先の投稿、「目に見えるということに欺かれてはいけない」に、ふたつさんからいただいたメッセージに関して、ここで改めて整理してみようと思います。敢えてコメントの返信に新たな投稿を設けたのは、メッセージに含まれた表現に、わたしの感性との「ズレ」を感じたからです。
◇
いかなるものも、すべて「存在していること」それ自体が「誰かの迷惑」でもあり、「誰かのため」でもあります。
というふたつさんの考えに、いまひとつ素直にうなずけないのです。
というよりも、
言い換えるならば、「誰にも迷惑をかけずに存在すること」は不可能ですし、「誰のためにもならずに存在すること」もまた不可能です。
この表現に、わたしは同意できません。
何故かという理由を説明することは困難ですが、わたしには「誰のためにもなっていない」という存在が、確かに在ると感じているからです。自分自身を振り返って、「いったい誰のためになっているのか?」と自問した時、答えは出ません。ここに「主観」と「客観」との乖離があります。「自分は無価値だ」と感じて(信じて)いる者に対して、「そうではない」と諭すことにわたしは意味を見いだせないのです。何故なら、わたしはあくまでも「個々人の主観」を重んじるから、としか言いようがありません。
◇
以下、ふたつさんの「詩」(詩のような題)を転載します。
◇
『てんばつは けっして てきめんでは ない』
てんばつ てきめんと いうのは
ものがたりの なかだけで
じっさいには
わるいことを した にんげんが
てんばつを うけることは ほとんど ない
わるいことを した にんげんが
じっさいに ばつを うけるのは
にんげんが つくった ほうを おかした ときだけ
でも
それは てんばつでは ない
てんは
その にんげんが あくに そまった その じてんで その にんげんを みはなして いる
てんは
その にんげんが くさりはてて ゆくのを ただ ぼうかん しつづける
てんは
その にんげんに あえて てんばつを くだす ひつようが ないことを しって いる
だから
そんな むだな ことは しない
だから
てんばつと おもうような しうちを うけて いる ひとは
それを はじる ひつようは ない
てんは
まだ あなたを みはなして いない
てんは
まだ あなたに なにかを あたえて いる
てんは
いまも あなたを すくって いるの だから
でも
その さいはいに かんしゃ する ひつようは ない
てんは
むじひに みすて むじひに すくって いるだけ
あなたが ばつを うけて いるのは
わるいことを したからでは ない
あなたが うけて いる ばつは
てんが くだした ばつでは ない
あなたが ばつを うけて いるのは
あなたが あなたに ばつを くだしたから
もしも あなたが
あくに そまって いたなら
あなたは その ばつを くだすこと なく
とめどなく くさりはてて いくだろう
わらい ながら
あなたは
まだ あくに そまって いない
だから
てんに かわって じぶんに ばつを くだした
だから あなたは
なき ながら
その てんばつを うけて いる
てんばつ てきめんと いうのは
ものがたりの なかだけで
じっさいには
わるいことを した にんげんが
てんばつを うけることは ほとんど ない
わるいことを した にんげんが
じっさいに ばつを うけるのは
にんげんが つくった ほうを おかした ときだけ
でも
それは てんばつでは ない
てんは
その にんげんが あくに そまった その じてんで その にんげんを みはなして いる
てんは
その にんげんが くさりはてて ゆくのを ただ ぼうかん しつづける
てんは
その にんげんに あえて てんばつを くだす ひつようが ないことを しって いる
だから
そんな むだな ことは しない
だから
てんばつと おもうような しうちを うけて いる ひとは
それを はじる ひつようは ない
てんは
まだ あなたを みはなして いない
てんは
まだ あなたに なにかを あたえて いる
てんは
いまも あなたを すくって いるの だから
でも
その さいはいに かんしゃ する ひつようは ない
てんは
むじひに みすて むじひに すくって いるだけ
あなたが ばつを うけて いるのは
わるいことを したからでは ない
あなたが うけて いる ばつは
てんが くだした ばつでは ない
あなたが ばつを うけて いるのは
あなたが あなたに ばつを くだしたから
もしも あなたが
あくに そまって いたなら
あなたは その ばつを くだすこと なく
とめどなく くさりはてて いくだろう
わらい ながら
あなたは
まだ あくに そまって いない
だから
てんに かわって じぶんに ばつを くだした
だから あなたは
なき ながら
その てんばつを うけて いる
◇
わたしはこれまで紹介してもらったふたつさんの詩の多くを好きですが、この詩に関してはどうも波長が合わないようです。
てんは
その にんげんが あくに そまった その じてんで その にんげんを みはなして いる
てんは
その にんげんが くさりはてて ゆくのを ただ ぼうかん しつづける
てんは
その にんげんに あえて てんばつを くだす ひつようが ないことを しって いる
だから
そんな むだな ことは しない
ここに描かれている「悪に染まった」の「悪」とはなんでしょう。
わたしは「善」という言葉よりも「悪」という言葉に、より強く惹かれます。
わたしが心惹かれる「悪」とはなんであるのか?これもまた明確に説明することはできません。
「悪に染まった」イコール「人間性の腐敗」であるというのなら、わたしは到底その考えを肯んじません。
盗みをはたらこうが、殺人を犯そうが、その一点を以て、「腐った人間」と断罪することはわたしには出来ません。おそらくふたつさんもわたしと同じであると考えます。
ではここに記されている「悪」とははたして如何なるものでしょう?
前にも書いたことがありますが、わたしにはそれが可能ならば、「殺してやりたい人間」が何人かいます。その者たちの存在が「誰かのために」なっているかどうか、それはわたしには関わりのないことです。多くの独裁者たちもまた、家族親族友人たちに慕われる「善き人」であったことでしょう。
これも前にも書きましたが、「刺客」「暗殺者」は「悪人」でしょうか。鼠小僧は「悪人」でしょうか?ひとことだけ言えることは、力のある者、権力を持つ者への力の行使は「悪ではない」と考えています。
「悪」とは「大」から「小」に向けて、「多」から「少」に向けて、「強」から「弱」へ向けて、そして「動」から「静」へ、「勝」から「負」に向けて行使される「力」であると、仮に定義しておきます。とすれば、自ずとその逆方向に用いられる「力」「行為行動」こそが「善」乃至「正義」ではないかと思われるのです。
◇
あなたが ばつを うけて いるのは
わるいことを したからでは ない
あなたが うけて いる ばつは
てんが くだした ばつでは ない
あなたが ばつを うけて いるのは
あなたが あなたに ばつを くだしたから
わるいことを したからでは ない
あなたが うけて いる ばつは
てんが くだした ばつでは ない
あなたが ばつを うけて いるのは
あなたが あなたに ばつを くだしたから
ここに関しては、わたしには理解できません。
あなたが ばつを うけて いるのは
あなたが あなたに ばつを くだしたから
あなたが あなたに ばつを くだしたから
率直に言って、この言葉は非常に危険な言葉であると感じます。
特に鬱病を患い恒常的な自己譴責に苛まれている者にとっては。
またこれは、わたしにある蒙昧な者の言った、「引きこもりとは、人生に対する「罪」であり「罰」である」という妄言を連想させます。
この詩行を、「あなたがいま苦しんでいるのは自業自得である」という以外に読むことが可能でしょうか。
そして
もしも あなたが
あくに そまって いたなら
あなたは その ばつを くだすこと なく
とめどなく くさりはてて いくだろう
わらい ながら
あくに そまって いたなら
あなたは その ばつを くだすこと なく
とめどなく くさりはてて いくだろう
わらい ながら
この「とめどなく腐り果ててゆく」であろう「あなた」とは、いったい誰に対しての言葉なのか?
