎悪とすら感じられる程の強い否定の意思を持っているように読み取れます. それは例えば権力や制度に対する叛逆というようなものでは無く, より根源的な何かのように感じます.

      仰る通り、単なる政権批判や社会の仕組みへの反発にとどまらず、社会への憎悪まで高められている。この根の深いペシミズムが何に起因するのか、それはわたしにも不明です。

      わが病の
      その因るところ深きを思ふ
      深く且つ遠きを思ふ 

      啄木のヴァリアントですが、これがわたしの気分です。



      底彦さんは二階堂奥歯の眼差しと、それによって構築された世界を「感覚の論理学」と名付けた。
      いみじくもそれはわたしにも共通していて、底彦さんの呼称を借りるならば、「感覚の倫理学」と言えそうです。
      現時点でわたしがいえることは、わたしの眼差しにとって、「世界は醜い」ということ。それがわたしのペシミズムの基盤になっていることは間違いのないことだろうと思います。

      「論理学」と「倫理学」、何が違うのかといえば、わたしは醜さを「悪」であると感じているからです。美の信仰者として。

      但し、人は残念ながら自らが作り上げた世界の中でのみ生きるということ、即ち、厳としてある「外界」を捨象して生きることはできないということ。そこにわたしのそしておそらくは二階堂奥歯の苦悩の源泉があります。

      しかしオルタナティヴな生き方を模索することは決して無駄ではないと思います。

      このことについては、またお話したいと思います。

      有意義な話が出来たと思っています。

      このまま暖かい日が続けば・・・とは言わないまでも、少しでも過ごしやすい日が多いといいですね。

      底彦さんも、安らかな夜を過ごされますよう。












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