最近愛読しているブログがある。 折々に感じたことを1・2行ほどの字数で表現する。
簡単そうで、わたしにも出来そうにも思うが、わたしが書くとどうしても「箴言」のようになってしまう。或いは「定義集」か。
そのブログが先日、こんな投稿をしていた。
「臨機応変」
書けない時は 読む
実は今日読み返すまで、「書けない時は 寝る」だとばかり思っていた。その方がわたしにとってすんなりと納得できるからだ。
書けない時は読む・・・わたしにいわせれば「読めないから書けない」のだ。
なにも読む気になれない。DVDで映画を観る気にもならない。枕元に置いてある、母に頼んで図書館から借りてきてもらっている本を、気まぐれに数ページ読んでみるが、すぐに気分が沈んでしまう。
いつも4~5冊、図書館のホームページを通じてリクエストして、母に運んで来てもらっているが、結局読めずに返却することの繰り返しだ。
胸の奥に「いい文章を書きたい!」という強い欲求はあるのだけれど、良質のインプット無しに、よい文章は書けない。
孤独なのだ。紹介したブログのタイトルじゃないが「文字のみ」(正確なタイトルは『文字の実』)ではなく、ひととのつながりを欲しているのだ。
これも図書館から借りているサイモン・アンド・ガーファンクルの「早く家にかえりたい」
(Homeward bound) の歌詞の一節にある
という部分だけが浮き上がって、「太字で」聴こえる。
・・・若い頃は、「明日に架ける橋」の歌詞に涙を流したこともあったけれど、今はそれも、キャロル・キング(あるいはジェイムス・テイラー)の「きみの友だち」(You've Got a Friend) の歌詞も、まるで信じちゃいない。
このあいだ、「頑ななまでに自分の美意識に忠実と言えなくて、なんの「わたしのブログ」か!」と書いた。
【かたくな】という言葉を辞典で引いたら、こう書かれていた。
「頑固なこと。心がひねくれて片意地の強いこと」
『岩波国語辞典第二版』より
こころがひねくれて、か。いいさ。
追伸です。
返信削除すいません、シオランがいつの人だか知りませんでした。
勝手に、第二次大戦前ぐらいまで生きていた人かな?というイメージで書きました。
少なくとも現在の人ではないでしょうから、話の内容に、それほど影響はないと思いますが、時代の話だったので影響があれば、適度に調整して読んでください。
どうぞ、よろしく。
こんばんは、ふたつさん。
削除シオランの時代をご存じないということは、「検索」して調べなかったということだと解釈します。それでいいと思います。
ちなみに彼は80年代まで生きた人・・・だったと思います。(何冊も彼の本を読んでいるのですが曖昧です)。
たった今、シオランの生没年を調べようと思えば、10秒で答えを知ることができるでしょう。わたしはそれが「イヤ」なんです。不便な時もありますが、それがわたしの「限界」であると考えています。
◇
「神」に関して言えば、このシオランの言葉に100%共感します。
わたしは特定の信仰の対象を持ちませんが、自分が極めて弱い人間であるということをよく知っています。ですから、どうしても、自分を含めた「人間の存在」よりも「大いなるもの」への力に頼る必要があるのです。
先日アートを捜していて、戦場で負傷し、担架で運ばれている若い男性兵士が、掌ではありませんが、両の指先を合わせている写真を観て共感しました。日本人ではなく、何処の戦場かも確認しませんでしたが、おそらくベトナムではないかと思います。
人間よりも巨きな存在・・・もちろん山に向かって、空に向かって頭(こうべ)を垂れ、「祈る」ことも出来るでしょうけれど、やはり祈りの対象は、ニンゲンにより近い姿がいいように思えるのです。「祈りの対象」についてはもう少し考えてみます。
◇
>私にとって、「神」とは、すぐに人を裏切る「人間」であり、気が付くとそっぽを向いている「人間」の象徴にすぎません。
いくら偶像化されていて、理想化されていても、私にとっての「神」は「人間」の延長上にある偶像化された姿にしか思えないので、私にとって「神との対話」は「人間との対話」と同じなんです。
(「自分との対話」は孤独を癒してはくれませんよね)
わたしは「神」という存在について定見をもっているわけではありませんので、上記のふたつさんの気持ちについては何とお応えしたらいいのかわかりません。
ただ、シオランの言葉に全面的に賛同しながらも、ふたつさんの「裏切る神」「見捨てる神」については理解できます。けれどもおそらくわたしにとって神との訣別は自死を意味するものであろうと考えます。