そしてふたたびここで言われている「悪に染まっていたなら」の「悪」とはなんでしょうか。
あなたは
まだ あくに そまって いない
だから
てんに かわって じぶんに ばつを くだした
だから あなたは
なき ながら
その てんばつを うけて いる
まだ あくに そまって いない
だから
てんに かわって じぶんに ばつを くだした
だから あなたは
なき ながら
その てんばつを うけて いる
仮にわたしが底彦さんのような立場であるなら、この言葉は致命的です。このように繰り返し読んでいると、胸の裡に「怒り」のような感情が湧いてきます・・・
てんに かわって じぶんに ばつを くだした
かつてふたつさんの詩で、ここまで難解なものに出会ったことがありません。
かつてふたつさんの詩で、ここまで難解なものに出会ったことがありません。
更に言うなら、(少なくともわたしには)この詩は冷酷残酷でさえあると感じます。
◇
以上、わたしにとって理解の域を超えているふたつさんの詩について述べて来ましたが、ひとつ確信を持って言えることは、ふたつさんは、わたしなり底彦さんなりに悪意を持ち、傷つけようとしてこの詩を公開したわけではないということです。その点だけは強調しておきます。危険な詩であるということは、コメントの中でも繰り返しふたつさんが述べていることです。
それ故、わたし(或いは底彦さんへの)「誤解」を解いてもらいたいと思い、紹介してもらった詩についてのわたしなりの忌憚のない感想を記しました。
言うまでもなく、わたしの言葉、わたしの文章が、誰も傷つけていないし、その可能性は無いはず。などと思ってはいません。
率直にものをいうことは、ある意味で暴力的なことです。
花一輪について詩を書いても、誰かを傷つけているかもしれない。
ふたつさんもわたしも、そのことについては自覚しているつもりです。
けれども言葉の持つ暴力性に無自覚無頓着な者がいる。それがわたしに先の投稿を書かしめた理由です。
◇◆◇
『てんばつは けっして てきめんではない』 by ふたつ
習作
上記の、「詩のような題」を持つ絵。『てんばつは けっして てきめんではない』
いい絵だと思いましたので、ふたつさんの承諾を待たずにこちらで紹介させていただきました。
詩に関して率直な意見を述べましたが、この絵を含め、一連のふたつさんの絵は、「個展」を催してもいいくらいの水準であるとわたしは思っています。これもまたわたしの率直な意見です。
〔ふたつさんブログ〕
Takeoさん、底彦さん、こんにちは。
返信削除この記事に対する、私の一番正直な気持ちを言うならば、『やっぱり、そうか・・・』ということに成ります。
だから、もしも、底彦さんにも同じような印象を与えてしまったのであれば、心からお詫びしますし、無理かもしれませんが、どうか忘れてください。
私は、いつもTakeoさんや底彦さんのことを友人だと思っていますし、傷つけたくないと思っているんですが、私の言葉はよくそういうことがあります。
特に、その人のことを強く思う気持ちから、何か言ったときにそうなることが多いので、なるべく、そういうときには黙っているようにしているんですが、どうしても言わずにいられなくなってしまうことがあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
先日、YouTubeで底彦さんと同じように希死念慮にとりつかれている人の動画を見させてもらって、あまりに辛そうだったので、ついコメントを入れてしまいました。
でも、私のコメントだけが削除されていたようで、例えば『死んだか?』というコメントは掲載されているのに私のコメントは削除されていました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
私の場合は、Takeoさんのように『自分を曲げられない』とか、『自分に嘘をつけない』というのとは違って、私は自分を曲げることは出来なくはないんです。
でも、相手の人を尊重する気持ちが強くなった時に、けっこうこうなってしまいます。
ハッキリ言ってしまうと、「嘘」に抵抗があるわけではなく 「自分のこと」はどうでもいいんですが、「相手を見捨てること」に抵抗があって、『今、これを言わずにいるということは、相手を見捨てることではないのか?』『きっと、これを言えば、自分も相手も嫌な思いをするに違いないから、放っておこうというのは、相手を軽視しているんじゃないのか?』ということです。
私には『「心地よい言葉」は助けてくれない』という考え方があって、そういうときに、相手を重視すればするほど、なんとかして「心地よくない言葉」を伝えようとする傾向があります。
もちろん、「相手が嫌がりそうなこと」を言おうということではありません。
ただ、「その場だけ、心地よい言葉」ではなく「生涯にわたって残る言葉」は無いだろうか?
と考えて、探してしまうわけです。
でも、そんな言葉があるわけもなく、また、あったとしても、私に見つけられるわけもないので、結果的には、いつもこういう結果に成ってしまうということですね。
もちろん、自分に相応な「その場だけでも役に立つ言葉」を言い続けていれば、そんなことにはならないと思います。
ただ、私自身は、そういう言葉に助けられたという記憶がないので、そういう「その場だけの言葉」も、そういう言葉を言う人も、あまり信頼しません。
これは、私が、このブログを見続けている理由でもあり、ブルースを聴く理由でもあると思います。
つまり、Takeoさんの言葉にも、ブルースにも、「その場だけではないナニカ」を感じることが多いので、このブログを見続けて、ブルースを聴き続けているんだと思います。
さらに言うと、底彦さんがここから離れないのもそういうことじゃないかな?と思ったので、こういう結果は、ある程度予測できましたが、言わせてもらいました。
ただし、言い訳をするつもりはありません。
いやな気持になったのであれば、謝ることしかできませんが、申し訳なかったと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
上のことを前提として「言い訳」としてではなく、Takeoさんが述べていることに対する、私なりの説明をさせていただきます。
まず、「誰かの迷惑」「誰かのため」ということで言うと、おそらくTakeoさんは「誰か」を「人」という限定で言っていると思いますが、私が言った「誰か」というのは「万物」のことを指しています。
「生物」に限らず、「無生物」も含めて「誰か」と言ったと思います。
例えば、Takeoさんが死ねば、土に還って地球の構成要素に成るわけですが、その過程で微生物の養分に成りますし、それは、さらにその後植物の栄養に成るかもしれませんし、その結果として咲いた花が「誰か」の心を和ませるかもしれません。
そこで、やっと「人」に還ってきますが、その時Takeoさんは居なくなっています。
でも、私はそういう「居なくなったもの」も「誰か」に含めています。
私の話には、こういう飛躍が多いので、意味が伝わりにくいです。
あとで読み返すと、自分でも無理があると思いますが、書いているときには気づきません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
次に『てんばつは~』についてですが、「詩のようなもの」を説明するのは、ちょっと無理なので、思いつくことを書いてみます。
まず、思うことは、「逆」ということです。
上に述べたようなことからだと思いますが、私が言いたかったこととは、逆の意味に伝わってしまったと思います。
ここで「あく」と言っているものを、あえて言うならば、「人の心を踏みにじること」ですが、たぶんTakeoさんは、わたしがここで「あく」に見立てている側と、「あくではない」と見立てている側を「逆」に取っているような気がします。
私は、「絶対的な悪」というものは存在しないと思っています。
というか、どんなものでも「絶対的な○○」は存在しないと思います。
だから、これは、おとぎ話のような話です。
おとぎ話の中に出てくる「かみさま」や「おひさま」なんていませんが、なんとなく、そういうものがいるという話でおとぎ話が成り立っているというようなことを思い浮かべてもらうといいかもしれません。
例えば、おとぎ話の中で、乞食に親切にした人がいて、その人が、普段はあまりいい目に合っていないときに、「あの時助けた乞食」が、もしも「かみさま」だったら、というようなことです。
もちろん、実際にそんなことはありませんし、助けた乞食に何か盗まれることだってありますが、その人が「乞食を助けた」ということだけは、現実においても変わりありません。
そういう時に、『いいことをした人には、いつかきっと、いいことが返ってきますよ』というのが「その場だけの言葉」です。
私は、そういうのを信じられません。
だから、
『あなた、いま乞食に親切にしましたね?そのうちに、きっとひどい目にあいますよ』
と言ってしまうんです。
そして、悲しいことですが、それは事実なんです。
こういうのが人を傷つけることがあります。
「エライ人」にいいことをした人には、本当にきっといいことが返ってきます。
でも、それは「いいこと」ではなく、単なる「利益追求」です。
しかし、「乞食」にいいことをしても、ほとんどの場合何も帰ってきませんし、時にはひどい目にあいます。
「乞食」にいいことをしても、「いいこと」が返ってくるのは、その「乞食」が「かみさま」だった時ぐらいだろうというのが本当のことだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
そういうおとぎ話の中では、「かみさま」は、「乞食に優しくした人」に何かを与えてくれることに成っていますが、私も含めて普通の人は、もう、それを信じられなくなっています。
だから、そんなことをする人は、もう、ほとんど居なくなりました。
ここで、私が「てんばつと おもうような ばつを うけている ひと」と言っているのは、「それでも、まだ、乞食に優しくしてしまった人」であり、そういう人がひどい目にあっていることを指して言っています。
「乞食に優しくすること」というと「いいこと」のように聞こえますが、実は、世間一般には「乞食に優しくする人」は差別の対象に成ります。
どちらかと言えば、それは「悪いこと」のような扱いを受けることの方が多いでしょう。
それと同じで、Takeoさんも底彦さんも世間一般からは「悪人」とまではいわれなくとも「厄介者」とか「無責任」という扱いを受けることがあると思います。
しかし、私から見ると、二人とも「優しい人」なだけです。
「優しさ」を捨てられないから、結果的に「厄介ごと」に巻き込まれたり、「責任」をしょい込んでしまったりするだけで、お二人が人に迷惑をかけてもいいと思っているという気がしないんですね。
ところが、一方で、その辺のところをあまり気に留めているように見えない人たちの方は、むしろ、「いま」の中でうまくやっていたりするという現実を見るにつけて、どうしても、『もしも、あの時の乞食が神様だったら~』と空想してしまうし、そういう無理やりな設定で、ものを言ってしまうことがあります。
