これはマグダラのマリアが、キリストの頭に被せられた茨の冠にキスしている19世紀中葉の絵。通俗的といえば確かにそうだが、わたしはこの主題に惹かれた。
「茨冠」は苦痛と悲嘆の象徴。それにキスをする。つまり苦痛と悲嘆を、尊く、高貴な、美しいものと見做している。ひとりキリストに限らず、全て、頭(こうべ)に茨冠を頂くものは高貴である。
茨冠を被せられる者は、時の権力者、即ち「王冠」を戴いた者に憎まれた者。
故に茨冠は王冠よりも尊い。
それではわたしは王冠を頂くことを拒否するかといえばそうではない。
わたしはできることなら王になってみたい。それも、絶対的な権力者。言葉を換えれば「独裁者」に。譬えるならば、全盛期のスターリンや毛沢東、現在なら、習近平やプーチンのような独裁者に。
もしわたしが万能の独裁者になったら、してみたいこと。
といっても、わたしは政治にも経済にも国際情勢にも疎いので、あくまでも、夢物語だが・・・
◇
「天皇制の廃止」「自衛隊を廃止して、災害救助隊とする」「すべての武器・兵器はこれを廃棄する」「日米安保条約の廃止」「全ての原発の廃止」「東京オリンピックの開催中止」「防衛費・オリンピックのための予算はすべて、社会福祉に使う」「叙勲制度の完全撤廃」「公共住宅の充実」「全国各地津々浦々までの図書館と医療施設の充実」「医療及び教育の無償化」「義務教育の廃止(学校に行く義務の廃止)」「死刑制度の廃止」「幼児虐待や交通事故での加害者の量刑が軽すぎるので、その点の見直し、幼児虐待死などは最低30年以上~無期(仮釈放ナシ)」「政治家の世襲制の廃止」「サービス残業をさせた企業は完全営業停止1か月」「国民の祝日を元の日にちに戻す(土日月3連休性の基本廃止)」「デパート、スーパー、コンビニなどで売れ残った食料品は地域のフードバンクにすべて無償で寄付することの義務化」「破棄した場合には廃棄した商品と同額の罰金をフードバンクへ」「自民党の解党」「NHKの受信料支払い義務化の撤廃」
「駅のホーム・電車の一車両・バスの車内などで、スマホをいじっている人間が全乗客、その場にいる人間の3割を上回った場合にはその場の全員の使用停止」
「電車・バス、駅でのアナウンスの禁止(乃至車掌の肉声による)」「電子書籍は通常の書籍の3倍の値段にする」「プラスティック容器の5年以内の完全撤廃」「消費税の撤廃」「議員報酬を半額に」「学校での制服の撤廃(服装は完全に自由)」「赤線地帯の復活」「性をタブーにする教育の改革」「韓国への速やかなる謝罪」「国鉄(国有鉄道)の復活」「郵便局(郵政省)の復活」=「鉄道・郵便局の国営化」「福祉・医療・介護職員の賃金の大幅アップ」「安楽死制度の導入と、実施の簡素化」「図書館運営の民間委託の廃止」「リクルートルックの完全撤廃」
・・・そしてわたしは茨冠を被る前に暗殺されるだろう。それがわたしの「茨冠」だ。
こんばんは。
返信削除「民衆に独裁者と判断された者の死刑」と言いたいところですが、どうも、面白くないので、「政治家の無作為抽出」と言っておきます。
つまり、「陪審員制度」や「裁判員制度」のように、最大限まで無作為に抽出された人(数人~数十人のグループ)が、「政治における最終決定権」を担うという制度です。
(法廷における裁判官のように、実質的な業務は、官僚がやるんでしょう)
その時点で、「政治家」という言葉は意味を失います。
その場限りの「政治的判断用員」に過ぎなく成るわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
実は、それよりも重要だと思うのが「教育」ですが、それは、簡単に言うのは無理なので、保留ですね。
どんな制度にも必ず重大な欠点がありますし、実行すれば、必ずや重大な弊害が出てきますが、しかし、その制度が悪用されてしまうことと、社会が人間を使役するためのシステムと成ってしまうというところが、今の社会のそれ以上の欠点だと思います。
それは、いくら制度やシステムを充実させていっても、ほとんど意味をなさないということですからね。
どんなに素晴らしい制度を作っても、必ず穴を見つけられて、悪用されますし、効率よく運用すればするほど「人間」が「社会」に酷使されてしまいます。
つまり、どっちに転んでもダメということです。
つまり、「制度」が素晴らしければ素晴らしいほど、悪く成る可能性が高いと言ってもいいと思います。
認めない人も居るでしょうが、これが今の社会の実態だと思います。
そこでの唯一の希望が「教育」です。
人間が最も自由に考え、最も非利益的に行動するような「場」としての「教育」があれば、おそらく人間の「最もマシな部分」が引き出されるよな気がします。
けっきょく、人間というのは教えられたことしかできないような気がします。
今は、「自由」を教えるのに、「自由の勉強」を教えていますが、それが逆効果に成っていることは、すでに明白です。
本当は「自由な場」を与えられた人間が、ごく当たり前のこととして「自由」を知るように成るというのが、少しマシなような気がします。
ただし、これは、「洗脳」と紙一重に成ります。
だから、難しすぎて、具体的なことなまでは言えませんね。
まぁ、それでも、ぼくは『きっと、数百年後には、そんなことに成るのかもね』という考え方をしています。
それ以上を望むと、虚しくなるので、そこから先は考えません。
では、また。