あるサイトに登録して、そこでの自分のコミュニケーション能力の余りの低さに今更ながら愕然としている。
正に
先日の底彦さんのコメントのような無知・一般常識の著しい欠如・・・
冒頭のようなことを書きこんだら、40代前半の女性から
>理解出来るようにちゃんと伝えてないことない?
というコメントがあった。正直このコメント自体が何を言わんとしているのか、分からない。
わたしの言葉は一体誰に通じているのか?
全く誰にも通じていないのではないだろうか?
だから誰にも相手にされず、小馬鹿にされるだけなのではないのか。
わたしや、底彦さんのデイケアの友人たちは、実際に紛れもなく「劣って」いるのではないか?
「使えない」「ダメな」「落ちこぼれ」で、底彦さんの感懐は、冷酷な、そしてあからさまな現実、事実、真実を伝えているだけなのではないか?
わたしは心のどこかで、そのような「現実」「事実」そして「真実」が、自らのものであるということから目を背けたいのではないか。認めたくないのではないか。しかしネット上であっても、人と交われば厭でも自分の無能力、無価値を思い知らされる。認めないわけにはいかない。
こんにちは。
返信削除『理解出来るようにちゃんと伝えてないことない?』
これを言った人に聞いてみればわかると思いますけど、その人は、Takeoさんのことを無能だと思っていないということです。
その人は、「人間の能力や努力」を信じていたいんだと思いますよ。
つまり、『自分には出来ないことがある』ということを見たくないんだと思います。
少なくとも、その人は、自分が自分ではどうすることも出来ないほど困った状態に成ると言う状況を、想像するのが嫌なんだと思いますね。
もちろん、その人だって、『人間には出来ないこともある』ということはわかっているでしょうが、「その出来ないこと」は、あくまで「難しいこと」や「みんなが出来ないこと」であって、「それが出来なくても困らないこと」の範囲であってほしいんだと思います。
そして、Takeoさんに、コミュニケーションに関する問題を提示されたことで、そのことを見せつけられることを嫌っているということです。
これは、ほとんどの人が嫌います。
実際には、おそらくTakeoさん自身も、それを嫌っているという部分はあると思います。
ただ、結果として、『自分にはだいたいのことが出来る』と思おうとするタイプの人と、『自分には何も出来ることはない』と思おうとするタイプの人に分かれるということじゃないでしょうか?
『「使えない」「ダメな」「落ちこぼれ」で、底彦さんの感懐は、冷酷な、そしてあからさまな現実、事実、真実を伝えているだけなのではないか?』
これを言うならば、「人間全般の能力」についての事実であり真実であると思いますね。
「言葉全般の能力」ということも出来ます。
つまり、「人間」と言うものが、「その程度」なんだと思いますよ。
その「その程度」の中途半端さを受け入れるのが嫌なので、『だいたいのことは出来る』もしくは『何もできない』のどちらかに極化しようとするんじゃないでしょうか?
