ブログに関しては、書けない状態になっていると言っていいだろう。『ぼく自身或いは困難な存在』を、曲がりなりにも2年間続けてきた。その前の『Nostalgic Light』が2017年の冬から書き始められているので、この両者を合わせれば、3年間書いてきたことになる。
たしかにその間、いや、それ以前、2016年頃から「書く方」のブログに比重が移り、メインのアート・ブログは間遠になっていた。
当時から1万人以上のフォロワーを持つブログを等閑視しても、書くことを、自分の内面を言葉にすることを選んだ。
今は再びアートに情熱が傾いているのかというと、決してそうとは言えない。
今は書くこと同様に、絵を選ぶこと、写真を渉猟することにも少し倦(う)んでいる。
「思索し」「書くこと」・・・これも「今年になってできなくなったこと」に連なるのだろうか?
これ以上「できなくなったこと」が増えれば、それこそ「寝たきり」の状態と実質的には変わらなくなる。片目が不自由であることも一因ではあるだろうが、その治療とても楽観はできない。幸いまだ(完全な健康な目ではないにせよ)右目は見えているのだから、書くことを続けたい。
◇
一昨日の夜、次の日に、読まずに図書館に返却するつもりだった辺見庸の『純粋な幸福』を数ページめくってみて、そのまま小一時間ほど読んだ。昨日返却はしなかった。
「ぼく自身・・・」の最後に書かれている「何のために書くのか?」は、出版社への手紙である。具体的には「毎日新聞社」。あれを読んだ担当編集者から、翌日電話があり、約20分ほど話したことは、前にも書いただろうか?
今回の『純粋な幸福』はもとより、以前から特に愛読していた辺見庸の何冊かの本の編集を担当した、わたしと同世代か、ちょっと年上か、という男性の話に納得したわけでも、辺見庸に対するわだかまりが消えたわけでもないが、編集者の「言い訳」とは別に、『純粋な幸福』は読んで損はないと思った。
辺見庸はいってみればわたしの中でエミール・シオランと同列の扱いを受けるようになったのだ。
人間として心酔は(最早)できないが、書いてあることには惹かれるし、肯くところが多い・・・と言った作者に。
やがて気づく。女といい男といい、客らの面差しの似たようなきれいさ、ある種の規格どおりの端正さに。声音と口ぶりの、まるで同じ音譜を謡うような共通の調子に感心し、少し戦(おのの)く。が、顔や声とはかつて、もっと各人各様の凸凹と輪郭があり、それぞれに尖ったり、凪いだり、時化たり、決壊するものではなかったのか。
(中略)
ふといぶかる。その昔、ひとはなぜ老け顔をしていたのか。まだ十代、二十代なのにすっかり老成したかのようにふるまい、「存在の証」についてしかつめらしく弁じたりしたのか。なぜそうできたか。逆に、いまはなにゆえこんなにも若者が幼くみえるのか。人という実在はきょうび、なぜ、かほどに希薄なのか。携帯電話で動画を視ている人がつぶやく。「これなついよね」。なつかしいということらしい。音のかろみと乾きに、急に気疎(けうと)くなり、身内に深々(しんしん)と古錆びのような疲れが湧く。
ー辺見庸「馬の中の夜と港」『純粋な幸福』(2019年)より(太字、本書では傍点)
このあたりの描写は従来の辺見庸のままだ。もっともブログの方は、完全に変わってしまったけれど。
これ以上、日常が崩壊してゆくことを怖れる。日常の崩壊と人格の空洞化は同義だ。
しかしそれを押しとどめる妙案があるわけではない。気疎い日々を、「気疎い」と書き続けられることを願うだけだ。
Ciao Takeoさん
返信削除言語学と言うのを勉強したことがあります。
そこでは、言葉は日々変化していくものだと定義づけられていました。
しかしながら、私は私が実に味わいと趣のある美しい言葉だ( だった?)と認識している日本語がこうして壊され、どんどんチャチになっていくのを見るに忍びないのです。
それは、山や街にある木がどんどん伐られて行く時の、昨日まであった緑の代わりにおぞましいコンクリートの箱が建てられていることを発見した時の、私の身を斬られるかのような喪失感、痛みに似ています。
言葉は文化であると思っていますが、ごく表面的なことしか伝えることの出来ない極めて浅くてチャチな語彙で、どうしたら長い年月をかけて育まれた、深くそして粋で細やかな文化を伝えていけるのか、甚だ疑問です。
人々自身もこうしてどんどん幼く表面的でチャチになって行っている気がします。
電車の向かい側に列を作って座り、猫も杓子も下を向いてスマホを操作している、その空虚な表情にその様がまざまざと見えています。
もはや、どうやって、どんな言葉で自らの思いを伝えようかと葛藤することなく、何を語るにも簡単な単語と顔文字で、指先一本であらゆる思いを簡単に飛ばして終わる、そういった人々の感性を疑います。