何故なら、人は知らず、わたしは一切の「支え」なしに生きてゆくことは不可能だからです。
◇
わたしはYou Tubeに関しては、「視るもの」ではなく「聴くもの」という感覚があるので、音楽を聴く以外(その間もパソコン上では他の画面を観ています)「動画を視る」と言う習慣がありません。おそらくテレビを視る習慣がないのと同じだと思います。
このブログでは、ふたつさんをご存知の方もいらっしゃると思いますので、チャンネルのリンクは自由に貼っていただいて構いません。(コメント欄に書きこんでいただければそれを公開します)
上記の理由から、わたし自身が閲覧するかどうかはわかりませんけれど。
わたしには観たい映画が何本もあります。けれども、それがYou Tubeで、日本語字幕付きで放映されたとしても、おそらくは観ないと思います。「絶対に」とは言い切れませんが、多分。
わたしはパソコンで映画を観ることの不自然さには慣れません・・・
それからわたしがふたつさんの詩と絵が好きなことは既にご存知ですよね。
◇
>「いま」と言う時代の中には、話す相手が居ても孤独な人間がたくさんいます。
つまり、その人が孤独なのではなく「いま」が孤独な時代なんだと思います。
これがシオランの孤独と「いま」の孤独の違いですね。
「今」が孤独な時代であるのか、わたしにはわかりません。そのことは既に、
「消えたのか?見えないだけなのか?」などの投稿で触れています。
前から言っているように、わたしは「スマホ人」と「孤独」というものを重ね合わせて考えることができません。「スマホを眺める孤独な人」という表現自体が矛盾ではないのかと思うのです。
「スマホがあれば孤独ではない時代」── わたしは「今」をそのように見做しています。
>私のような呑気な人間までも『孤独を選ばされてしまう』のが「いま」という時代ではないでしょうか?
わたしにいわせれば、ITの進化(=変化)についていけない(いかない)者が否応なしに孤独を選ばされてしまう時代が、今だということだと思うのです。
◇
>「大衆が要求するもの」を提供するということは、「エンターテイメント化」するということに他なりませんが、それは、ジャーナリズムの役割ではないでしょう。
>少なくとも、権威のある立場にある人間が、そういうことを言えば、その下に居るジャーナリズム全体が、そのふやけた姿勢に従わされてしまうことに成るのは明らかであって、自分の立場をある程度でもわきまえているならば、体制に同化するような発言ではなく、むしろ大きなものに反意を唱えるというのがジャーナリストとしての姿勢であると、私は思いました。
>つまり、一言で言ってしまえば、彼の発言は、上から下に向かっての「力」を持ってしまっています。
やはり、ジャーナリズムの持つ意味は下から上に向かう「力」となることだと思いますね。
これには全面的に同感です。
尚、「ビタさん」に関しては、わたしの最も軽蔑する人間の一人と交流があるという時点で、既にしてわたしとは無縁の人です。
蛇足乍ら付け加えておきます。
更に蛇足を付け足すなら
ふたつさんはわたしが「ぼく自身・・・」から離れた時に、わたしについてきてはくれなかった。勿論「裏切り」などではないけれど、「見捨てる者」であったということです。少なくともわたしにとっては・・・
>私にとって、「神」とは、すぐに人を裏切る「人間」であり、気が付くとそっぽを向いている「人間」の象徴にすぎません。
「人間とはそういうものだと」ご自身で仰っていますものね。
Takeoさん、こんにちは。
削除Takeoさんがおっしゃる通り、私自身も「裏切る者」であると思っています。
ただ、Takeoさんの言葉の中には、「裏切らない者」が存在するという意味が含まれているように思います。
私には、「神」も含めて「裏切らない者」の存在は想定できません。
だから、自分のことも信用しません。
そして、だからこそ「迷う」わけです。
「信仰」は「迷い」を排除することだと思っていますので、私には無理ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それとは、別に、私は私がここから離れたTakeoさんについていかなかったことを「裏切り」だとは思っていませんでしたが、確かコメントでもそういうことを伝えたと思いますけど、Takeoさん自身にとっても、その方がいいと思ったのでそうしましたし、Takeoさん自身もそう思っているから、今もここに戻っているんじゃないんですか?