これは、世の中がこの100年間ほどかけて、ずっと刷り込み続けてきた『普通であってはいけない』と言う絶対的な規範の結果だと思います。
『特別であれ』という至上命令が100年間与えられ続けてきましたから、現代人にとっては、その命令はすでに、常識でもあり、圧倒的な説得力を持った逆らえない力を持っていて、逆らえば、必ず排斥の憂き目を見ることに成ります。
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※ぼくは、これを最も強烈に刷り込んだのは「芸術の20世紀」だと思っています。
だから、それを喪失するという方向性でやっています。
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現在、どんなものであれ、中途半端なものは嫌われます。
普通だからです。
一見すると「普通のモノ」が最も受け入れられているように見えますが、それは「本当の普通のもの」ではなく「一般的なもの」です。
「一般的なもの」とは「数が多いもの」です。
つまり「最も数が多い」と言う極にあるためにそれは受け入れられているわけです。
当然「最も数が少ないもの」もそれなりに受け入れられますが、それは「奇をてらったもの」に限られます。
今、本当に最も数が少ないのは、「普通のもの」です。
でも、「普通のもの」はすべてが違う「普通のもの」なはずなのに、その違いは区別されませんから、「全ての普通のもの」がひとくくりにされてしまうので、中途半端に数が少ないものに分類されてしまうわけです。
だから、「奇をてらったもの」だけが「最も数が少ないもの」として認識されているわけです。
逆に、どんなものであれ、極端なものは完全には否定されません。
少なくとも、極端なものには否定側と肯定側が、ある程度は両立してきます。
中途半端なものは、ほぼ完全に無視されます。
つまり、否定すらされません。
要するに、、世間から嫌われるとは、そういうことです。
もしも、ごく一部の人に支持されたとしても、それが「肯定派と否定派」という対立に発展することはありませんから、そのうちに消えてしまうわけです。
強く否定されるということは、何かが極端だということです。
そうでなく中途半端であれば、無視されているはずです。
ネット上で、否定が返ってくるとすれば、無視されなかったということを意味します。
インターネット空間は、非常に希薄な空間ですから、そこから帰ってくる反応は常に「0」に限りなく近い薄められた情報です。
だから、何か反応があるとすれば、それは実際には10~100倍の反応だと思ってもいいと思います。
いずれにしろ、どう頑張って拡大解釈したとしても、底彦さんやTakeoさんが無能と言うのには無理がありますし、それでは本当に重度の脳障害などから、物事を理解するのが困難な状態の人たちやそのご家族などは、どうすればいいのか?という問題が出てきます。
いくら、Takeoさんが、そういう人たちを低く見ていなくても、いや、むしろ、崇高な存在と考えていたとしても、そういった状態にある当事者(家族なども含めて)からすれば、Takeoさんや底彦さんが無能であると言われてしまえば、自分たちはそれ以下ということにしかなりません。
やはり、出来れば、自分が、『わかることもあれば、わからないこともある』という中途半端な状態にあるということを考えてみてもいいのではないかと思います。
それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除今日は母の具合が悪くて、Junkoさん、底彦さんへの返信も、どこか上の空になってしまっているかもしれないと申し訳なく思っています。
底彦さんには何か失礼なことを書いたのではないか、それは前回から続いているのではないか?
Junkoさんのメッセージは、ジャック・ブレルのベスト・ウィッシェズに掛けて、
わたしに対するMay you...を連ねてくれたのだと、今頃気が付きました。
おふたりに、そしてもちろんふたつさんに、いつも見守ってくれていること、それを言葉で伝えてくれていることに変わらぬ感謝と、わたしの不調法をお詫びします。
◇
>『自分には出来ないことがある』
これは本文の冒頭に書いたように、先ず、人とのコミュニケーションです。
ふたつさんも、わたしがここのところ、執拗に、「言葉が通じるとはどういうことか?」ということに頭を悩ませていることをご存知だと思います。
これは以前にも書きましたが、わたしは切実に「出逢い」を求めています。
けれども出逢いが発展するためには、やはりコミュニケーションの能力が必要です。
このサイトでも、またフェイスブックで時々覗く出会い系(?)サイトでも、皆出会いが無いとボヤいています。けれども少なくとも、ディスプレイ上でそれらの呟きを見る限り
>「それが出来なくても困らないこと」の範囲で
困っているようにしか見えないのです。
確かにいくら切実であっても、相手あってのことですからひとりでどう足掻いてみてもどうしようもない。
わたしの場合、「相手あってのこと」という以前に、それを「自分の問題」として見てしまいます。つまり自分に欠陥があるから、と。
◇
以前からのふたつさんのキーワードでもある「普通」≠「多数」ではないという発想は
そものも「普通」イコール「みなとおなじ」であると考えるわたしのような人間にはわかりにくいところがあります。いえ、理解できないとか、同意しかねるということではなく、一般的な通念を覆す考え方なので、難しい、ということです。
>つまり、「人間」と言うものが、「その程度」なんだと思いますよ。
その「その程度」の中途半端さを受け入れるのが嫌なので、『だいたいのことは出来る』もしくは『何もできない』のどちらかに極化しようとするんじゃないでしょうか?
この部分はわかる気がします、というか、そうだろうな、という感想です、わたしは、「何もできない」という方に持って行きたがりますが。
◇
ふたつさんは、わたしという存在をこの考え方に当てはめれば、どのように位置づけていますか?或いは位置づけられると思いますか?
