2019年11月14日

デイケア及び「(集団)認知行動療法」

今日は暫く参加を見合わせていた(集団)「認知行動療法」のプログラムに参加した。

わたしは基本的に「認知行動療法」という考え方とは反りが合わない。それはこれまで何度かプログラムに参加した経験からもいちいち裏付けられている。それでは何故性懲りもなく首を突っ込むのかというと、端的に言えば、わたし個人にとっては理解の範囲を超えている「療法」「考え方」に、何故多くの人が賛同するのか、という好奇心からだろう。

例えば、今日のテーマであった、「感情」と「認知」を分ける、という考え方。資料には「自己表現」とあったが、色も匂いもなく、目で見ることも手で触れることもできない自己の内側の感情をいかに定義することが可能なのか?
そしてこれが「不安」であるのか、或いは「恐怖」であるのか、または「深い悲しみ」であるのか、それはどのように区別し得るのか?言い換えれば、「認知行動療法」で、当たり前のように前提とされている「自己表現」というものがそもそも可能なのか?という疑問。これは「不安」であって「悲しみ」ではない、ということを如何にして、また、誰が何を規準にして判別するのか?

目の前に一個のリンゴがあって、「これは赤い林檎です」と「言葉にすること」と、「わたしは今悲しい」と表現することの間に如何なる違いがあるのか?
わたしが悲しいことは、言葉にする以前に存在しているわたしの内面の事実である。
それを言葉にすることでいったいわたしの気分が、その悲しさが、どのように軽減されるのか?言葉にするまでもなく、わたしはわたしの気分・感情を既に感じている。
それを敢えて、「わたしは悲しい」と言語化することは、ある参加者が言っていたように、それを「他者に伝える」以外の意味を持つのだろうか?



さすがに今日はわたしの度重なる疑義に対して、反発の声がいくつか上がった。

それらを要約すれば、わたしが気に入ろうと気に入るまいと、「認知行動療法」とは「そういうもの」なのだから、その常識を覆そうとしても意味はない、素直にそれを受け容れ、自分の治療に役立てるか、自分には合わないと思えば、せめて黙っていろ、というもので、それに関してはまったくその通りだ。

更に、デイケア参加者の多くは、「良くなりたい」「いまの症状を少しでも軽くできれば・・・」という気持ちで参加している。しかしわたしは、そもそも「治癒」とは如何なるものなのかすらわからない。いや、正確に言えば、「良くなる」ということがどういうことかはわかっている。けれども、「良くなった後に何があるのか?」

この、わたしにとって非常に摩訶不思議な「認知行動療法」のプログラムに「摩訶不思議」なる思考法ゆえに好奇心を抑えきれずに継続して参加するか。(つまり「招かれざる客」となることを承知で・・・)そこが思案のしどころだ。また複数の参加者のいうように、「認知行動療法」とは、ある意味とても難解な代物だということは、わたしも同感だ。








0 件のコメント:

コメントを投稿