やはり、飛躍していますから伝わりませんし、「逆」に伝わることも多くなります。
なるべく言わないようにしていますが、言わないといけないような気に成ってしまうと、言ってしまいますね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
まぁ、そんなことです。
その程度のことなので、忘れて頂けたら嬉しいですね。
それでは、また。
追伸です。
返信削除上の自分のコメントを読み返して気付いたんですが、上ではTakeoさんが、わたしが「あく」に見立てているものと「あくではない」と見立てているものに関して、私の言いたかったのと逆の意味で解釈しているんじゃないか?と書きましたが、よく読むと、Takeoさんは、それらを私が同じ一人の人に言っていることとして考えているのかもしれないと思いました。
もう少し詳しく説明すると、私がここで仮に(あくまで仮にです)物語の設定の様な意味で、「あくに そまった にんげん」と見立てているのは、Takeoさんの文面にある『~は罪であり罰である』と言ってはばからないような人たちのことです。
つまり「人の心を踏みつけにする人」であり、さらに、そのことを自身が「悪」であると認識していながら、その「自己内の悪」を「正当化」して、なんらかの「正論」に見える論理を弄して周囲の人間を説得し、その結果得た「数の力」を使って、「正当化」を強化しようとする人たちのことです。
そして、ここはTakeoさんと見解が違うかもしれませんが、私は、必ずしも彼らが無自覚でやっていることだとは思っていません。
確かに、「催眠状態」であり「洗脳状態」であることは、ほぼ間違いないことで、完全に「妄信」しているとしか言いようがないことなんですが、その「催眠術」や「洗脳」にはまってしまっている自分たちに対して、一切の疑念を持たずにいるわけではなく、そういう疑念が生じたときに「見ないようにした人たち」が、そのボロが出そうな成った「見ないふり」や「正当化」を無理やり補強するために『~は罪であり、罰である』というような極端なことを言うんだと思います。
だからこそ、仲間内では、決して、暴力的な発言をすることなどないくせに、こういうときだけは、極端に攻撃的になり残虐になるんだと思います。
要するに「自己保身」がかかった時には、なりふり構わずというのが、そういう人たちの特徴なんですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
上にも書きましたが、私は「絶対的な悪(善)」や「究極的な悪(善)」というものは存在しないと思っています。
ただし、そういう中でも、人間は何らかの「悪」や何らかの「善」という概念を自分の中に作り出してしまう性質があり、その性質から逃れることは不可能だと思っています。
(少なくとも私は出来ません)
だから、少しでも「マシな善」や、少しでも自分が「納得できる悪」について考えています。
それで、今の時点で、私が「悪」と考えているのは「自分自身が悪いと思っていることをすること」で、「善」は「自分自身が悪いと思っていることをしないこと」ですね。
だから、まったく無自覚であれば「悪」には当てはまらなくなるということです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
なぜ、私が「人の心を踏みにじる人たち」や「~は罪であり、罰であるという人たち」が、完全に無自覚ではないと考えるかと言えば、それらの人たちが、同じことを強い者に対しては決して言わないからです。
つまり、相手を選択するということは無自覚ではできないことだと思うわけです。
「自分よりも弱い者」に対しては、必ず攻撃的になり、「自分より強い者」に対しては、必ずこびへつらう。
これは、完全に無自覚で出来ることだとは私には思えません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
一方で、私が「てんに かわって じぶんに ばつを くだした ひと」として見立てているのは、Takeoさんや底彦さんのように、社会が生み出す「歪み」を強く受けて取ってしまっているために「自分を許すことが出来なくなっている人たち」のことです。
私は、そういう人たちを「社会の犠牲者」だと考えています。
そして、「自己犠牲」を人間の行いの中で、唯一の「美しい行為」だと思っています。
だから、その「てんに かわって じぶんに ばつを くだした ひと」を「美しい者」として「絵」にしたつもりです。
この絵の中に「あくに そまった ものたち」は描かれていません。
ただ、実をいうと「あくに そまった ものたち」も初めの段階では「社会(教育)の犠牲者」です。
しかし、その「犠牲」を他人(弱者)に押し付けて「利益」だけを得ようとしてしまったがために「あくに そまって」しまったということだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上、わかり易く成ったとも言えないような気がしますが、補足説明でした。
では、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除先ず言っておかなければならないことは、わたしは確かに本文中で、「この詩とは波長が合わない」と書き、繰り返し読んでいると「怒りのような感情が湧き上がってくる」と書きましたが、
それは決してこの詩の作者であるふたつさんへの悪感情とは結びつきません。
また、この詩によってわたしが心に傷を負ったということはないということも、重ねてお伝えしておきます。
ただ、頂いた解説についても、やはりわかりづらい部分があることは確かです。
それでも、意を尽くして説明してくれているふたつさんの「気持ち」は、うれしく受け取っています。
◇
ふたつさんの詩について、わたしと底彦さんの見解が分かれました。
また別の部分でも底彦さんとの考え方の違いが見えました。
理由は簡単で、底彦さんは、「医者」や「社会福祉」など、「公的」な存在に助けられているかもしれませんが、私的な領域では誰にも迷惑を掛けてはいません。そこがわたしとの決定的な相違です。
『「引きこもり」は人生に対する「罪」であり「罰」である』と放言した「彼ら」を批判することができるのだろうか?とこの頃わたしは自問するのです。
わたしの生は本当に「悪」ではないと言い切れるのか?
上記の相違によって底彦さんの「生」はまったく「悪」の要素を含まないことは明らかです。
辺見庸は、「植松聖の理論では、「人間には生きるに価する生」と「生きるに価しない生がある」と言っているように見える」と書いています。そしてわたしの目から見れば、底彦さんは「生きるに価する生」であり、わたしは「生きるに価しない生」であるという意識があります。
実は「彼ら」は単に「真実」を言っているだけなのではなのだろうか?わたしはそう思い始めています。
「絶対的な悪」とは「他の犠牲の上に成り立っている生」ではないかと思うのです。
ふたつさんのような「善意ある第三者」から見れば、「誰もが誰かのためになっている」ように見えるのかもしれません。
しかしそのセオリーを窮極まで推し進めてゆけば、プリーモ・レーヴィの自死は「愚行」「浅慮」ということにはならないでしょうか?そしてそもそも、それは「自死」という行為の否定に行きつかないでしょうか?
上記タイトル 「いい障害者 わるい障害者」
こんばんは。
削除まず初めに、お断りしておくべきことは、私は自死を否定してはいません。
ただし、推奨してもいないということです。
また、出来れば、出来るだけ多くの人が生きていることを「喜び」と感じられるような世の中であったらいいと思っているという、ごく当たり前の考え方しか、私にはできないというようなことです。
少なくとも、私は「自死」をめぐる口論で「自死」を否定した相手と「自死」を擁護する立場から意見を述べて、何度も対立したことがあります。
(ネット上ではなく現実の人間関係において)
その時の相手は、私を「自殺容認」的な考え方だと思ったと思いますが、それも違います。
私は「自殺」した人間を蔑視するということが許せなかっただけで、「自殺」を積極的に推奨しようということではありません。
そして、先日も書いた通り、私は最終手段として『心を生き残らせるか?』『体を生き残らせるか?』という選択においては「心の生き残り」を優先することに問題はないという考え方も持っています。
もちろん、「体の生き残り」を選択する人が居てもいいとは思いますが、そういう究極の選択においては、「体の生き残り」が「心の死」を意味するので、私はそれをいいことだとは思いません。
「心の生き残り」を優先した結果「体の死」を受け入れた場合は「心」も「死」に至るわけですが、その「心の死」が安らかなものである可能性は高くなると思います。
しかし、「体の生き残り」を優先した場合は、「心」も生き残りますが、一方で「心」が死に場所を失って、「亡霊」のようにさまようことに成ります。
だから、あまりいいことだとは思っていません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
次に、
前のコメントで述べたことは、あくまで私の書いた『てんばつは~』に関することです。
だから、辺見さんや植松さんの言うところの「生きるに値する生」ということとは、おそらく別の話になります。
それに、私はそのお二人のことをあまりよく知りませんから、何とも言えません。
その前提で言うならば、私は「生きるに値する生」と「生きるに値しない生」があるという考え方は、かなり危険な考え方だと思いますよ。
私の感覚で言うと、もしも「生きるに値する生」と「生きるに値しない生」があるとするならば、それを誰かが判定して決めなければならなくなるわけですが、それを決められる人を私は想定できません。
だから、もしもそういうものがあったとしても、実際にはあまり意味をなさないと思いますが、どうでしょうか?
そして、誰にも決められないことを、肯定し続けていると、必ずや権力や地位を持つものがそれを決定する権利を獲得するようになります。
つまり、結果的に権力者が弱者の「生命与奪の権」を得ることに成ってしまうわけです。
(はっきり言えば、現在の中にもそういうことがあります)
例えば、植松さんは、所属している施設の入所者が重度の障碍者であったと言ことを踏まえて考えれば、入所者に対しては「権力者」の地位にいたと言っていいと思います。
だから、彼は入所者の「生命与奪の権」を獲得し、それを実行できたわけです。
これは、上で述べた、「究極の善・悪」についても同じで、もしも、そういうものがあったとしても、人間の及ぶ範囲ではないのであまり意味をなさないと思いますし、それを肯定し続ければ、必ず、「権力」と結びついた形で、その「善・悪」が決定されてしまうでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
ただし、これはTakeoさんが個人的に自分の生をどう考えるかということとは別の話ですし、プリーモ・レーヴィのこととも違うと思います。
それは、個人的な問題であって、広い意味での「人間の生」とは一致しないような気がしますが、どうでしょうか?