言うまでもなくわたしは奇を衒っているつもりはまるでありませんが、「極端な性質・性格」の持ち主だと思います。
それは底彦さんもJunkoさんも否定しないと思います。
また
>中途半端なものは、ほぼ完全に無視されます。
つまり、否定すらされません。
だとすればわたしは「中途半端」な人間ということになりそうですが、そして確かに「中途半端」な面もたっぷり備えていますが、やはり極端な人間、と言った方が近い気がするのです。ひとつにはわたしには「中庸」ということがもっとも苦手であるということもあります。「すべてか無か」「ゼロか100か」
「中庸」=程の良さ、腹八分目、バランス感覚ということがありません。(できません)
>やはり、出来れば、自分が、『わかることもあれば、わからないこともある』という中途半端な状態にあるということを考えてみてもいいのではないかと思います。
わたしにはふたつさんの言われる「中途半端」という言葉が「中庸」と同義語に思えて仕方がないのですが、そうではないのでしょうか?
そして、繰り返しますが、ふたつさんの目には、わたしは、「極端」「一般的」「普通」「中途半端」のうち、どのように映っているのか知りたいと思います。
また底彦さんは無能ではありませんし、重度の知的障害の方たちも「無能」という言葉には当てはまらないと思います。
何がどう違うのかと訊かれても、説明することは非常に難しいのですけれど・・・
お返事だけは確かに中途半端なことしか書けません。これが今のわたしの限界のようです。
誠実なメッセージをありがとうございました。
こんにちは。
返信削除まず、『言葉が通じない』ということについては、ぼくの考えでは、「言葉自体の問題」だと思っています。
つまり、「言葉」が、、ぜんぜん『足りない』んですね。
だから、厳密な意味で通じる言葉は無いと思います。
しかし、それが通じていると錯覚したい人が多いので、そういう方向で解釈されている場合が多いということでしょう。
人間は、だいたいのことを、自分が思いたいように思いますから。
でも、Takeoさんは、それを自分に許さないところがありますよね。
それで、その許さない部分を追求していくと、どんどん話が長く成るわけですが、もともと「不足」のある手段である「言葉」を使って、それを積み重ねていくわけですから、どんどん通じなくなるわけです。
「A=A」
ここまでが、言葉の限界です。
それを、
「A=B」→「B=C」→「A=C」とつなげていくのが、理論であり、すべての話の原型に成っているものだと思います。
しかし、AはAであってBではないわけで、「A=B」の段階で、もう、すでに矛盾がありますから、すべての話は成り立っていないというのが本当のことだと思います。
そこにある錯覚を、自分と相手に許せば、話が通じているという錯覚の中に身を置くことができます。
あくまで、錯覚ではありますが、それで満足できない場合は、「言葉」をはるかに上回るような伝達手段を人間が獲得するまで待たなければなりません。
しかし、もしかしたら、その理想的な手段が生み出してくれる喜びと、「言葉」が生み出す喜びには、大差がないかもしれません。
まぁ、そんなことで、一般的には話が通じているということに成っているんじゃないかなと思いますね。
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「普通」については、ぼくの解釈では、『普遍的に通じること』を「普通」と考えています。
『読んで字のごとし』ですから、常識を覆すような考え方ではないと思いますよ。
「一般的」は「数が多いもの」だと思っています。
つまり、「いま」に限って言えば、「一般的なもの」が「普通のもの」でもあるわけですが、「普通」には、時代を超えた「普遍性」も含まれていると、ぼくは考えているわけです。
だから、10年後には「普通」でなくなってしまうものを「普通」とは言わないと思うわけですね。
10年前には「普通」でなかったものも同じです。
だから、例えば、「スマホ」は「普通」ではなく、「いま」に限っての「一般的なもの」であると考えるわけです。
どんなに「逸脱したもの」であっても、一時的に流行すれば、その時点で「一般的」に成りますが、それはあくまで「逸脱」であって「普通」ではありません。
だから、「爆発的に流行したもの」に限って、ブームが去った後に成ると『なんであんなものが・・・』ということに成ったりするんだと思います。
そして、さらに「現在」の特殊性が関係してくると、その「逸脱」と「普通」が逆転してしまうことに成ります。
つまり、「最も普通のもの」が「最も数の少ないもの」に成ってしまっているわけです。
ここにきて、「普通のもの」が、普通に存在していられることがあるでしょうか?