もちろん、そういう取り方をするのもわからなくはないですが、でも一方で、Takeoさんが私がここを見たりコメントを入れたりするほどたくさん、私のブログを見ていたりコメントをくれたりしたわけではありません。
それを、私は「裏切り」だと思いませんが、どうして、私がTakeoさんのブログについていかないと「裏切り」で、はじめからあまり見ていないTakeoさんは「裏切っていない」ということになるんでしょう?
もしも、Takeoさんも私のブログをたくさん読んでいて、たくさんコメントを入れてくれていたならば、対等だと思いますし、そういうときに片方が「ついていった」のに、もう片方が「ついていかなかった」、これなら、なんとなく「裏切り」っぽい気もしますが、あくまで、私は一方的な読者ですから、「裏切り」ということ自体が成立しないと思いますが、どうでしょうか?
「裏切り」は「読者」と「書き手」の間では、「書き手」の側にしか成立しないと思いますよ。
例えば、アマゾンで本を売る辺見さんにTakeoさんが「裏切られた」ということは成立しますが、辺見さんが、アマゾンについてきてくれなかったTakeoさんを「裏切り」だというのは成立しません。
「発信者」からの「裏切り」は成り立ちますが、「受け手」側の「裏切り」ということは成り立たないと思います。
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それから、これは前にも言ったことですが、「ゲーム」についてです。
これは、Takeoさんを責めたりする意味で言うわけではないので、誤解のないようにしてほしいんですが、私は人との会話に「ゲーム」を持ち込むのが好きではありません。
なぜならば、「ゲーム」は勝敗を競うものだからです。
だから、議論は好きですが、討論には全く興味がありません。
相手を論破しようとする人とは話をする気に成れません。
Takeoさんの場合は、「論破」を目指していないことは間違いないと思いますけど、「ゲーム」を感じる時はあります。
例えば、上のコメントにもあるように、ここを離れることで『こんな自分にもついてきてくれる人がいるのか?』また『誰がついてきてくれるのか?』ということを試す「ゲーム」に成ってしまっていると思います。
Takeoさんは、そういう意図でやっていることではないのかもしれませんが、結果的にそうなっていますし、確かに、Takeoさんの判断も、その「ゲーム」から下されてしまっています。
おそらく、Takeoさんは、どこかで私が「裏切っていない」のを知っているんじゃないかと思いますが、(少なくとも、『もしかすると裏切っていない』ぐらいには思っているんじゃないかと思います)、その判断よりも「ゲーム」の結果としての判断の方に強く影響されてしまっているように見えるんですね。
でも、考えてみてください、私がTakeoさんのことを『こんな奴には、もう付き合いきれん』などと言うことが考えられますか?
だったら、もっと早くそうしていると思いますよ。
前から何度も言っていることですが、私にとっては「書くこと」「読むこと」は、けっこうな負担に成ります。
それでも、私はここでたくさんの文章を読んで、書いてきたと思います。
これは勝手な想像ですが、今まで、Takeoさんを見限ってきた人たちは、おそらく文章を書くことや読むことに長けた人たちで、書いたり読んだりすることにそんなに抵抗がない人たちだったんじゃないかと思います。
前にも言いましたが、私はそういう人たちとは、根本的に違います。
私の高校卒業時の偏差値は35ぐらいで、30歳になるまで、本なんて2・3冊しか読んだことがありませんでした。
Takeoさんを見限った人たちの中に、そんな私と同じぐらいたくさん書いたり読んだりした人がいましたか?