私には、Takeoさんの場合もプリーモの場合も、上で述べた「心の生き残り」を優先した結果の最終手段として「体の死」を選択するという方向だと思います。
だから、私は、それを否定しません。
しかし、これも、また個人的なことに成りますが、私はすでに亡くなっているプリーモの「死」を肯定しますが、まだ生きているTakeoさんには、出来ることならば生きていてほしいと願ってしまうということです。
もちろん、生きていることでTakeoさんが苦しい思いをしてでも「生きろ」とは言いませんが、だからこそ、『もしも明日、生きているならば、明日一日の中で一秒でも長く楽な時間を作り出してほしいな』と思うわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それとは別の話として、もう一つ。
私は、「他の犠牲の上に成り立っていない生」を想定できません。
だから、もしも「絶対的な悪」の条件が、それだとしたら、すべての存在が悪であるという結論に成ります。
もしも、「他の犠牲の上に成り立っていない生」が存在できるとしたら、それは何者からもエネルギーを得ることなく存続しつづけることが出来るということに成りますから、それは「絶対的な無限エネルギーの塊」のような存在ということに成ります。
私の中で、もしも、そういうものを設定するとしたら、「宇宙全体」ということに成りますが、それは「全て」というのとほぼ同じことに成ってしまうので、この話とはかけ離れたことに成ってしまいます。
それに、「宇宙全体」が「悪」であるときには「悪」であることがスタンダードになるわけですから、「悪」という言葉の意味は消えてしまいます。
「善」と「悪」があって、はじめて「悪」が「悪である意味」を持つことが出来るというのが私の考え方ですね。
それでは、また。
また、書き忘れがありました。
削除底彦さんとの間でご意見が分かれたとありますが、底彦さんも違う形で私の言葉から嫌なものを感じておられるのでしょうか?
もしも、そういうことがあれば、底彦さんにも心からお詫びいたします。
出来れば、悪意から出た言葉ではないということだけでもご理解いただければと思います。
それでは。
ふたつさんは底彦さんのふたつさんに向けてのメッセージを読まれていないのでしょうか?
削除https://pobohpeculi.blogspot.com/2022/02/blog-post_51.html#comment-form
こんばんは、ふたつさん。
返信削除新たな投稿を書こうかと思いましたが、うまく書けそうにないので、ここでふたつさんとの雑談という形で、今の気持ちを記させていただきます。
◇
「精神の死」と「身体の死」のどちらかを選択しなければならない時。これは石原吉郎も書いています。
◇
『肉体の生を選ぶか、精神の生を選ぶか?── 'Point Of No Return' 「帰還不能点」
── わたしにとって、「今・この時代」に「生きる残る」ことを考えることは、「強制収容所を『生きのびる』ということ」と一体何が違うというのだろう・・・
ナチの強制収容所や、石原が生きのびたシベリアのラーゲリは、わたしのいる現在の東京と、どれほどかけ離れているといえるのだろう。
そして、「ポイント・オブ・ノー・リターン」(=引き返すことのできない一線)を、わたしは既に越えている。』
◇
昨日『CUBE(キューブ)』という映画を久し振りに観ました。いつも言っているように、映画や小説の粗筋を説明することが不得手なので、どのような映画であるかは省略しますが、その、「キューブ」と呼んでいる、巨大な謎の建造物から、天文学的な確率で出口までたどり着いた時、生き残った男性は、部屋の外に出ようとはしません。何故なら「・・・自分にとってこの世界に、生きるに価する何ものもない」と。「じゃあなにがあるの?」と問う女学生に「人間の欲望・・・」とだけ答えます。
キューブは1万数千の立方体の部屋によって造られている巨大な建造物で、そこは水も、食料もないただの箱です。そして定期的に部屋の位置は移動し、今外に出ないと、今度この部屋が「出口になる」ときはいつかわかりません。外に出ることができるのは「いまこの瞬間」しかないのです。
わたしは「外の世界に自分にとって生きるにあたいする何ものもない」と言った男性の言葉に、どのような「美談」よりも心が慰められました。
これはわたしにとって、ある意味では聖人の言葉のようにこころに響くのです。
「現世」を否定することのうつくしさ、とでもいうのでしょうか。
彼が残った部屋は、数分後にはまたこの巨大なキューブの「何処か」に移動し、彼のいのちは数日で途絶えるでしょう。一万数千の立方体の部屋のどこにも、一滴の水も、ひとかけらのパンもないのだから。
ふたつさん。彼は「肉体の死」の代わりに「精神の生」を選んだのでしょうか?
わたしはそうは思わないのです。彼は虚無の中に居て、無に還っていったのだと思います。
精神か肉体か?そのような選択は存在しません。彼の存在そのものが「無」なのだから。
「世界には生きるにあたいする何ものもない」なんというあたたかい言葉でしょう。
◇
>私は最終手段として『心を生き残らせるか?』『体を生き残らせるか?』という選択においては「心の生き残り」を優先することに問題はないという考え方も持っています。
もちろん、「体の生き残り」を選択する人が居てもいいとは思いますが、そういう究極の選択においては、「体の生き残り」が「心の死」を意味するので、私はそれをいいことだとは思いません。
「心の生き残り」を優先した結果「体の死」を受け入れた場合は「心」も「死」に至るわけですが、その「心の死」が安らかなものである可能性は高くなると思います。
しかし、「体の生き残り」を優先した場合は、「心」も生き残りますが、一方で「心」が死に場所を失って、「亡霊」のようにさまようことに成ります。
だから、あまりいいことだとは思っていません。
この考えには100%同意します。
◇
>私の感覚で言うと、もしも「生きるに値する生」と「生きるに値しない生」があるとするならば、それを誰かが判定して決めなければならなくなるわけですが、それを決められる人を私は想定できません。
言うまでもなく、それを決めることができるのは、その「生」の持ち主だけです。
そしてわたしは、自分を「生きるに価しない生」であると考えています。
>それは、個人的な問題であって、広い意味での「人間の生」とは一致しないような気がしますが、どうでしょうか?
成程確かにそれはその通りであると思います。「人間には二種類あって、「生きるにあたいする者」と「生きるにあたいしない者」がいる」と言うことは誰にもできません。それはふたつさんの言うように、それをいったい誰が決められるのか?ということです。
◇
>私は、「他の犠牲の上に成り立っていない生」を想定できません。
そうでしょうか?
ふたつさんの生は一体誰の「犠牲」の上に成り立っているのでしょうか?
「罪」であり「罰」である、の彼らの生は、誰を「犠牲」に成立しているのでしょうか?
ふたつさんはそれを明確に示すことができますか?
わたしの生は紛れもなく「母の人生」の犠牲の上に成り立っています。
だから仮にわたしが自死したとしても、それは決して「肉体の生」よりも「精神(こころ)の生」を選んだのではなく、強いて言うならば、わたし自身の生よりも母の生を選んだということでしょうか。
現在のわたしの生は母の「精神の死」の上に成り立っています。
「誰かに助けてもらう」ことと「誰かに犠牲を強いる」ことを同列に扱うことはできません。
ふたつさんはいったい誰の肉体に、誰の精神に犠牲を強いて生きているのですか?
補足
削除わたしは豚肉を食べている。牛の肉を食べている。鶏肉を食べている。いろんな魚の肉を食べている。「野菜」と呼ばれる植物の生を食べている。
わたしの言いたいこと「誰の犠牲の上に生きているのか?」というのは牛や豚や鶏のいのちを犠牲にしているという意味ではないのです。
誰の人生の代わりに生きているのか?
誰に取って代わって生きているのか?
という
>私は、「他の犠牲の上に成り立っていない生」を想定できません。
という言葉に対する問いかけです。
この問いかけに対する、私なりの更なる問いかけです。
削除「豚の生」は犠牲に成ってもいいということはないと思いますし、「人間の生」が「豚の生」よりも尊重されるべき理由もありません。
従って、「人間の生」だけが特別視される理由もないような気がしますが、どうでしょうか?
もしも、「人間の生」が「その他の生」と区別されるとしたら、それは「同胞」として意識されるからだと思います。
つまり、「より近しい者」に対する「尊重」だと考えるわけですが、「より近しい者」を「尊重」するということは、その人の「犠牲」に成ることを「喜び」と感じることに通じているという考えは成り立たないでしょうか?
私は、自分と妻の関係はそういう関係だと思っていますし、Takeoさんとお母さんの関係も、お母さんはそうとらえているような気がするんですが、どうでしょうか?
また。
確かにそのように捉えることは突飛な考えではありません。
削除けれどもわたしにはやはりどうしても拭い難い「罪の意識」があるのです。
そして
>その人の「犠牲」に成ることを「喜び」と感じることに通じているという考えは成り立たないでしょうか?
