2022年2月2日

繰り返し 祈りのように...

 

‘Mine Own King Am I & Joel’ by Eric Vloeimans & Holland Baroque Society
 [Old, New & Blue, 2013]

*

「私たちがどれほど遠く信仰から離れ去っていようとも、話相手として神しか想定できぬ瞬間というのはあるものだ。そのとき、神以外の誰かに向かって話しかけるのは、不可能とも狂気の沙汰とも思われる。
孤独は、その極限にまで達すると、ある種の会話形式を、それ自体極限的な対話の形を求めるものである。」

― エミール・シオラン『生誕の災厄』より







1 件のコメント:

  1. Takeoさん、こんにちは。

    お久しぶりです。

    この記事にあるシオランの言葉は、孤独の「極限」ということもできますが、一方で孤独の「入口」でもあると思いますよ。

    私は、二か月ほど前からYouTube のチャンネルを始めてみたんですが、まったく誰からも相手にしてもらえません。

    最初に開設したチャンネルでは1か月以上登録者「0」で、しかも、その間、ほとんど試聴された形跡すら見えませんでした。

    その間、自分の作品と「詩のような題」、そして「音楽」を組み合わせてショートムービーのようなビデオクリップにして投稿した動画が47本、自分が芸術のことや社会について話をする動画が11本、合計で57本の動画を、一か月間かかりっきりで、動画編集の知識がない人間がなんとか動画作成して投稿したんですが、誰にも見向きもされませんでした。
    (作品の動画は2~5分、お話の動画は30~60分くらい)

    話をする動画の中で、何度もこれはいったい誰に向かって話しているのか?
    と思わざるを得ませんでしたね。

    でも、私自身は「神」と対話する気にはなれませんでした。
    私にとって、「神」とは、すぐに人を裏切る「人間」であり、気が付くとそっぽを向いている「人間」の象徴にすぎません。
    いくら偶像化されていて、理想化されていても、私にとっての「神」は「人間」の延長上にある偶像化された姿にしか思えないので、私にとって「神との対話」は「人間との対話」と同じなんです。
    (「自分との対話」は孤独を癒してはくれませんよね)


    私には、Takeoさんの高校の同級生のようなパソコンやインターネットのことを尋ねる友人は一人もいません。
    前に、知り合いに『ファックスで~』と言ったら、『あぁ、なんか飛んでいくやつね』と言われました。
    私の知り合いは大体そういう人が多いです。
    というか、私自身も、ブログを始める前は、そんな感じでしたし。

    だから、全部独学でやってみたんですが、でも、どうもダメみたいです。

    その後、新しいチャンネルを作ってやり直して、ようやく登録者が「3人」に成ったのはいいんですが、その後、また「0再生」に戻ってしまいました。

    今は、動画の投稿をストップして、どうすればいいのか考え直しているところです。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    要するに孤独というのは、自分が作り出すものだと思います。

    Takeoさんはタンブラーで1万人以上のフォロワーが居ても孤独だし、私は自分から5千人フォローして二年以上かかってやっと千人に成りましたが、その後全く増えない状態でやはり孤独です。

    Takeoさんには、理解者としてお母さんがいますが孤独です。
    私には妻がいますが、やっぱり孤独です。

    ハッキリ言って、友達が何人いても同じだと思いますよ。
    「いま」と言う時代の中には、話す相手が居ても孤独な人間がたくさんいます。

    つまり、その人が孤独なのではなく「いま」が孤独な時代なんだと思います。


    これがシオランの孤独と「いま」の孤独の違いですね。

    シオランの孤独はシオランが「選んだ孤独」なような気がしますが、「いま」の孤独は嫌が応にも「選ばされる孤独」ですね。
    もしかすると、Takeoさんは、シオランと同じ時代に生まれていても、その「孤独」を選んでいたのかもしれませんが、私は多分選んでいないと思います。
    私のような呑気な人間までも『孤独を選ばされてしまう』のが「いま」という時代ではないでしょうか?

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    それから、先日の投稿にあった、ビタさんのコメントについて一つ言わせていただけば、「大衆が要求するもの」と「大衆が本当に望んでいるもの」は全く違います。

    これは「大衆」を「誰」に置き換えても同じです。
    「自分が望んでいるもの」を知っている人は居ません。
    もちろん、人間は「自分が望んでいるもの」を要求する場合もありますが、それとは全く正反対のものを要求することもしょっちゅうありますから。

    だから、「誰かが望むもの」を提供するということは、まったく何の思想も信念も持たずに、「たまたま、そこにあったもの」を提供することとほとんど変わりません。
    「流行」とはそういうもののことです。

    要するに、記事の中のワシントン・ポストの人に欠けているのは、『自分が支持するメディアはどっちなのか?』というジャーナリストとしての姿勢であって、その人自身の意思でそのメディアを支持しているならば、それがどういうメディアであっても問題はないと思いますが、『誰それが望むものを提供する~云々』という、一見すると柔軟で受け手本位に見える反面、「核」のない主張には問題があると思います。

    「大衆が要求するもの」を提供するということは、「エンターテイメント化」するということに他なりませんが、それは、ジャーナリズムの役割ではないでしょう。

    少なくとも、権威のある立場にある人間が、そういうことを言えば、その下に居るジャーナリズム全体が、そのふやけた姿勢に従わされてしまうことに成るのは明らかであって、自分の立場をある程度でもわきまえているならば、体制に同化するような発言ではなく、むしろ大きなものに反意を唱えるというのがジャーナリストとしての姿勢であると、私は思いました。


    つまり、一言で言ってしまえば、彼の発言は、上から下に向かっての「力」を持ってしまっています。
    やはり、ジャーナリズムの持つ意味は下から上に向かう「力」となることだと思いますね。



    また、そのうちに、何かあったらお知らせします。


    とりあえず、話が通じそうな人のブログなどにコメントでも入れてみたらどうですか?
    お座成りの会話がいやならば、「神」と話すしかないですね。

    でも、「神」とでも対話が成立するなら、それはそれでいいかもしれませんよ。


    それでは、また。


    返信削除