2017年11月8日

「落ち葉」 ー ある引きこもり論

わたしは自分がいわゆる「引きこもり」であるにも関わらず、世の中で同じようにそう呼ばれている、或は実際に「ひきこもって」いる人たちの現実を全く知らない。
彼ら・彼女らは何故引きこもっているのか?外へ出られないのか?出たくないのか?
また「出られる条件」というものがあるのか?

ここにひとつの新聞記事がある。
東京新聞に今月の19日に掲載された『引きこもりやめた息子』という投書である。

以下その記事からの引用

『高校を卒業して十五年間引きこもっていた息子が、仕事を見つけ働き始めた。父親の死をきっかけに、母親のわたしの生活を心配し、自分の年齢を考え、NPOの人たちの助言を得て、自らハローワークへ出向いたのだ。
仕事は清掃業務。わが家から十分で行ける某大学の街路樹の落ち葉をかき集めることだと聞いた。
人間関係が苦手な息子にとって、自然が相手の仕事はよかったとわたしは思った。

          (中略)

学生の往来の中、息子は褪せたグリーンの作業着に軍手をはめ、ざわざわとふり落ちる葉を竹ぼうきで懸命にかき集めていた。そばにはリアカーがあった。集めた落ち葉を積むためだ。
この日は風の強い日で、掃いても掃いても、掻き集めても掻き集めても、風は容赦なく葉をまき散らした。息子は風が少し弱まった時を見計らって、バサバサっと集めた葉を入れると、リアカーを引いて行ってしまった。
息子の背中が今の彼の年齢より、ずっと年取ったように見えて、わたしは胸に突き上げるものを感じた。
しかし、どんな仕事を選んでも、働くということは、また大きくいえば、生きるということはこういうことだ。
今の息子にはそのことを身をもって知ってほしい。リアカーを引いていく息子の後ろ姿に、今の時間を、今日だけを考え頑張ってほしいと願った。その積み重ねこそが、明日につながるのだから...』



近くの比較的緑の多い公園の中を歩きながら、今の時期、初老の男性たちが作業服を着て、
やはり公園の道に散り敷かれた色とりどりの秋の落ち葉をせっせと掃き集めているのをいつも奇異の念を持って眺めている。何故落ち葉をかき集める必要があるのか?何故このような色彩の美を、ゴミのように扱うのだろう?

この投書に書かれている息子さんの仕事を貶めるつもりはない。このようなことが「仕事」になるということがおかしいのではないか、と思う。塵一落ちていないような殺風景な道を自転車で走りながら、「無駄な仕事だなぁ」と嘆息を漏らす。
これが竹箒で掃き集められている分にはまだその光景には情緒というものもあるけれど、あの改造バイクのマフラーのような轟音を放つ噴射機のようなもので、およそ秋の落ち葉の風情とは相容れない爆音とともに落ち葉を吹き寄せているのを見るにつけ聞くにつけ、避けようもなく「鈍感!」「愚劣!」「愚鈍!」という言葉がある種の「殺意」に似た感情とともに湧き上がってくる。

投書にある息子さんにはいつまでも竹箒で落ち葉を集めていてほしい。正式な名称を知りたくもないあの忌まわしい機械のノイズによって、秋空の下を、秋色の上を歩くことを不可能にされている者が、確かにいるのだから...


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 Coming Autumn, John Atkinson Grimshaw. (1836 - 1893)

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