2019年12月10日

檸檬 落ち葉・・・


Falling Leaves , 1877, Nadezhda Elskaya. (1947 - 1978)
- Oil on Canvas - 

20世紀ロシアの画家によって描かれた「落ち葉」。
描かれたのが1977年。亡くなる前年です。31歳で亡くなっています。



明日返す(母に返しに行ってもらう)つげ義春の「近所の景色」という作品の中に、
ゴミを回収して生計を立てている人の多い朝鮮人たちの住む一帯があって、そこは当然貧しい人が多く、ボロ屋とゴミばかり目立つ場所なのですが、主人公は何故かそこに来るとほっとする。
その中で主人公の心中で思い出される梶井基次郎の「檸檬」の文章を孫引きします。



何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えてゐる。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしても他処他処(よそよそ)しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまふ、と云ったやうな趣きのある街で、土塀が崩れてゐたり家並が傾きかかってゐたり ── 勢ひのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるやうな向日葵があったりカンナが咲いてゐたりする。
 時どき私はそんな路を歩きながら、不圖、其処が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎 ── そのやうな市(まち)へ今日自分が来てゐるのだ ── という錯覚を起こさうと努める。


つげの引用はここまでですが、続けます。


私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないやうな市へ行ってしまゐたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂ひのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたゐ。希わくはここがいつの間にかその市になってゐるのだったら。錯覚がやうやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはなゐ、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失ふのを楽しんだ。

『ちくま日本文学全集 梶井基次郎』(1992年)より 

上は『つげ義春全集8』(「近所の景色」「無能の人」他)(1994年)



「檸檬」はわたしも好きな短編です。この本は、確かまだよく銀座界隈に行っていた頃、小説の舞台である「丸善」ではなく、「八重洲ブックセンター」で求めたものだったような気がします。あの頃は本当によく街を歩いた。

何もかもが変わってしまった・・・








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