現在、普通に存在しているものは、ほぼすべて「ナニカが逸脱しているもの」です。
それとは逆に、「本当に普通のもの」が、ほぼすべて「逸脱したもの」であるという扱いを受けているわけですね。
だから、Takeoさんに限らず、どこかに「譲らない普通性」を持っている人は「逸脱者」として扱われてしまうわけです。
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他のことについては、かなり長く成りそうなので、また、次に書こうと思います。
それでは、また。
こんばんは。
削除「話が通じる」「言葉が通じる」ということの定義は困難です。一般的なブログのコメントのやり取りは、単に相槌を打っているだけのように見えますが、当人同士が「通じている」と感じているのなら、「そんなはずはない」とは誰も言えません。
そして現実にわたしだって、いろいろなブログやSNSのやり取りを見ていて「通じているのかな?」と感じることは殆どありません。
傍観者である分にはいいのですが、そこに自分も参加すると途端に話が通じにくくなります。
わたし個人は、自分を逸脱した特異な存在であると考えています。ひねくれてそう言っているのではなく、事実として。けれども、特異な者、異端、例外的な存在が少なすぎることに息苦しさを感じます。
昔からよく言われるように、「普遍的なもので個性的でないものはない」と。
ゲーテとか、エマソンとか、ニーチェとか、主にロマン主義的な考え方ですが、この考えはふたつさんの言うところと通底しているようにも感じます。
しかしわたしは気性として、一回性、特殊性という存在に拘ります。
いずれにしても、わたしはもっとふつうの話がしたいのですが、そうなるとまたぞろ、「普通ってなんだ」というところから始めなければならなくて、結局わたしはどうすれば満足するのか?それがわからないのです・・・
追記
返信削除例えばわたしは底彦さんのブログを読んで共感する。他にもいくつかのブログを読んで共感することがある。これは「言葉が通じていること」だと思う。たとえお互いに一言も「言葉を交わす」ことがなくても。
じゃあそれでもう充分じゃないのか?とも思う・・・
それ以上のプラスαってなんだろう?
Ciao Takeo さん、
返信削除そしてふたつさんのコメントにも言及させていただくので、ふたつさんこんにちわ
まずふたつさんが仰っている
> まず、『言葉が通じない』ということについては、ぼくの考えでは、「言葉自体の問題」だと思っています。
私はそうは思わないのですね
言葉が通じない。と言うことは互いの感性に大きな差があると言うことから発生すると思っています。
互いに感性が似ている、もしくは同じようなレベルの感性を互いに有する(高いとか低いと言うことではなく)
すると
> 言葉が足りない
と言うことにもならないのです、
一言って百伝わることが、そう言う両者の間ではしばしば起こります。
感性が似ている人の間では、その文字面よりも特別明らかに語っているわけでもないのに、その行間に漂うなにか見えない、そんな空気のようなものを嗅ぎ分けることができると私は考えます。
そして、そう言った感性の後押しがあるから、言葉がさらに命を孕み雄弁になるのだと思うのです。
実際、私の周りではそうですし、ですから考え方や感性の違う人と話す時に必要以上に言葉を尽くさなければいけない事、それでもわかってないだろうーなーと言う思いに疲れて、最終的にはそういう人たちとは、距離を置く羽目にしばしばなります。
逆に感性が似ていて、互いのことをよく理解しているといちいち説明などしなくて済むわけで、
この11月にわざわざ日本からお見舞いに駆けつけてくれた友人がいるのですが、彼女とはまさにそう言う感じです。
だから、一緒にいて全然疲れないし、心地よい。
それがTakeo さんが仰っている
> 共感することがある。これは「言葉が通じていること」だと思う。
たとえお互いに一言も「言葉を交わす」ことがなくても。
という事だと思うのですね。
そしてそういう人とは、敢えて話題を探す必要もない
なんてことない「フツーの話」をしていても、互いの受け答えが途切れる事なく、退屈することもなく、話が発展していく、
言葉はあくまでも言葉ですから
それは互いの思いや思考を伝えるためのツールに過ぎないわけで、