きっと、そういう人たちは、私よりも簡単に書き簡単に読んでいたとしても、もう少し早い段階でTakeoさんを見限っていったと思うんですが、どうでしょう?
これは、底彦さんやjunnkoさんにも言えることかもしれませんが、きっとTakeoさんを切り捨てたりすることはないと思います。
離れることはあっても、完全に切り捨てることはないでしょうね。
瀬里香さんも多分ないと思います。
今、このブログを見ているかはわかりませんが、きっと瀬里香さんの中にもTakeoさんは残っているはずです。
例えば、Takeoさんには「親友」と呼んでいる人がいましたよね。
いま、Takeoさんはその方と離れていますが、その方はTakeoさんを「裏切っていない」と思いますし、Takeoさんもその方を「裏切ってはいない」と思います。
だからこそ、「親友」と呼び続けているんでしょう。
私の場合は、そういう他の方たちとは違って、Takeoさんにとって異物的な要素が多いので、Takeoさんが、『切り捨てられたに違いない』とか『この人は友ではない』と思うのもわかりますが、実際に、私がやってきたことを見てもらえば、それが違うことはわかってもらえると思っています。
前にも言いましたが、私はインターネットの世界の中にコミュニケーションというものは成立しないと思っています。
だから、最初から、ここでのやり取りもすべてバーチャルなものだと考えています。
つまり、現実ではなく仮想現実だと思っています。
だから、正直なところでは、すべてを疑ってかかってしまうところもあります。
でも、それと、私がここで使ったエネルギーとは別のことだと思っています。
私は、間違いなくここで多くのエネルギーを使ったし、その反面ここから、それ以上のエネルギーをもたったと思っています。
それはここでのコミュニケーションがバーチャルであったとしても変わらないような気がします。
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YouTube を始めたのは、不特定の人に絵を見てもらう場所がなかったからです。
美術のブログは美術に興味がある人しか見ないので。
今は、インターネットが支配している世の中なので、そこから外れると一気に居場所を失います。
私自身も、YouTube では音楽しか聴いていませんでしたが、そこにしか行く場所がなければ、そこに行くしかありません。
Takeoさんは、そうまでして「生き残って」どうするんだ?
というかもしれませんが、私は『「からだ」は死んでも「こころ」は生き残る』と思っています。
「自殺」とは「心の生き残り」のための最終手段だと思います。
だから、否定はしません。
でも、
なんで「あなた」が一方的に殺されなければならないのか?
なんで「わたし」が死んで、「だれか」が生き残るのか?
と考えると、やはり私は、無理しても「生き残る」方を選択しますね。
「死ぬ」方を選択する人は勇気があるのかもしれませんが、私にはそういう勇気はありません。
『死ぬのが怖い』というよりは、『殺されることに耐えられない』んですね。
私は「いま」の中で自殺することは、「いま」に殺されることだと思うんですよね。
それで『「いま」には殺されたくない』と思ってしまうわけです。
「からだ」を生き残らせるのは「心を生き残らせる」ための手段です。
私にとっては「絵を描くこと」も「心の生き残り」の手段だったということに、YouTubeやタンブラーをやって、あまりにも誰にも見られなかったことで、気付いたような気がします。
つまり、私にとっての「絵を描くこと」は、ほかの人にとっての芸術や美術とはかなりかけ離れていることだったんだなと思いました。
だから、私の絵は「絵」とすら認識されていなかったんじゃないかと思います。
これは「詩のような題」についても同じです。
「詩」とも認識されませんし、ましてや、「タイトル」なんですよ、と言っても誰にも聞いてもらえませんでした。
それでは、また。
Takeoさんがどう思っていても、私にとってはTakeoさんは「友達」です。
こんばんは、ふたつさん。
削除まず、誤解があるようなので、そこをきちんとしておきたいのですが、わたしはふたつさんを「裏切り者」であると思ったことも、またどこであれそのような気持ちを記したこともないつもりです。
