2019年12月29日


ブログが書けない。書かなければならないという気持ちもない。ただ唯一、底彦さんがわたしのブログに、僅かとはいえ、心の慰安を感じていてくれたこと、それにもう応えることができない。それが底彦さんに対してというよりも、自分自身にとって残念に、心残りに思う。

文章を読む意味がわからなくなってきた。書く意味もまた。何を「書く」のか?
「書くこと」とはどういうことか、わからない。
先日他の自治体から再び(三度?)借りた、『石原吉郎全集2』、結局一度もページを開くことなく、2週間が過ぎて、一文字も読まぬまま返却した。
つげ義春も、業田良家のマンガにも手が伸びない。

今日は絵を選ぶことにも気が乗らなかった。

今夜は繰り返しおなじCDを聴いていた。ルネサンス期の作曲家ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナのミサ(混声合唱無伴奏)と、パレストリーナと同時期のジョヴァン・レオナルド・プリマヴェラのマドリガル(器楽)

わたしは「キリエ」というラテン語が使われる曲をよく聴く。


先日の繰り返しになるが、わたしが例えば来年の3月、或いは、来年の今頃に、「まだ」生きていたとしたら、それはいったいどのような形での生だろう?

德富蘆花の「不如帰」、(この部分しか知らないのだが)病の床にある妻浪子が、「武男さん、どうして人は死ぬんでしょうね・・・」と問いかける場面がある。

同じ名前の武雄としては、それ以前に「人はなぜ生きるのか?」を知りたいのだ・・・


0 件のコメント:

コメントを投稿