ツールですから、大工さんのカンナやノコギリ、画家の筆と同じく、その人のスキル如何で、低級にも上級にも駄作にも名作にもなるわけで、
そして今や、大半の人々が、このアホスマホに憑霊されて、ますますそのコミュニケーション能力を衰えさせられ、感性も麻痺させられ、ツールを使う能力にも事欠いている。
だからそういう人同士、もしくはそういう人との間に、満足のいく、興味深く、かつ誠実な話などできるわけがないと私は考えます。
普通でも、普遍でも、一般的でもそうじゃなくても、私はそういうカテゴリー別けがあまり好きではないので、なんでもいいやと思います。
誰がなんと言おうが、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いなのですから、、苦笑
元々「皆」に交わろうなどという気持ちは私にはさらさらないので、
どうして自分の感覚を曲げてまで、皆と頭を揃えなきゃ行けないのか?そっちの方が不思議です。
私から言えば、スマホなんかにも魂奪われる趣味の悪い、おばかさん(あくまで私の趣味において。ではありますが)なんかと付き合う気も暇もない。という事になります。
重ねて言いますが、会話とは感性がベースにあって行われるもので、普通の会話でも普遍の話題でも、そこに感性の流れがなければ、ただの文字、もしくは発音の羅列にしかなり得ない。
言霊という言葉
最近皆がこぞって言霊言霊と言うので、私は逆にあまり使わなくなりましたが、苦笑
思いのこもっていない言葉など、ただの騒音でしかないと私はそう思っています。
だから、通じているかな?などと言う考えが過ぎったら、概して通じていないのだと私は判断します。
もちろん、話しながら、これで相手に分かってもらえるかしら?と聴く側の立場に立って、内省しながら話す気遣いは大事ですが、相手が分かっているかいないか、顔を見ればわかると思うのです。そういう意味で、ブログなどの顔の見えないコミュニケーションは難しい部分があると思いますが、それでも私はどんな人でもその行間に漂うその人なりを感じることができるとある意味自負しています。
相手の書いている事をわかりたいと思って読むからかもしれませんが、、、。
言葉は使うけれど、感性で語り合う、理解し合う、それが理想の、真のコミュニケーションではないかと思うのです。
Takeoさんのブログが、コメント欄も含めて、非常に興味深いのは、皆さんがそれぞれの考えを誠実にそしてかつ真摯に伝えよう、そしてそれを理解しようという互いの思いがそこに流れている、からではないかと思います。
つまり、皆さんとても正直で、とてもやさしく、Takeoさんのことが好きで、takeoさんのことを真剣に思い、一緒に考えてようとしている。
その空気が、私には非常に心地よいのです。
Junko
こんばんは、Junkoさん。
削除頂いたコメント、やはりまた反映されませんでした。メールをチェックするのが遅れてしまい、申し訳ありませんでした。先日ちゃんと反映されたので、今後は上手くいくのかと思っていました。これからも、お手数ですがメールと併用(?)でお願いいたします(苦笑)
◇
>言葉が通じない。と言うことは互いの感性に大きな差があると言うことから発生すると思っています。
Junkoさんの意見はよくわかります。わたしも同感です。
ただ、例えばわたしのひとつの意見、ひとつの視点に対しての感じ方、読み取り方の深度、というものはあると思います。
本文でも書いているように、あるサイトで、ツイッターのようなことを時々、或いは日に数行(200文字という制限があるので)書きます。けれども、それに「いいね」(どこでも「いいね」)や、コメントがついていても、「そうそう、そういうことが言いたかったんだよ!」と感じることは、ありません。逆に言うと、今日投稿をしましたが、このブログの読者、すなわち、Junkoさん、ふたつさん、底彦さんのアンテナの感度が、(適切な言い方ではありませんが)そのレベルであれば、今日書いたような感懐は生まれなかったと思います。
それはおそらくJunkoさんもご自身のブログで、自分の投稿に対する「いいね」があ溢れていながら、尚、「言葉が通じていない」と感じられたのと相似形であると思います。(勘違い、ピント外れだったらごめんなさい)
>一言って百伝わることが、そう言う両者の間ではしばしば起こります。