昨日、久しぶりのコメントをもらうまで、わたしにとってふたつさんは、「自分を裏切った人」ではなく、「わたしが困った時に助けてくれなかった人」という存在でした。
けれども、よく考えてみれば、「これまで一緒にいてくれたのだからこれからも、いつまでもついてきてくれるはず」という考えは何ら根拠のない「甘え」といわれても仕方のないものであると気づきました。
仰る通り、わたしは「与えられる」一方で、こちらからふたつさんに対して「与えた」「助けた」ということはありませんでした。
わたしは鈍感にも気が付きませんでしたが、わたしたちの関係は決して平等ではありませんでした。
ふたつさんは「与える者」で、わたしは「受け取る者」という不平等な関係でした。
繰り返しますが、過去も、昨日までも、現在も、ふたつさんに対して「裏切られた」という気持ちを抱いたことは一度としてありませんが、その代わりとして、わたしのこころの中にあった「見捨てられた」という感情はやはりわたしの身勝手な「あまえ」であったと、今、思っています。
また、追伸です。
返信削除いつも、何か書き忘れてしまいますね。
私のYouTube チャンネルについては、現在はほとんどの投稿を削除してしまいました。
余りにもダメだったので、いったん白紙に戻したかったので。
そういうわけですから、ここでご紹介いただいても、見るべきものはありませんので、もしも、また、納得のいく投稿などが出来ましたら改めてお知らし致しますので、その時に、まだその気があれば、よろしくお願いいたします。
それから、これは、前から気に成っていて言いたかったことなんですが、タンブラーでTakeoさんのフォローをお断りしたことがありましたが、あれは決してTakeoさんに対して悪い意味があったわけではなく、本当はけっこう嬉しかったりもしたんですが、ただ、その時点で私はTakeoさんにたくさんフォロワーがいることを知っていましたから、そういう「有利」を使いたくなかったんです。
実際にTakeoさんは、私の絵を投稿してみてわかったと思いますが、私の絵は何度投稿したとしても薄い反応しか返ってこなかったと思いますけど、それでも、Takeoさんが投稿すれば、私の実力とは無関係にそれを見てもらえる機会が多くなることだけは間違いありませんから。
それ以外にも、あの時言ったように『自分の絵を見つけ出してほしい』という気持ちもありましたが、そういう意味でも悪意はありませんので。
ただ、一つだけ言うと、私は「知り合いの作品」と「知らない人の作品」とは全く別物だと思っています。
あの時Junkoさんが言っていたことで印象に残っているのは、『しばらく見ていたらだんだん好きになってきた』という言葉です。
もちろん、Junkoさんの言葉に悪意などは感じませんでしたし、お世辞だとも思いませんでした。
でも、その「しばらく」が、なかなか見てもらえないんです。
Takeoさんはたくさんアートを見ているからわかるでしょうが、人が「誰だか知らないような人の絵」を見て、その絵についての判断を下すのに、おそらく0,5秒もかけていません。
「ちょっと気になる絵」でようやく1秒ぐらい。
それが「誰だか知っている人の絵」だと10秒見ても好きになれない場合は20秒見てくれます。
それで、Junnkoさんは私の絵の中になんとか好きな部分を見つけ出してくれたんだと思います。
すでに自分が好きだと知っているスタイルで描かれた絵はよく見てくれますが、そうでない絵は、よくても0,5秒、下手すれば0,1秒以下です。
オーバーじゃありません。
ほんとに一瞬のうちに切り捨てられてしまいます。
自分が何か月もかけて描いた絵でも、何の気なしに鉛筆をぐにゅぐにゅっとやっただけの絵でも、同じ0,1秒。
それが、無名な創作者に与えられた時間です。
そういう意味で、見られる機会が増えるということ自体が「有利」なんです。
私は、自分の絵がたくさんの人に好かれることはないと思っていますから、せめて「有利」な条件だけは使わないようにしようと思っているんです。
ほんとのこと言えば、私も出来るだけたくさんの人に見てもらいたいと思っていますし、そのために、いろいろやっているわけですが、どっちに転んでも100人とかそういうレベルなんだと思いますから、せめてメイッパイ「不利」な条件での100人を目指したいと思うわけですね。
まぁ、そんなところです。