こうして言葉を端折っていれば、脳も衰退するでしょうから、その呆けが顔に出るのは当然の帰結です。
人は浅くなればなるほど、痛みも悲しみも切なさも感じなくなるでしょうし、万が一感じたとしても、その思いを抱えて悩む、その時間はますます秒単位に短くなって行くのでしょう。
なんたって、明るくないこと、楽しくないことは嫌いなのですから、、。
それが彼らが彼らの人格やら個性やらを深める事を阻止していると思っています。
畑を耕すのに、鍬を入れると畑は痛いと感じるのだと思っています。
ですから、苦しみや悲しみ、切なさを深く味わう事なしに、つまり痛い思いを味わずして、人は深く、豊かに熟すことはない。
今のスマホピープルの顔を見ていると、大地の土の匂いも草の匂いもしない、おぞましい、そして悲しいほど画一的な、慈雨の雨さえ取りこまないアスファルトのようです。
つまり
逸見さんが書いているように、
> 客らの面差しの似たようなきれいさ、ある種の規格どおりの端正さに。
人々は、(あくまでも私からするとですが)こうしてどんどん個性を無くし、その人らしい顔を持たなくなってきているように感じます。
そうして、人は何々さんと言うアイデンティティを主張することなく、ただの数になって行く、これもまた時代の流れだと言って済ませていいものか?と考えます。
今や、飛行機が堕ちても170人あまりの人間が、と一言で済まされる
その170人あまりとは、名前と家庭と仕事とそれぞれの性格を有する一人一人から成っていると人は考えなくなっているように感じます。
まあ、彼ら自身がスマホという非可視化の壁の裏に潜みたがっているのですから、当然の結果かもしれませんが、それでも私は子供の時に暮らした下町で、お向かいのおばさん、おとなりのご夫婦、裏のお姉さん、奥の家のお婆ちゃんとそれぞれがきちんと顔や人格を持っていた日々を懐かしく思います
木や布などの自然素材は、使いながら年月によってその様相を変えていき、「使いこなされた」味わいを増していくものです。
私がプラスチックを嫌悪するのは、
プラスチックは日々、汚く壊れてかけて行きますが、使いこなせない。
私は随分前から、日本の文化、日本の人々にプラスチックを重ね合わせています。
いつも「不自然な」くらいピカピカでつるつる、「新しい」「きれい」な振りをしています。
> 日常の崩壊と人格の空洞化は同義だ。
崩壊と言うよりも、日常もまた空洞化しているのではないでしょうか
そして人間自身も空洞化、そしてそれによって崩壊したのは個性やら人間性ではないかと、、。
みんなお手軽、スナック菓子化、コンビニ弁当化してますよね
だから、私は私の考えるところに在るべき姿を保つ自然やら木々やら動物やらを見ていた方が、遙かにほっとするのです。
下の「タイトル」の写真
いいですねえ
車の往来の中で、すっくと足を踏ん張り、顔をしかめて車の流れを睨み付けている老齢のご婦人お二人に私自身を重ね合わせました。
こんばんは、Junkoさん。今日は日本では「成人式」でした。ご存知のように、成人の日は1月15日ですが、週の中ほどにある祝日は殆ど月曜に持ってきて、3連休になっています。これも伝統を軽んじる日本特有の「文化」の表れでしょう。
削除今の二十歳は、どの程度ちゃんとした日本語を読み・書き・話すことができるでしょう。最近は本当に短い文章でもおかしな言葉遣いを結構見かけます。
わたしがフェイスブックを去る直接の契機になったのは、数年前、ヨーロッパでテロが起きた時に、それは日本人ではありませんでしたが、コメントの代わりにずらりと並んだ、泣き顔の顔文字。言葉、コメントは一切ナシ・・・
言葉にとどまらず、今の社会はそれこそ日進月歩で退化しているように感じます。
日本独特の「以心伝心」というのもあまり好きではありませんでしたが、スマホピープスには「以心伝心」なんて芸当は到底望めません。
彼らは言葉も満足に使えないし、また、沈黙を以て相手と通じるなんて高度な技ができようはずがありません。
今の若者って本当に幼いですね。30代でも小学生くらいにしか見えない。
>ごく表面的なことしか伝えることの出来ない極めて浅くてチャチな語彙で、どうしたら長い年月をかけて育まれた、深くそして粋で細やかな文化を伝えていけるのか、甚だ疑問です。
伝えてゆく以前に、言葉を知らないと、現在に取り込まれるしかないんですね。
つまり、「これはおかしいんじゃないか?」と思考するのも「言葉」によってですから。
同じような顔をして、同じような言葉で書く、話す。それは何も若者に限られたことではありませんが。
人間一人一人の個別性については、また改めて書こうと思っています。
今回はコメント、反映されましたね。いつもメールと二本立てでお手数をかけます。
メッセージをありがとうございました。