このように考えることを固く自分に禁じています。
「母の犠牲の上に生かされている自分を許してはならない」
これがわたしの「戒律」です。
こんにちは。
返信削除まず、失礼しました。
底彦さんのコメントは読んでいませんでした。
私が見たときには、表示されていなかったような気がしますが、ただの見落としだったかもしれません。
いずれにしても、底彦さんの気持ちを傷つけたのでなければ、よかったと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、前のコメントの最後の部分に書き間違いがありましたので修正します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それに、「宇宙全体」が「悪」であるときには「悪」であることが
スタンダードになるわけですから、「悪」という言葉の意味は消えてしまいます。
※この部分の「悪」は「悪」ではなく「善」でした。
たいして変わらない気もするけど。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、
私は、明らかに妻の犠牲の上に生きています。
妻は私とほとんど同じような考え方を持っていて、働きたくて働いているわけでもないし、「いま」に適応して生きているわけでもありませんし、あくまでパート・タイムの職員ですから、収入が多いというわけでもありません。
Takeoさんとお母さんの関係とほとんど変わらないと思います。
ただ単に、常識的な判断に基づいてみた場合、、Takeoさんとお母さんの関係の方が「犠牲」として『わかり易い』ということだと思いますよ。
でも、私も近所の人たちから見たら「ただのダメ夫」です、大して変わりません。
違いがあるとすれば血縁があるか無いかということだけですが、それを言ったら、むしろ、お母さんはTakeoさんが存在していることに対しての責任がありますが、私の妻は私の存在に対する責任がないにもかかわらず私の「犠牲」に成っていますから、どちらかと言えば、私の方が「罪」が重いということに成りますね。
要するに、私にはTakeoさんほどの「責任感」がないというだけのことじゃないでしょうか?
これは、Takeoさんの底彦さんに対する返信の中にある言葉にも言えることですが、
神という存在は、人間が「怖れ」「畏れ」というという
感情を持ち続けるために不可欠なものであると考えてい
ます。
神・・・自分の力を超える者の存在を意識しない人間ほ
どおそろしい存在はありません。
私も、そして、おそらく底彦さんも、「自分の力を超える者の存在」を意識しています。
ただ、それが、あまりにも大きすぎる時に、『それは自分には近づくことすら出来ない』と思うか、なんとしても、『近づこうとする』かの違いだと思います。
きっと、底彦さんは途中で「ナニカ」をあきらめたんだと思いますが、Takeoさんは『諦める』ということが出来ないんだと思います。
もちろん、それを、悪いことだと言っているわけではありません。
むしろ、「諦め」=「無責任」と言ってもいいのかもしれません。
どちらかと言えば、『諦めない』の方がいいことのような気もします。
でも、ブルースは「諦め」の感情です。
だから、私は「諦めること」が悪いことだとも思っていませんし、「諦めること」で得るものもあると思っているのでブルースを聴き続けています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それに、「彼ら」だって、「誰か」の犠牲の上に生きているかもしれませんよ。
(というか、私はそう思っていますよ)
それは、「彼ら」の家族や、例えば仕事関係の人に聞いてみなければわからないことだと思います。
でも、少なくとも、私が「彼ら」の家族や仕事の部下だったら、きっとその関係性を「犠牲」と感じると思いますね。
「彼ら」は、私以上に「責任感」が無いような気もしますけど。
『オレが働いて、女房子供を養ってきたんだ!』という考え方を「責任感」だと思いますか?
ハッキリ言って、奥さんや子供からすれば「ありがた迷惑=犠牲」でしかないでしょう。
「彼ら」の言っている「自己責任」なんて、そういうものだと思いますよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
「キューブ」という映画は見たことがあります。
(テレビの深夜放送で)
たぶん、ここで紹介された映画の中で、唯一の私が見たことがある映画ですね。
たぶん二十年以上前に見たような気がしますから、細かい内容は忘れてしまいましたが、すごく面白かったので覚えています。
とにかく初めから終わりまで、ずっと興味が尽きないで見続けた記憶があります。
ただ、私は映画でも本でもそうなんですが、そういう創作されたものの中でのことを現実に当てはめて考えるということが出来ません。
なぜ?と聞かれても答えられませんが、どうも気質的なもののようです。
映画の中のセリフに、一時的に心を動かされることはありますが、どうしても、それ以上に感情移入することが出来ないんですね。
たとえば、キリスト教の牧師さんに聖書を開いて見せられて『この時、イエスはこう言っています』と言われて、『なるほど、いいこと言うなぁ』と思ったとしても、すぐに忘れてしまうのと同じような感じです。
その反面、「たまたま、そこに居ただけの人」みたいな人が言ったことをやたらと覚えていることが多いですね。
理由はわかりません。
たぶん、私は「生身の人間」が言ったことしか信用していないんだと思います。
そして、「生身の人間」にも、いつも騙されてしまいますから、それも信用できなく成って、自分すらも信用できません。
私にとって、人を信頼するということは『この人は裏切らない』ではなく『この人に裏切られた時には諦めよう』ということなんです。
けっきょく、「諦め」に行きついてしまうわけですね。
きっと、だから、ブルースが好きになったんでしょうね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
私はナニカを「諦める」ことで、ナニカが「楽になる」と思いますし、それが、ほかの人を「楽にする」こともあると思います。
「諦め」は、「楽になること」の中で、唯一「人間性」を犠牲にしないでもできることなんじゃないかと思っています。
Takeoさんは、極度にストイックなところがあるから、「楽になること」をあまり好まないかもしれませんけど、それはTakeoさんの自由選択であり自由意志だと思いますが、『楽に成ってはいけない』という理由はないような気がします。
ただ、一般的にいうと、「誰か」が楽になるということが、「誰か」の「犠牲」を生み出してしまう場合が多いということはあると思います。
私は、「諦めること」は「犠牲」を生み出さない「楽になること」だと思っています。
「諦め」も過剰になると、意味を失ってしまいますが、「責任感」や「プライド」も過剰に成れば、意味が逆転してしまうこともあります。
Takeoさんは、自分を「責任感」とか「プライド」という言葉で表現されることを好まないのかもしれませんが、やはり、外側から見ているとTakeoさんは、強すぎる「責任感」によって、自分に「戒律」を課してしまうために、その無数の「戒律」によってガンジガラメに成って身動きが出来なくなってるように見えてしまいます。
そして、その結果として「責任感」の意味が逆転して「無責任」に見えてしまうことがあると思います。
でも、その「無責任」を追及してくる人たちの言っている「責任感」と言うのは『オレが働いて、女房子供を養ってきたんだ!』という考え方に基づいていることがほとんどです。
確かに、そういう考え方に基づいていけば、私もTakeoさんも「無責任」に見えるんでしょうね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
Takeoさんは、本来は「規則」や「常識」といった「決まり事」を嫌う人だと思いますが、自分で作った「規則」には、とても律義に従ってしまうところがあるように見えます。
私は、自分で作った「規則」を守ることが、悪いことだとは思いませんが、これもやはり過剰になると意味が逆転してしまうことがあると思います。
なんでもそうですが、過剰になると逆転するというのは、一つの道理だと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後に、「ポイント・オブ・ノー・リターン」について。
私は、むしろ「ポイント・オブ・ノー・リターン」が本当にあって、ナニカが崩壊したり破綻したりするならば、その方がいいと思ってしまします。
どちらかというと、「ポイント・オブ・ノー・リターン」が「ポイント・オブ・ノー・リターン」として機能しないということが困ることの方が多いような気がします。
実際には「ポイント・オブ・ノー・リターン」をとっくに過ぎてしまっているのに、何も崩壊したり破綻したりせずに続いてしまうのが、この世の中です。
だから、時代とは連続する「ポイント・オブ・ノー・リターン」の繰り返しのような気がしますね。
これは「いま」限定のことでもないと思います。
それでは、また。
こんばんは。
削除いま、底彦さんから頂いたメッセージに返信を書いたところです。
途中で、「犠牲になる」と言う場合の「犠牲」とは、いったいどういうことを言うのだろうという疑問に突き当たりました。
>違いがあるとすれば血縁があるか無いかということだけですが、それを言ったら、むしろ、お母さんはTakeoさんが存在していることに対しての責任がありますが、私の妻は私の存在に対する責任がないにもかかわらず私の「犠牲」に成っていますから、どちらかと言えば、私の方が「罪」が重いということに成りますね。
そうでしょうか?血縁が無いということは、「責任」もないということです。心底嫌になれば別れられる関係ではないでしょうか?
