昨日、Junkoさんの「書き続けること・・・」に頂いたコメントに対して、まったく満足のいく返信ができなかったことを先ずお詫びします。
最後の部分に書いてくれた、前の投稿に使ったモノクロ写真についての感想にも触れることが出来なかった。「アンタイトルド」(無題)という写真を気に入ってくれたと。
ああいう投稿もちゃんと見てくれているんだ、とうれしい思いです。
往々にして「追伸」や、「あ、それから・・・」と、付け足しのように書き添えられている数行のくだけた文章に、書き手の人となりが垣間見えるいい感想を聞くことは、よくあることと思います。
現在は自分の文章を綴ることが精一杯で、頂いたコメントに充分な返事ができません。
原因は、この異常な疲れ。今日も午後からのデイケアに参加して、そのあと参加者と30分ほど話しましたが、帰って来て非常に疲れました。何度も書いているのでご存知でしょうけれど、わたしがデイケアに通っている病院は家から徒歩10分圏内です。
疲れるのはデイケアに参加した時だけではなく、最近はどこにも行かず、何もしていないのに、常時疲れている感じです。母は、目が見えないせいだ、といいますが、本当にそれだけなのか?それが主たる原因であるのかは他の科に掛かること、内科で血液検査などしてもらうことを「怖れている」ので、原因の特定は困難です。
昨年末に「家から出てゆく」の何のと書きましたが、そのことに触れていないのは、現在弟が、わたしの状況を見て、ひとまず、戻ってくるということを考えないでいてくれていること、(そのため、月々の家賃が支払われるわけですが)加えて、わたし自身、また母の体調が芳しくないことも併せて、「出る」「出ない」より前に、目前に迫る(母とわたしの)「滅び」という感覚が強くなっているということだと思います。
本日のデイケアのプログラムで、例によって、最初に「名前と、ひとこと」があり、今日の一言は、このプログラムが今年初めてということもあって、
「月並みですが皆さんの今年の目標を」
「アルバイトを始めたい」「就労を目指したい」「作業所2年目なので、このまま続けられるように」「いろんな意味で、スタートの年にしたい」などの意見が出た中、わたしは、まったく「明日」のことさえ分からない、見えないので、「今年は・・・」などということは言えないと、今の率直な気持ちを伝えました。仮に「可能であるか不可能であるかはとりあえず措いて、希望や夢などはありますか?」と訊かれても、'Unreachable Star' 「届かぬ星」「見果てぬ夢」について語ることは余りにも悲しい。更に言えば「寝言は寝てから言え!」ということ。
尚、今日のデイケアは久し振りに「集団認知行動療法」。
昨年末に書いたように、ある参加者から、「認知(行動)療法というのは、こういうものなんだから、あなたがいくら異議を唱えても仕方がないんだよ」と言われ、その通りだなと深く納得し、それ以来出席しなくなっていましたが、今日のテーマが、「適応的思考」ということで、「現代社会に適応しないこと」をアイデンティティとしているわたしには、他の参加者が、「適応すること」についてどのような意見を述べるのか関心があったので久し振りに顔を出してみました。
そのことについては改めて書こうと思っています。
疲れているとはいえ、半分上の空のような返事をしてしまったJunkoさんにはあらためてお詫びを。そして今後のことはまったくわかりませんが、今の状態では、コメントを頂いても、昨日のような結果になるであろうことを改めてご理解ご容赦ください。
それでも、コメントを読むことはいつも楽しみにしています。
Takeoさん、こんにちわ
返信削除こうして、わざわざ私にお詫びの文章を書いてくださる、
その細やかなお心遣いこそ、今の社会に欠け始めているものであり、同時にTakeoさんがどうしてこの今の世に生き辛いのか、その一端を物語っているようにさえ感じます。
生来の繊細さややさしさを有するが故、いろいろな事に気付き過ぎると、気付いてしまったこちらが逆に苦しくてなったり辛くなったりします。
