2017年11月8日

審美的ひきこもり

多くの人間は自分をとりまく世界を、周囲の都市を、街を、審美的に眺めることをしない。
もし人が審美的な目をもって現在の都市を見つめるなら、「街が醜悪であるために外に出られない」ということも充分考えられることだろう。
「ひきこもり」を語るとき、いつもそこには「審美的判断」という視点が全く欠如していることに驚いている。

『...人生の現実的悲劇はいとも非芸術的なやり方で起きる。そしてそのがさつな暴威は、全くの不統一、意味とスタイルの欠如によって人間を傷つける。卑俗さにあてられるのと同じように、人間はそれにあてられるのだ。それでわれわれはそれが純然たる暴力行為であるという感じを受けて、あくまでもそれに反抗する...』

ー オスカー・ワイルド 『ドリアン・グレイの肖像』より

その時「反抗」の形は、世界からの撤退、離反という形をとることもあるだろうし、ラッダイト運動のような形をとることもあるだろう。

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