2019年11月15日

「認知行動療法」追記

わたしは最近まで、所謂「認知行動療法」のいう「自己表現」をこのブログを通じて行ってきた。自己を観察し、内面を凝視し、その時々の感情の襞に可能な限り分け入り、それを「言葉に」してきた。しかしそれは、わたしという人間の内面は、今こういう状態であるということを、読者に報せ、また自分自身で再確認することでしかない。そのことによって何かが変わるということではない。

事実はひとつしかない。それはわたしは今感じているという事実だ。

「リフレイミング」などともったいぶった名前を付けて、今現実にわたしが感じている「生(き)の感情」を偽りたくない。

「認知行動療法」とは明らかに「サバイバル術」だ。そのために文脈の改変を行う。
自分に都合のいいように。(これは別に悪いことではない)。
「生のままの現実では生きていけない」「現実から逃避していては生きていけない」
であるならば、自分の中で、文脈を編集・改変する以外にないではないか。それが自己欺瞞であっても、肝心なのはサヴァイヴすることだ。

しかしこの世界には生きるに値する何ものも存在しないと考えているわたしのような人間にとって、文脈の改変は何の意味も持たないばかりか、唯一残されたわたしにとっての真実・本物である自己の感情を毀損することになることは言を俟たない。



二階堂奥歯『八本脚の蝶』2001年8月31日(金)

私は強引に何かをされることは嫌いだが、何かをよろこぶように有無を言わさず変えられてしまうことがとても好きだ。

前者は関係を変えずに行為をいびつに割り込ませるが、後者は行為が自然に生まれるように関係を変える。

文脈を作ることのできる者と、できない者。
私はいつも、誰かが作る物語の中で翻弄されるコマでありたいだけなのだった。
文脈を作る力を身に付けなくては。

読まれ手でも、読み手でもなく、語り手になること。
(下線Takeo)


つまりわたしたちは「現実そのもの」── 二階堂の言葉で言えば「誰かが作る物語」を「変革・改変」することが不可能なので、せめてその、誰かによって作られた「物語ー現実」という格子なき牢獄の中で、多少とも生き易くなるための手段としての文脈の構築・改変がある。

それが「認知行動療法」ではないのかとふと思う。


Cf

国立精神・神経医療研究センター

日本認知療法・認知行動療法学会 広報委員会


わたしがこだわるのは、そもそも「誤った認知」とか「正しい認知」というものはなく、あるのは、ただ、その人固有の物の見方、解釈だけだということ。そしてそれを改変することは、自己を改変することに等しいということだ。

つまりそれは自分が自分でなくなっても生きていたいか?という問いに直結する。




The Passion of Joan of Arc (1928) directed by Carl Theodor


簡潔に言おう。自己の視たもの、自己の感じたことによって滅びるのなら滅びるのがいいのだ。何故なら「”私”とは運命である」のだから。




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