わたしが同じような言葉を発しても、他のサイトとここが決定的に違うのは、正にこの部分です。
わたしはここで、正に「一が十になる」という感覚を屡々味わっています。
正直に言ってしまえば、1が1のままでは張り合いもないし、面白味も、ブログを書く醍醐味も味わえない。
かつては瀬里香さんがそういう役目を担ってくれていました。
(いまではすっかり「チャリンコクラブ」どころか本格的な「ロード・バイク・サイクリスト」になってしまって、フェイスブックでそういう「仲間たち」と走り、飲みかつ喰い、歌っているのでしょう。)
瀬里香さんはまさに「感性の人」でした。無論衝突も意見の相違もありましたが、あのような感受性を持っている人は、お互いの亀裂、溝のようなものを見極め、それを「言葉で」埋めることに長けています。
◇
現在このブログには読者が三人います。三人三様、それぞれが際立った個性・独自性を持っています。誰も他の人の代わりにはなれない。それらの人たちが、読んでくれているのだから、止める気にはならないし、どころか、多少の無理をしても、書き続けたいと思うのです。そう思うのも、繰り返しますが、Junkoさんも、ふたつさん、底彦さんも、1を言って、1のままでとどまらず、話題が膨らんだり、展がったり、分岐したりするからです。
「言霊」ということば、最近「件のサイト」でも時々目にします。「イヤだなあ」と思って眺めています(苦笑)
わたしの言う「言葉が通じる」というのは、発した言葉が、ある程度の深さでやり取りされるということ。そしていまわたしが利用しているサイトでは、どうしてもわたしと周囲との間に壁があって、1が1以上になることをほとんど望めないのです。
そういう状態が続くと、やがて飽きてきます。早晩去ることになるでしょう。
そこを去ったからと言って、現実にはいずこも同じ、ではあるのですが・・・
Junkoさんも、ふたつさんも、底彦さんも、ここは居心地がいいと、言葉にして伝えてくれました。その状態をいつまで維持できるのか、まるで自信はありませんが、
また、みなに媚びることもありませんが、可能な限り、アスファルト・ジャングルのちょっとした水飲み場、或いは小公園の木陰のベンチくらいではありたいと願っています。
今日は朝のデイケアに参加するために、ほとんど寝ていません。文章にキレや冴えがないのもそのせいだと、(こちらに都合よく解釈してもらって)読んでいただければ幸いです。
虚飾のない率直なメッセージをありがとうございました。
Takeoさん、Junkoさん、こんばんは。
削除まず、初めに言っておくと、Junkoさんのおっしゃっていることに、ほとんど異論はありませんよ。
たぶん、ぼくの書き方がうまくなかったので、意味が通じなかったんだと思います。
たとえば、『言葉が足りない』と書いたのは、『言葉では足りない』の方がよかったと思います。
つまり、Takeoさんであれ、ほかのだれであれ、『その人の言葉が足りない』と言いたかったのではなく、そもそも、伝達手段として『言葉自体が不十分である』ということを言いたかったわけですね。
さらに、これは、あくまで「完全に通じる」ということを前提にしていったことです。
だから、「なんとなく通じること」であれば、大丈夫なんだと思います。
(それを「錯覚」と言ったんですが、これも誤解を招く言い方かもしれませんね)
ただ、Takeoさんの場合は、「完全に通じること」と「なんとなく通じること」が、ほぼ、同じくらいのハードルの高さに成ってしまうところがあるような気がするので、こういう言い方に成りました。
初めから、Junkoさんに言うのであれば、こういうことは言わなかったのかもしれませんね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その上で言うと、Junkoさんとのおっしゃっている『言葉がなくても通じることもある』ということですが、ぼくは、むしろ『言葉がないからこそ通じる』に近いイメージですね。
たとえば、いくら感覚が近い相手であっても、その人と一度も喧嘩をしないか?というと、そうでもないでしょうし、むしろ、感覚の近い人とはよくケンカもすると思います。
でも、初めから言葉を使わないでいれば、おそらく、ほとんど喧嘩にはならないと思います。
言葉が多くなるとどうしても行き違いが生まれる確率が高く成りますね。