いま巷では「親ガチャ」という言葉が流行っているようですが、それを言うのなら「子ガチャ」だってあるはずです。
「責任感」というよりも「罪の意識」でしょうか。
何度も引用していますが
「あらゆる罪を犯してきた。父となる罪だけをのぞいて」
(エミール・シオラン『生誕の災厄』より)
わたしは「子となる罪」を犯したのだと感じています。
母はそんな考えはナンセンスだと言いますが、これは感情の領域であって、そう感じてしまうものはどうしようもないのです。
◇
>ブルースは「諦め」の感情です。
だから、私は「諦めること」が悪いことだとも思っていませんし、「諦めること」で得るものもあると思っているのでブルースを聴き続けています。
ブルースが「諦めの感情」だとしたら、日本人とは相性がいいはずですね。
だって、日本人は「所詮そんなもんさ」といって、暴動も起こさない「ゼネスト」も「数百万規模のデモ」もしない。
わたしは「諦めることをしない」のではなく、「執着心」或いは「対象への愛着」が非常に強いのです。ですから「流れに身を任す」ことも「岸辺に座って、水の流れを淡々と眺めて」いることも出来ないのです。
わたしは「諸行無常」という観念にどうしても馴染めません。
寧ろ「森羅万象に多情多恨たれ」と言った開高健の言葉により惹かれるし、自身「諸行無常」派ではなく「多情多恨」派だなと思います。
そしてブルースは寧ろ「多情多恨」の情念ではないかと思うのですが?
◇
「キューブ」ご存知でしたか。おもしろい映画ですよね。デカルトの「三次元空間座標」とか「三桁の数列の因数」とか。そして6人が力を合わせて協力すれば全員が脱出することができたのに、そうはなりませんでした。極限状態に陥った時に、最後まで人間性を忘れたくないと考える者と、極限状態の中で、なんとしても生き残ってやるという者に分かれます。
あのような極限状態の時に必要なのが「諦め」なのかもしれないですね。
>その反面、「たまたま、そこに居ただけの人」みたいな人が言ったことをやたらと覚えていることが多いですね。
理由はわかりません。
たぶん、私は「生身の人間」が言ったことしか信用していないんだと思います。
そして、「生身の人間」にも、いつも騙されてしまいますから、それも信用できなく成って、自分すらも信用できません。
ああ、分かります。それで構わないんじゃないでしょうか。いいと思います。
「自分すらも信用できません」と言うところは深刻に捉えるべきところなのかもしれませんが、思わず笑ってしまいました。
>私にとって、人を信頼するということは『この人は裏切らない』ではなく『この人に裏切られた時には諦めよう』ということなんです。
けっきょく、「諦め」に行きついてしまうわけですね。
きっと、だから、ブルースが好きになったんでしょうね。
なるほどね。
なんだか非常に面白いコメントですね。おもしろいというのは、視点がユニークという意味です。
>私はナニカを「諦める」ことで、ナニカが「楽になる」と思いますし、それが、ほかの人を「楽にする」こともあると思います。
「諦め」は、「楽になること」の中で、唯一「人間性」を犠牲にしないでもできることなんじゃないかと思っています。
Takeoさんは、極度にストイックなところがあるから、「楽になること」をあまり好まないかもしれませんけど、それはTakeoさんの自由選択であり自由意志だと思いますが、『楽に成ってはいけない』という理由はないような気がします。
勿論『楽になること』を悪いことであるとか「堕落」と考えているわけではありません。
ただ、「諦める」と言うことは抵抗を止めるということだと思います、そしてそれはイコール現状の是認ということに繋がるので、到底わたしの感性には無理なことです。
わたしは「美に拝跪する者」ですから、醜さを醜さとして受容することは到底不可能です。
>Takeoさんは、自分を「責任感」とか「プライド」という言葉で表現されることを好まないのかもしれませんが、やはり、外側から見ているとTakeoさんは、強すぎる「責任感」によって、自分に「戒律」を課してしまうために、その無数の「戒律」によってガンジガラメに成って身動きが出来なくなってるように見えてしまいます。
うーん。「責任感」とか「プライド」という表現はわたしにはあまり関係ないと思います。わたしが雁字搦めになっているように見えるのは、この世界が醜さに溢れているからです。
醜いものを醜いと感じる。これは「戒律」ではなく「感受性」であり「美意識」の問題です。
「戒律」も「規則」「規範」もありません。わたしには「感覚」「感受性」=「快・不快」があるだけです。不快を快と感じることが不可能である以上、「楽になる」ということはあり得ないことです。
>私は、むしろ「ポイント・オブ・ノー・リターン」が本当にあって、ナニカが崩壊したり破綻したりするならば、その方がいいと思ってしまします。
どちらかというと、「ポイント・オブ・ノー・リターン」が「ポイント・オブ・ノー・リターン」として機能しないということが困ることの方が多いような気がします。
実際には「ポイント・オブ・ノー・リターン」をとっくに過ぎてしまっているのに、何も崩壊したり破綻したりせずに続いてしまうのが、この世の中です。
ポイント・オブ・ノー・リターンを実行するには、諦めとは正反対の精神が必要です。つまり現状打破です。破壊です。クーデターであり革命です。
そして怒りのないところに変化・変革は訪れません。
ふたつさん。非常に楽しい、有意義な時間でした。どうもありがとう。
またまた、どうも。
返信削除捕捉します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
ブルースにおける「諦め」とは「現状容認」や「無抵抗」とは違います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
ガンジーの「非暴力」を「無抵抗」ととらえられることがあるようですが、私は彼の伝記や映画を見たわけでもないし、本などを読んだこともないので、自分勝手に感じている彼の思想について述べると、ガンジーは、おそらく「非暴力」こそが、その時点で「最も有効な抵抗」であると考えたんだと思います。
力の弱い者であっても、「暴力」で立ち向かうことで、確かに『「抵抗」してやったぞ』という満足感は得ることが出来ますが、結果としては「敗北」が残ります。
「敗北」自体は悪いものではありませんし、むしろ「美しいもの」だと思いますが、それが圧倒的な「力の差」を前提とした場合、「あらかじめ予定された敗北」と言うことに成ってしまいます。
つまり、、それは、もはや「相手に対する勝利の献上」となってしまう可能性も出てきてしまうわけです。
おそらく、ガンジーが目指したのは「勝者、敗者なき抵抗」というようなものだったのではないかと私は推測します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
ブルースにおける「諦め」の感情も、そういったことに近いところがあります。
ブルースマンたちは、決して従順なタイプの人たちではなく、むしろアウトローであり、犯罪歴を持つ人もたくさんいたりします。
例えば、殺人級の重罪に限定しても「レッドベリー」「ブッカ・ホワイト」「ロバート・ピート・ウィリアムス」など、まだまだあげられるくらいにたくさんいて、つい一年ほど前に50くらいで死んでしまったデビット・キンブローJrという人なんかも、刑務所に入っている期間があまりにも長いので、まったく録音が少なくて、どちらかと言えばビッグ・ネームだったにもかかわらず、おそらくアルバムが2~3枚しかないと思います。
つまり、ブルースマンたちは現状を肯定しているわけではなく、圧倒的な差別の中では、自分たち黒人が抵抗すると、どんどん黒人と白人の格差が広がっていくということに気付いてしまった人たちなんです。
そして、彼らは、ほぼ全てのことを「諦め」て、アウトローとして生きる道を選んだ人たちなのです。
(彼らは決してミュージシャンを目指していたわけではないんです)
だから、「ホーム」を捨て「ホーボー」になり、『Ain't got no home』ということに成ります。
一方で、諦めなかった黒人たちはどうしたかというと、農地に縛り付けられて、どんなに働いても絶対に返せない「前借金」を払いながらシェア・クロッパー(小作人)として一生働き続けたということです。
奴隷解放後のアメリカ南部では、「シェア・クロッパー」という制度があり、ほとんどの黒人が、白人所有の土地を借りたり、所有している土地があったとしても、資本が全くないので、農耕に必要なありとあらゆるものを、白人から「前借」で買わなければなりませんでした。
しかも、すべてのモノの値段が、白人たちの「言い値」です。
いくらにするかは、全部白人が決めていいことに成っていたようです。
天候が良くて豊作だった年には、白人が高い値段を請求してきます。
つまり、豊作でも不作でも黒人の農夫が手にする金額はほとんど同じだったわけです。
だから、どんなに一生懸命働いても、その場から這い上がることは出来ません。
しかも、いろいろと難癖をつけられて、してもいない借金を背負わされたり、なんとか苦心して手に入れた土地を巻き上げられたりしたということも日常茶飯事だったと言われています。
そういう感じで、先祖が巻き上げられた土地を取り戻すための裁判を、近年に成って起こしたブルースのミュージシャン(シル・ジョンソン)も居るくらいです。
彼らにとって、「ナニカを諦めること」は、彼らに与えられた唯一の「抵抗」だったのかもしれません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、Takeoさんは、「日本人」を、従順でオカミに逆らわない民族と考えているようですが、私は、それにはやや疑問を持っています。
確かに、「いま」の日本や、日本人を見ていると、そうとしか見えないし、そう思わずにいるのも困難なくらいなんですが、日本には昔から「百姓一揆」があったのも事実だし、それから、「仇討ち」を公認していた国がほかにもあるのか?と考えてみると、調べたことはありませんから何とも言えませんが、そんな国は無いような気がします。
それに、幕末の頃の日本を考えると、かなりの勢いで人を殺してますよね。
実際に、そのころ日本に来た外国人たちは町中を歩く人が、ごく普通に帯刀しているのを見て、かなりビビっていたそうです。
それから、もう一つ。
明治維新の頃に、防錆工場などの大規模な工場が出来たときに、その工業化の指導をするためにやって来た外国人が、『日本人は、怠け者だ』というようなことを記録していたというのを聞いたことがあります。
これなんかも、「いま」の日本人からは想像しにくいですよね。
でも、江戸時代までの日本人は、どうやら従順でも勤勉でもなかったみたいなんですよね。
江戸の職人なんて、朝は早かったみたいですが、やたらと休憩ばかりしながら昼過ぎまで働いて、昼の後はさっさと仕事を切り上げて、『じゃ、ひとっぷろ浴びてくるわ』という感じだったらしいです。
なんで、「いま」の日本人がこんなにも「飼い犬根性」に成ってしまったのかは、まったくの「謎」ですが、私は、日本が世界でも最も「ヒキコモリ」や「鬱]の多い国だと思っているので、それを、一種の「救い」ととらえています。
つまり、私は「ヒキコモリ」や「鬱」を、上で述べたガンジーの「非暴力主義」やブルースにおける「諦め」に近い状態だと考えているわけです。
これ、「ヒキコモリ」の方や「鬱状態」の方たちに、偏った見方をするつもりは、まったくないんですよ。
でも、今後「ヒキコモリ」や「鬱」の人たちの数がこれ以上増えていけば、どうなると思いますか?
