「孤独死」とは、果たして「誰にも看取られず」「誰も傍にいない場所で」死ぬことだろうか?
死刑囚(昭和42年に33歳で処刑)島 秋人の歌集『遺愛集』を読みながら、
真の孤独(死)とは、自然と(そして自己から)隔てられた状態での最期ではないかと思ふ。
真の孤独(死)とは、自然と(そして自己から)隔てられた状態での最期ではないかと思ふ。
彼は獄の中でこのような歌を遺している。(下線Takeo )
◇
虫あはれいのちのかぎり鳴くさまを人は涼しきものとして聴く
いささかはさびしきことの生(あ)れ来れど晴れし秋空獄窓(まど)にたのしむ
ひげそらんと入りし室にほほづきのあからめるあり指に触れにき
手のひらのちいさき虫がくすぐりて死刑囚われに愛を悟(し)らしむ
昨日までなきゐし蝉の鳴かず暮れみじかきいのち終えたるらしき
やさしさのつきぬごとくに虫の鳴く獄(ひとや)に冴えてひとり愛(かな)しむ
明けやらぬ獄庭(には)に濡れつつ葉の影に藍の朝顔ひとつさきたり
雨の灯にかがやきゆるる獄庭の樹々は鮮かな若葉となれり
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自然とのふれあいの許されぬ悲しさも詠まれている。
仲秋の月を見たくて獄窓の曇ガラス濡らし拭きたり
月させどわが窓はみな磨ガラス濡らして拭けば光りややます
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彼の歌集を読んだ中で、わたしが一番好きな歌は、以前にも書いたが、
温もりの残れるセーターたたむ夜 ひと日のいのち双手(もろて)に愛(いと)しむ
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