(その後、その亀裂を補修するのも、また、言葉ではあるのかもしれませんが)
Junkoさんが、良いお友達に恵まれたことは、素晴らしいことですし、うらやましい限りですが、その人との間に利害関係(例えば共同経営など)があった場合、もしかしたら、意見が対立することも出て来るのかもしれません。
そんな考え方自体が、良い考え方では無いのかもしれませんが、ぼくは、疑り深い性質なので、どうしても、そういう考え方をしてしまうところがあります。
ぼくにとって、「信頼」とは『この人は決して裏切らない』ではなく、『この人になら、裏切られてもいい』ですね。
ぼくは、他人に対して、「絶対に裏切らない人」を期待してはいけないような気がしますし、自分がそれを期待されるのもつらいですね。
だから、言葉のコミュニケーションにおいても、自分が信頼している人に対しては、「完璧」は期待しませんし、『通じなくてもいい』ぐらいに思っています。
つまり、『この人には、きっと通じるはず』とは期待しないで、『この人とは、話が通じなくても話し続けよう』と自分の方が一方的に決めてしまうわけです。
(もちろん拒絶されれば別ですけどね)
実際、ほとんどの場合は、話し続けることができると思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、「普通」とか「普遍」とかについてですが、こういう感じのことで、ぼくが言っていることは、たいていの場合すごく単純なことで、難しいことは言っていません。
ただ、ぼくが文章を書くと、こんな風に小難しい言い回しに成ってしまうだけですから、文字の印象よりも大幅に単純なこととして読んでもらえたら、いいんじゃないかなと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まぁ、そんなところです。
それでは、また。
こんばんは。
削除わたしも既に過去に何度か書いていますが、「言葉」というものを左程信用していないし、沈黙をこそ愛するところがあります。一方書いたり話したりするときには、自分の中で、可能な限り、より良き言葉より良き文章を目指してしまうところがあります。
また確かに、ふたつさんの指摘のように、一般よりも高いところで「(言葉が)通じる」ことを希んでいるところもあります。
「言葉」よりも「沈黙」を重んじながら、そのような志向を持っている。
>Takeoさんであれ、ほかのだれであれ、『その人の言葉が足りない』と言いたかったのではなく、そもそも、伝達手段として『言葉自体が不十分である』ということを言いたかったわけですね。
それは同感です。荘子曰く「選べばすなわち遍からず」ひとつを選ぶことは他のすべての可能性を排除することと同じですから。別の言葉であれば通じたかもしれない可能性を失ってしまう。「沈黙」とは「無」「ゼロ」ではなく「すべて」なのだと思います。
Junkoさんへの返信に書いたように、どこでも、「なんとなく」通じてはいるのだと思います。それは1を言って1を知るということと同じです。けれども、ここでは1が1のままではいないという気がするのです。それは必ずしも「完全に通じている」と同じではありませんが。
「信頼関係」については、ふたつさんとわたしとではかなり違いますね。
どちらがいいとか悪いとか、また、正しい、間違っているということではなく、ふたつさんとわたしの個性の違いでしょう。
>言葉のコミュニケーションにおいても、自分が信頼している人に対しては、「完璧」は期待しませんし、『通じなくてもいい』ぐらいに思っています。
このような考え方は、わたしのような極端に特異な人間にとっては非常に気が楽です。
また
>『この人には、きっと通じるはず』とは期待しないで、『この人とは、話が通じなくても話し続けよう』と自分の方が一方的に決めてしまうわけです。
わたしもそのような了見でありたいですね。
それがパーソナリティー障害に依るものか、発達障害に依るものか、或いは持って生まれた性格なのかはわかりませんが、いずれにしても、当人がとても生きることが困難になるし、周囲の人も大変です。
なぜもっと素直になれないのか、とも思いますが、それを一皮いわれると、ムッとしてしまう。手に負えませんね。
メッセージをありがとうございました。
PS.
毎度の3連休は嫌ですね。成人の日は1月15日です・・・