それを止める手立ては「現状」の中にはありませんよね?
「ヒキコモリ」は「死刑」、「鬱」は「島流し」にできますか?「いま」?
出来ませんよね?
でも、「彼ら」が言っている『~は罪であり、罰である』ってそういうことですよ。
そうなると、「現状」を根本的に見直さないとならなく成ることだけは間違いないでしょう。
だから、私が、Takeoさんや底彦さんに生き残ってほしいと言っているのは、もちろん友人として言っているのもありますが、そういう意味での「抗議活動」として、それを続けてほしいと思っているというのもあるんです。
もちろん、ナニカする必要なんかありません。
居るだけで「抗議活動」に成るんです。
その「サイレントな抗議」が、「いま」の中では「最もアクティブな抗議」であるという可能性もあると私は思っています。
私は、「ヒキコモリ」でも「鬱」でもない「普通の人=無名人」の立場でしか、「抗議」できません。
でも、「無名であること」も一種の「サイレントな抗議」であると思ってやっています。
だから、私がTakeoさんや底彦さんに対して『あなたたちは悪くない』と言っているのは、個人的なことだけではなく、もう少し大きな枠組みの中で見た場合に、『「いま」、「ヒキコモリ」や「鬱状態」の人たちの声を聴かないと、「現状」はどんどん悪く成っていきますけどいいんですか?』という「いま」に対する「問かけ」という意味で言っている部分もあるんです。
「現状」が悪く成って困るのは誰なんでしょうねぇ?
こっちは、もうこれ以上悪く成りようがないんで、あまり困りませんけどねぇ。
『どうしますぅ?』
『まだ、続けますぅ?』
『・・・・・・・』
『じゃ、どうぞ』
ということなんですが、
『なんで、やめないの?不思議だねぇ』
『わたしゃ、ミイラに成っても抗議し続けてやるよ』
という感じ。
それでは、また。
こんばんは。
削除>そして、彼らは、ほぼ全てのことを「諦め」て、アウトローとして生きる道を選んだ人たちなのです。
(彼らは決してミュージシャンを目指していたわけではないんです)
だから、「ホーム」を捨て「ホーボー」になり、『Ain't got no home』ということに成ります。
うーん。いいですねえ。社会批判をするでもなく、社会に従順になるでもなく、枠外で、埒外で生きる。「第三の道」が「アウトロー」でしょうか?
わたしの感覚では、「諦める」というよりも、(社会を)「捨てる」と言うニュアンスに近い気がします。
◇
明治を境に日本人は大きく変わりましたね。
「江戸っ子の生まれぞこない金を貯め」とか、宵越しの銭を持たないのが江戸っ子の心意気だといった美意識が江戸時代にはありました。江戸っ子は殊に金に執着するものを蔑んでいました。
ニ.二六事件の首謀者の一人として処刑された北一輝は、刑務所の中で、「この国には永遠に革命は起こらない」と言いましたが。仮に明治以前の日本だったらどうだったでしょう。
明治を境に日本人はまったく違う民族になってしまった感があります。
◇
>私は、日本が世界でも最も「ヒキコモリ」や「鬱]の多い国だと思っているので、それを、一種の「救い」ととらえています。
つまり、私は「ヒキコモリ」や「鬱」を、上で述べたガンジーの「非暴力主義」やブルースにおける「諦め」に近い状態だと考えているわけです。
今後「ヒキコモリ」や「鬱」の人たちの数がこれ以上増えていけば、どうなると思いますか?
それを止める手立ては「現状」の中にはありませんよね?
「ヒキコモリ」は「死刑」、「鬱」は「島流し」にできますか?「いま」?
出来ませんよね?
でも、「彼ら」が言っている『~は罪であり、罰である』ってそういうことですよ。
そうなると、「現状」を根本的に見直さないとならなく成ることだけは間違いないでしょう。
◇
確かに頷けるところもあるのですが、いわゆる「引きこもり」や「鬱病」の患者さんたちと、上で述べられているブルースマンたちと違う点は、ブルースマンはそうせざるを得ない様々な状況があったにせよ、主体的に「ホーボー」「アウトサイダー」の道を選んだのではありませんか?
一方「引きこもり」や「鬱」の人たちの状態は精神の障害と言って差し支えないでしょう。
何故なら「引きこもり」の人たちは外に出られないことで、「鬱」の人は疾患に伴う様々な症状のために明らかに「苦しんで」います。
わたしの知る限り、現在「引きこもり」と呼ばれている人たちの目指すゴールは、なんらかの形の社会復帰です。つまり「彼らの不在」は社会にとって大きな痛手かもしれませんが、現実には社会にダメージを与えている者の誰一人として、望んで引きこもっていたり鬱状態でいるものはいないと言う点についてはどうでしょうか?
「引きこもり」「鬱」は現代社会の典型的な「病理」であって、当事者たちは苦しんでいます。そして彼ら・彼女らのほとんどは、一日も早く「いま・そこにある社会」に戻りたいと望んでいます。それを「声なき抵抗」と位置付けることは無理があるように思われるのです。
>その「サイレントな抗議」が、「いま」の中では「最もアクティブな抗議」であるという可能性もあると私は思っています。
「サイレントな抗議」を「アクティヴィな抗議」であるとみるよりも、わたしは真の「アクション」を希みます。
「ひきこもり」や「鬱」を社会に対するサボタージュ或いはハンガーストライキと同一視することは無理があるように思えるのです。何故なら、繰り返しますが、彼らは「社会復帰を諦めない者たち」だと思われるからです。
どうも、こんにちは。
削除「サイレント」と「アクション」が、イメージ的に一致しないというのは、ごく当然のことだと思います。
どちらかと言えば、私の言っていることに無理があります。
ただし、それは「まともな考え」が通じる場合に限ってであって、「いま」という時代にあっては、私は「まともな考え」は通じないし、「全てが逆転している時代」にあっては「進むこと」は「戻ること」であり、「アクション」は「ノーアクション」であり、「サイレント」が唯一の「アクション」となる、という可能性を言いたかったんですね。
あくまで可能性の範囲での話なんで、『必ずそうなる』というつもりはありませんが、少なくとも、私は、「いま」という「おかしな時代」の「おかしな光景」の中で、「アクション」を起こすと、どんどん「いま」にエネルギーを与えることに成っていくような気がしているわけです。
実際に、この数十年間の間に、海外であっても「抗議活動」が『社会全体を変えた』というのを聞いたことはありません。
いつも結果的には、「社会」という「巨大なマシーン」に、ちょこっと油をさしたというようなことにしかならない。
しかも、油をさしたことで、かえってマシーンの調子が良く成ったりすることもある。
もちろん、これは「抗議すること」自体を否定しているわけではありません。
でも、結果が、あまりにも「逆」ということが多すぎるんですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、「ヒキコモリ」や「鬱」の方たちのことを「サイレントな抗議」と見立てているのは、『「ヒキコモリ」や「鬱」という「存在自体」が抗議である』という考え方によるものです。
だから、どういう気持ちでヒキコモッテいても、同じなんです。
もちろん、本人が「抗議」の意思を持っていることも重要なことではありますが、私は、それ以上に「数の力」を重視します。
だから、「ヒキコモリ」や「鬱」の人たちが増えていくことで、それが「抗議」としての「本来の姿」を表してくると思っています。
ただ、その過程で苦しむ人が増えてしまうことには心が痛みますが、それこそが、私が、それを「犠牲」であると考える理由でもあり、どうしても「抗議」には「犠牲」が伴ってしまうということだと思います。
そして、だからこそ、そういう人たちには、少しでも「楽」な状態でいてほしいと思いますし、また、自分が「抗議する者」であることに対して「誇り」を持っていてほしいと思っているわけです。
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次に、「ヒキコモリ」や「鬱」の人たちが、「社会復帰」を目指していることについてです。
例えば、登校拒否に成ってしまう子たちの中でも、初めから『もう、学校に行きたくない!』と言える子は、むしろ少なくて、多くの子が、まず初めに『朝、起きられなくなり』次には『お腹が痛くなり』次には「頭も痛くなり』次には『風邪もひいていないのに熱まで出るようになり』そして、どうしていいのかわからなくなった親がどこかに相談して、本人によくよく聞いてみると、『いじめグループに仲間外れにされていた』とか、『クラスに一人も友達がいなくて、何をするにも独りぼっちだった』ということが発覚するというケースが多いというのをよく聞きます。
Takeoさんは、多くの「ヒキコモリ」や「鬱」の方たちが、「社会復帰」を望んでいると、本当に、そう思いますか?