私もTakeo さんほどではないにしろ、同じような思いを始終していますから、分かります。
私の思い過ごしかもしれないのですが、こちらとしては感じてしまうわけだから、それに対する自分の反応を処理しないといけない訳で、、
切り株を見た時の猛烈な怒り、山火事で焼かれた木や動物たちの事を知った時の猛烈な憤り、私の厭世感をかき立てます。
一時、鈍感だったらどんなに楽だったろうか、などと考えたこともありましたっけ ははは
でもね、こと私に関してはご心配はご無用です。
いつもTakeo さんが書いてくださっているので、Takeo さんの状態はわかっていますし、そんな私が想像するに難い状況であるにも関らず、こうしてお返事を丁寧に書いてくださっているのが、行間から伝わって来ますから、それで充分ですよ
今日もこちらは良いお天気です
気温は下がりましたが、お日様が出てるうちはその冷たさが気になりません
Takeoさんこそ、お気遣いをありがとうございました
こんばんは、Junkoさん。
削除親切な返信をありがとうございます。これまでも書いたように、わたしのブログでは、3人のコメントも、その重要な一部なのです。決して、本文の付け足しではなく、独自の意味を持っています。それがちゃんと書けないということは大きなことです。
とはいえ、書けないものを無理して書いてもそれは本当に「下手な考え休むに似たり」になってしまいます。
体調に伴って、気分もよく変わります。
Junkoさん、ふたつさん、底彦さんには、これまでも、メンバー制にしたり、「あちら」にブログを移した時にも、お手数をかけています。
ブログをまとめたことも、これでよかったと確信を持っているわけではありません。
単純に『ぼく自身・・・』の方が読者が多かったから、という馬鹿々々しい理由でまたぞろ3人を振り回すことになってしまいます。
わたしは決して、どこまでも3人がついてきてくれるだろうなどと高をくくっているわけではなく、逆に、今は少し自棄になっているところがあります。
Junkoさんも、ふたつさんも、底彦さんも、今後はますます付き合える範囲でお付き合いください。
今日は東京は雨もよいの天気でした。
わたしはよく「寒しい」(さむしい)という言葉を使います(苦笑)
いずれにしても、今は身も心も自分で持て余しているという状態です・・・
Ciao Takeoさん
返信削除寒しくても、元気がなくても、元気でも、楽しくても、暗くても、落ち込んでいても、少し高揚していても、その時のTakeo さんそのままでいてくれればいいのです。
私は、そう言う、Takeo さんを取り巻く空気ではなく、Takeoさんの本質を少しわかっているように思いますから、それで私のTakeoさんに対する思いが変わることはありません
友情とはそう言うものではないかと考えます。
私たちは、周りの人たちにどう映るか?と言う事を心配するよりも、まず、ただ自分自身であればいいのだと思います。
それで、周りの人が、そう言う私たち自身を受け入れるか、受け入れないか?は 相手次第、私たちには関知できない範疇です。
そもそも、他者に自分の思い通りにいて欲しい、振舞って欲しいと望む人人こそ、自分たちのその願望に極めて不誠実なもので、まさに女心と秋の空の方が、よっぽど誠実だと思えるほど、( 注釈: 大体、女心が変わり易いなど誰が言ったのでしょうね、この言葉を言ったのが男性である事は火を見るより明らかで、笑います)
つまり、そう言う人人の好みなど、風見鶏のようにくるくる変わり、それを尊重しようとか、彼らの願望に添おうなどとしようものなら、風に舞う落ち葉の如く振り回されて終わります。
言いたいことは、
私も、そして多分ふたつさんも底彦さんもTakeo さんの本質を多かれ少なかれ理解していて、だからこそこうして、Takeo さんと交流を続けているのだと思います。
人間ですから、いつも最高の状況。なんてありえないでしょ。