YouTube の場合は、Takeoさんもここを見ている人もあまり影響力はないでしょうから、もしも、YouTubeで、まともな動画が出来たらお知らしするかもしれません。
(今は、出来る気がしないので)
それでは。
追伸があったことにたった今気づきました。
削除You Tubeのリンクについては、いつでも気が向いた時に、納得いくものが完成した時にでも、未完成の状態でも、こちらにお伝えくだされば公表いたします。
わたしも絵を捜すときには、ほんの一瞬で「スキ」かどうかを判断します。判断といっても、頭で「判断」するわけではなく、文字通り「第一印象」で取捨選択していきます。
絵画に関しては、有名な作者は意図的に避けているつもりですが、それでもラファエル前派や象徴主義の画家たちの絵には抗しがたい魅力があり、つい、アート好きなら名前は知られているような画家の絵をポストすることもあります。
もっとも、「無名な画家を選んで・・・」といっても、例えば先日このブログに投稿した、英国のスペンサー・ステファン・ローリーなど、日本ではほとんど無名ですが、本国では「メジャー」なアーティストですので、わたしをフォローしてくれている人たちにとっては、マイナーな画家ばかりを投稿する人とは思われていないと思います。
またこれも先日書きましたが、わたしの見る限り、名の知られたブログが投稿したものは、ほとんどなんでも多くの反応があるように思えます。そういう意味で、ひとの審美眼を曇らせるような巨大ブログにはなりたくないと思っています。(苦笑)
有名・無名を問わず、わたしに関して言えば、誰の絵であろうと、一瞬で、直感で決めます。
追伸
削除ドロローサは、フェイスブックで、現在9万ほどのフォロワーを持っていますが、そこまでになるともう何を投稿しても、数百のリアクションが付く。
これはSNSを使うことのアドバンテージと言えるでしょう。同じ絵でも、ブログではそうはいきません。
できる限り有利な条件を排除するという姿勢に共感します。
わたしもドロローサのようにはなりたくないなと思います。
わたしは彼女の絵を彼女のセンスを高く買っていますが、その集客術には懐疑的です。
彼女が、ブログよりもSNSを選んだことを残念に思っています。
https://dolorosa-reveries.blogspot.com/
またまた、こんばんは。
返信削除「裏切者」と「見捨てられた気持ち」ということについての私の勘違いについては失礼しました。
実は、コメントを送信した後で、Takeoさんのコメントを読み直して、そのことに気付いたんですが、何度も何度も書き忘ればかりで(ちょっと動画の編集作業に疲れれいるので)自分に嫌気がさしてしまって、Takeoさんからの返信があったら訂正しようと思っていました。
ただし、「見捨てられた」というTakeoさんのお気持ちはわかりますが、私の『見捨ててなんかいない』という気持ちもわかっていただきたかったということですね。
そういう意味では、上のコメントに書いたことは、そんなには変わっていません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、YouTube ですが、結果としては今のところほぼ「0」ですが、私にとってはブログや絵を描く作業よりは楽しめた気がします。
私は映画をたくさん見る方ではないので(というか、今までにたくさんやったのは「音楽を聴くこと」と「絵を描くこと」だけ)、全く考えたこともなかったんですけど、映画監督ってこういう感じのことをやってるのかな?という風に思ったんですね。
画像に合わせて、ナレーションを入れたり、そのナレーションに合わせてテロップを入れたりという作業と音楽を組み合わせたり、効果音なんかも入れていましたから、けっこう楽しいと感じる部分があったのかもしれません。
(効果音を自分で作ったりもしましたよ)
ただし、『かもしれない』というのはそれらを全部パソコンでやらなければならないからです。
パソコンで行う作業にはどうしてもなじめないので、この2~3か月の間に3回くらいはパソコンをぶち壊しそうになりました。
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ところで、TakeoさんはYouTubeでDJみたいなことをやっているチャンネルを見たことありますか?