私は、それをあまり信じていません。
これは、その人たちの言っていることを信用しないとか、『どうせ、本当はただ単に働きたくないだけなんだろう』という考え方とは全く逆で、むしろ、本当は「魂の奥からの抗議の現れ」であるんだけれど、それが言葉で表せずにいるんじゃないか?という疑いです。
人により、考え方の形はさまざまだと思いますが、私は、そういう状態の人たちの「深層心理」の奥底には、『あんな現実社会には、二度と戻りたくない!!』という気持ちがあると思っています。
(だって、そう考えた方がはるかに自然でしょ?こんな「いま」に戻りたい人なんか居るわけないじゃないですか?)
ただ、これは直接その人たちに言うことは出来ないことで、このブログではTakeoさんが、いつもそういう話をしているから言いやすいけど、そういう人たちは、それを言われることを嫌うでしょうから、なかなか言えません。
そして、これも「イジメられている子」が、なかなか『ぼくは、学校でいじめられているんだ』と言わないのや、「親に虐待されている子」が、逆に『親をかばう』のと似ています。
「いじめられている自分」という「自己像」は、誰だって認めたくないし、「親から虐待されている自分」なんていう「自己像」を認めてしまったら、それこそ最悪ですからね、認めたくないというのが当然だと思います。
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私は、そういうのと同じ心理構造の中で、『社会復帰を望んでいる』という言葉が出てくるんだと思っています。
確かに、「社会復帰」を全く望んでいないというのとも違うと思います。
ただし、それは「いまのままの社会」に「復帰すること」ではなく、「自分にも居場所がある社会」に『復帰したい』ということなんじゃないでしょうか?
でも、いろいろ考えていくと「いまの自分」のままでは「いまの社会」の中では「居場所」がないから、「いまの自分」を変えて、「いまに適応した自分」に成れば「社会復帰」できるに違いない。
これが、そういう状態にある人たちの考え方だと思います。
いつの間にか、変わるのが「社会」から「自分」にすり替わってしまうんですね。
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ちょっと、話がそれますが、
例えば、そういう状態にある人たちの中でも、現状肯定的な考え方の人は『「社会」に変わってほしいとは思わない』と言うことがあるのかもしれません。
でも、そういう人も、すべての現状が「現状否定」から生み出された現状であることは否定できないはずです。
少なくとも、そういう人たちが「革命以前」を生きているわけではありませんから。
つまり、「現状」というのは「連続する現状否定の一瞬を切り取った今」にすぎないわけです。
全ての現状が、「現状否定」によってもたらされたものであるのに、どうして「現在進行中の現状」だけが『肯定されるべき!』という「石頭的な思考」が可能になるのか、私にはわかりませんが、というか、『現状を肯定すべし』という考え方は、私に言わせれば、『自分には時間を止めることが出来るよ』と言っているのに等しい考え方だと思いますね。
時間が進行するということ自体が「現状が否定されていく様相」のことなので、「現状を肯定するということ」は、口だけで言うことは出来ても、実際には、時間を止めることが出来ない限り不可能なことだと思います。
時間の進行がある限りにおいて、物理的にも精神的にも、また、その他のあらゆる事象において、「現状」は否定されて続けるわけです。
もし、こういう話ではないのだとしたら、ただ単に『ぼくは、この「ぼくにとって都合のいい世の中」に続いていてほしいから、それを肯定する』と言っているに過ぎませんからね。
(こっちの説の方が有力?)
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続く・・・
・・・続き
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さて、
話を戻すと、変わるのが「社会」から「自分」にすり替わってしまうのは、すべての人が『社会に適応できる人間が優秀な人間である』という「催眠術」をかけられてしまっているからです。
その「催眠術」をかけたのは、人間ではなく「システム」としての「社会」です。
「社会」は、あくまで「システム」であって「人間の意志」を持ちませんし、多くの場合「人間の意志」を無視します。
※もちろん、私自身も「催眠術」にかけられています。
だから、あえてその「催眠術」に抵抗していないと
自分の意志で考えたり行動したりできなくなります。
しかし、ほとんどの人が、誰からも、それが「催眠術」だとすら言われませんから気づきようがありません。
それで、当然、さらに深い催眠状態に落ちていくわけです。
そういう状態の人がたくさん居るから、『社会復帰を目指しています』という話に成ってしまうわけですし、また、この言葉を言うことで「社会」の側もその人を容認するという傾向があるので、少しだけ生き易く成るという意味でも、二重に『社会復帰を目指しています』という言葉から抜け出せなくなってしまうわけです。
つまり、これを言い続けている限りは、一応居場所を与えられるという構造に成っているわけですね。
しかし、これはある意味では、「従順な奴隷」と同じ構造の「罠」で、『ありがとうごぜえます、旦那様』と言っていさえすれば、「いい奴隷」という居場所が与えられるというのと同じことだとも言えるわけです。
そして、その比較的安全な居場所から抜け出せなくなるという「罠」でもあるわけです。
(それでも、その居場所に逃げ込めるなら逃げ込んでもいいと思いますが)
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ただ、私自身は、やはり初めに言ったように「数の力」を重視しています。
現在、すでに「社会からドロップ・アウトしている人」の数が想定外の数に成ってきています。
早い人は、小学生の段階でドロップします。
「生涯にわたって一度もドロップしない人」は少数派に成りつつあると言ってもいいいほどです。
ところが、そうなってくると、たまたま「生涯にわたって一度もドロップしない人」の家族までも含めて「生涯にわたって一度もドロップしない人」である確率は、かなり低くなってきます。
例えば、四人家族の中に一人でも「ドロップ・アウター」が居れば、それで四人家族の全員が苦しむことに成ります。
(っていうか、それで苦しまないでいられる人ってどうなの?)
場合によっては、無理に「社会復帰」させようとすればするほど、本人も家族も苦しむことになるでしょう。
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こういうのを、私は「サイレントな抗議」と呼んでいます。
決して「綺麗ごと」ではありません。
『肉を切らせて骨を断つ』という感じでしょうか。
その『肉を切らせて』の部分を「犠牲」と呼んでいます。
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「いま」という時代の中で、「ヒキコモリ」や「鬱」の人たちに限らず、さまざまな形で、多くの人が「いま」からなんとか逃げようとしています。
(ほとんどの人が意識せずにやっていることですが)
私は「絵」を描くことで、自分の描いた「異・現実の世界」に逃げ込んでいます。
(私も、はっきり意識するようになったのはつい最近ですが)
私が言いたいことは、
『どんな形でもいいから「いま毒」の届かない場所を見つけて(創り出して)、一人でも多くの人にその場所に逃げ込んでほしい』
ハッキリ言えば、どこでもいいんです。
例えば、刑務所だって選択肢に入るくらいで、「いま」と「牢屋」どっち取りますか?
「牢屋」でしょ?
というくらいです。
(これは冗談で、実際は刑務所はけっこうきついと思います)
Takeoさんも底彦さんも、居場所が全くないという状態ではないのかもしれませんが、でも、その場所に「居場所」としての「安心感」を得られてはいないような気がします。
もちろん、Takeoさんで言えば、『外に出られない』ということが致命的なことなのはわかりますし、底彦さんで言えば、上に書いたような『自分にも居場所がある社会に復帰できる』のが一番いいと思いますし、どちらも、当然の権利です。
ただ、「いま」は、そういう状況ではありません。
『どこでもいいから、そこに逃げる』
これが「いま」の中では、ただ一つの「出来ること」です。
その場所を創るために、最低限必要になるのが、上に書いたことの中の「自分の現状」に「抗議する者」としての「誇り」を持つことに成ります。
だから、「自己否定感」にさいなまれる生活の中の「最後の砦」として、自分が「サイレントな抗議をしている者」であるということだけは忘れないでほしいと思います。
もう一度言います。
「サイレントな抗議」は、その人が「ドロップ・アウター」であるという事実だけで、すでに成立します。
それ以上、何もする必要はありません。
もしも、自殺したとしても、「サイレントな抗議の声」が消えることはありません。
だから、ご自分自身の中の「ドロップ・アウター」の部分だけは否定しないでほしいですね。
そこだけは、間違いなく「美しいもの」ですから。
たとえ、それが人に迷惑をかけたとしても、それだけは変わりませんから。
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それでは、また。