お天気だって、雨あり、晴れあり、風が吹いたり、暑かったり、寒かったり、お日様が出てたり曇ってたり、だから人間だって同じこと、それが自然というものじゃあないでしょうかね
少なくとも、私において言えば、私の思惑などは気にせず、Takeoさん、そのままでいれば良いのです。てか、いてください
大体無理して明るく振る舞う、無理して笑う。そういう方が私は苦手です。
大半のブログの、版で押したような、退屈な美辞麗句(彼らは、書かれていることに絶対に反論しません、) 凄いですねえ、とか、そうですよねえ、とか 酷いものなると、流石、、なんとかさん。
印刷しただけで、手描きの文字が一言もない年賀状、そんなものをただの儀礼だと言うだけでもらいたくない私は、そんなのなら出さない方がいいとそう思いますが、それと一緒です。
私は、そこに書かれたコメントをも含めて、ブログが多くを語り始め、ブログの深さが増す。と考えていますから、そう言う意味でTakeo さんのブログは貴重で興味深いです。
近所の農園に豚の子供が7匹産まれました。
今日、散歩をしていたら、牛が空き地で草を食んでいて、そこに子牛が1匹
まだ産まれたばかりらしく、おぼつかない足取りでお母さん牛の周りを歩いています。
こういう時、それを見ている私の目が心が洗われる気がして、命は美しいなあとつくづく思います。
それに比べて近代的だ、流行だともてはやされるものの醜さよ。
うんざりします。
こんばんは、Junkoさん。
削除とはいえ、やはりわたしも世の中を高みから見下ろすような境地には至っていませんので、読者、特に、Junkoさん含めた3人の目にどう映るかは気になります。
けれども究極のところ、「そして誰もいなくなった」という状況になっても、やはりわたしは書きたいように、言い換えれば「心の赴くままに」書くことでしょう。
その上で、なお、わたしの書いたものに共感してくれることが一番の歓びであることはいうまでもありません。
「女心と秋の空」、昔、TVだかラジオだかで、これは本来は、「男心と秋の空」であった、というような話を聞いたことがあります。わたしは「男心と秋の空」でもちっとも構いません。ほんとうにわたし自身気分屋ですし、怒りっぽいし、寂しがり屋だし文句言いだし、完璧主義者だし・・・
Tumblrでも同じですが、読者、或いはフォロワーの動向に一喜一憂する自分を顧みてつくづく、「孤高」とか「高踏」などとは縁遠いなと感じています。
それでも、Junkoさん、底彦さん、ふたつさんがどう思おうと、これは自分で書きたかったことであり、それなりに書けていると感じているものも皆無なわけではありません。最近はダメですけどね。やはり満足が行くのは、人に褒められること以上に、自分が納得できるかどうかです。
ブログって、本来はSNSとは違った、ある意味で、対極にあるようなメディアであると思います。SNSに比べて、ブログ人口が少ないのは、ブログの方が、本来高度な自己表現と、コミュニケーションの場であるからではないかと思います。
書き手はもちろん、コメントをする方も、考えなければならない。面倒くさいメディアではあるんです。
Junkoさんの言われるように、今はブログもSNS化してきているというのか、同調ばかり目につきます。
そうですか、近くに農園があるのですか、子豚、かわいいでしょうね。豚がいて、牛の親子がいて、やはり自然は素晴らしいですね。
昨日底彦さんのブログのコメントにも書いたのですが、わたしには、そういう花鳥風月、というのかな、それこそ、Junkoさんにムッとされそうですが、昔なら、「婦女子」(女子供)が好むようなものに心惹かれる傾向があります。
また一方で、辺見庸やエミール・シオラン、エロ・グロといった表現形式にも惹かれます。人は誰も多面性を持つとはいえ、わたしの場合、ちょっと極端ではないかと感じることがあります。
このブログで、わたしの中のその二面性が上手く活かされればと思います。
すがすがしいメッセージをどうもありがとう。
追伸
またメールからの転載になってしまいましたね。お手数をおかけします。