つまり、音楽を選曲して流すだけじゃなくて、ディスク・ジョッキーみたいに自分の話しを挟んでいる人ですけど、私は、そういうチャンネルをまだ見たことがないんですね。
でも、単純に『なんでないの?』ってふと思ったんですよ。
前に、Takeoさんが、昔DJに成りたかったっていう話をしていたのを思い出してね、『なんでDJやってる人は居ないのかな?』って思ったわけですね。
私は音楽については聴く一方なんで、自分ではやる気がないんですが、『だれかDJみたいなことをやってる人が居たら見ちゃう(聞いちゃう)かもしれない』と思いましたね。
いま、YouTubeの中はかなりテレビに近い状態になってきているみたいで、見たいと思うチャンネルは少ないですが、そういうのがあったら見るかもしれないなと思いました。
もちろん、芸能人や有名な音楽評論家がやるんじゃなくて、完全に素人な人が出てきて自分とその時流している曲とのかかわりなんかの話をしていたら、見てしまうかもしれませんね。
そういうチャンネルに、少しだけ期待を持っているんですが、まだ、一度も見ていませんね。
残念ですが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
余談ですが、私は、SNSは近々衰退していくだろうと思っています。
これは前のコメントの最後の方に書いたことと重なることですが、Takeoさんは
スマホを見ながら孤独な人は考えられないと言っていましたが、私の知り合いで、まったくネットを見ない人が2人いますが、二人ともむしろ孤独感が薄いです。
私なんかも、絵を描いていることで仕方なくインターネットに依存していますが、ネットと関わればかかわる程、孤独感が増していきます。
ブログをやらなければ、自分の書く言葉がここまで人から無視されるとは思わなかったと思いますし、タンブラーでも世界中には自分の絵を見てくれる人も数十人くらい入るんじゃないか?と思ったのに、実際はそんな人がいたのかどうかすらもわからないくらいの反応しか返ってきませんでした。
YouTube も同じで、自分がYouTube を見ていた時は、私が見るようなマイナーなブルースの投稿だと時々再生回数が「0」の時があるんですが、普通はかなりマイナーなものでも数百回は再生されています。
メジャーなものだと数十万再生くらいでも、特別多い方には入らないでしょう。
そういう中で、自分が57本の動画をアップロードして、再生されたのが全部で数回だったような気がしますから、さすがに見捨てられたような孤独感を感じすにはいられませんでした。
どちらかというと、ネットと関わると孤独感が増していく気がします。
それに、孤独じゃないければネットなんか見ないような気もするんですが、どうでしょうか?
「いま」は、友達や家族が居ても孤独な時代だと思います。
なぜかと言えば、人と人が常に競争しているからだと思います。
家族の中でも競争していますし、夫婦や兄弟や友人や職場の同僚等、どの局面をとっても「競争社会」です。
一昔前までは、競争意識は今よりもはるかに薄かったような気がします。
「いま」はすべての局面ですべての人がすべての相手に対して「競争」していますから、どこでどういう競争が行われているのかすらわからなくなっていて、誰に対して競争しているのかも、その競争が何のための競争なのかも、誰にも分っていないという感じがします。
しかも、その「競争」は、すべて、「余っているもの」を奪い合う競争のようにも思えるわけで、もう「物質」や「お金」は余っているのに、奪い合っているのはいまだに「モノ」や「カネ」なんですね。
そういう状態が、人を孤独に追いやっていると思ます。
「いま」は「からだ」が生き残るには、あまりに豊かな時代であり、「こころ」が生き残るには、あまりに貧しい時代です。
私は絵を描き始めて30年以上たってから、気づいたんですが、そんな「いま」の中にあって、「心の生き残り」のための場所を作り出すために自分は絵を描くようになったのかもしれないと思うようになりました。
また、そのうちにコメントします。
それでは、また。