2022年2月20日

「目に見えるということに欺かれてはならない」

 

Dance, 1931, Erika Giovanna Klien (1900 - 1959)
- Watercolor and Pencil on Cardboard -

*

"Visibility is a trap."

Michel Foucault - The Birth of the Prison, 1975

*

「目に見えるということに欺かれてはならない」

ー ミシェル・フーコー 『監獄の誕生』(1975年)



「仕事もしない、勉強もしない、子育てもしない、家事もしない、他人と関わらない、
外に出ない、何もしない、そんな人がいるとしたなら、
その者を取り巻く社会状況は悪い、と思われる。
そもそも、批判すべき「society」がない。

ゆえに、改善すべき「society」もないことになり、
よって、社会状況は極めて悪い、と思われる。」



「改善すべき社会はない」「批判すべき社会は存在しない」故に「社会状況は極めて悪い」とはどういうことだ?

いったいこの者、自分で何を言っているのかわかって書いているのか?
失笑を禁じ得ない。

何故ハッキリと言わないんだ?自分は(自分の力では動けない)障害者と、所謂(部屋に閉じこもっている・・・ようにしか「彼らには見えない」)「引きこもり」なる人種が「キライ」なのだ、と。そして「あれこれができない」人間が存在するということ自体が自分にはわからないと。

「批判されることがこわい」のか?(言っとくが障害者や引きこもりをいくら叩こうが愚弄・嘲弄しようが誰も「批判」なんかしないよ)


繰り返す。

「可視的なるものに欺かれてはならない」

「(身体が)動いている」ことと「何かを為(成)している」ということを同一視してはならない。
愚かしくも「動いていない」ということと「なにもしていない」こととを混同してはならない。



Self-portrait, from the ensemble Prague - Sunday afternoon, 1937, Zdenko Feyfar. 


ひとつ大事なことを附記しておこう。およそ人間には「目に見えない」(Invisible
「精神」というものがあるということを。そして「精神」は容易に病み、崩れるということを・・・










16 件のコメント:

  1. Takeoさん、こんにちは。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    「仕事もしない、勉強もしない、子育てもしない、家事もしない、他人と関わらない、
    外に出ない、何もしない、そんな人がいるとしたなら、
    その者を取り巻く社会状況は悪い、と思われる。
    そもそも、批判すべき「society」がない。

    ゆえに、改善すべき「society」もないことになり、
    よって、社会状況は極めて悪い、と思われる。」

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    この文章は、なかなか非論理的ですねぇ。
    (そもそも、こんな人居ないし)
    『批判すべき「society」も改善すべき「society」もない』のに、
    どうして、その存在していないはずの「society」の状況が極めて悪く成ることだけは出来るんでしょうかねぇ?
    (もしかすると「society」を「社会」にすり替えたことで意味が変わるということなんでしょうか?)

    「仕事もしない、勉強もしない、子育てもしない、家事もしない、他人と関わらない、
    外に出ない、何もしない、そんな人がいるとしたなら・・・」

    この条件に適合している「グータラ主婦(夫)」のような人が居たら、きっと呑気に暮らしている人じゃないかと思いますよ。
    私なんかも、これにけっこう近いですけどねぇ、そこそこ呑気に暮らしています。
    それでも、辛いことや苦しいこともたくさんありますけどね。

    私は、ほんとにそんな人がいるならば、「お気楽・極楽」だと思いますよ。
    (居ないけど)

    まぁ、こういうのは、一言で言って「こじつけ」ですね。
    はじめから、結論を決めていて、『こういう奴の周囲の社会的状況は悪くあるべき』という結論ありきの非論理的で強引な「こじつけ」だと思います。
    (ご本人は「正義」だと思ってるのかな?)

    上の「グータラ主婦(夫)」のような例を見ればわかるように、実際は「ダレカ」の社会的状況が良く成ったり悪く成ったりするのは、その人が「ナニ」をしたかで決まるのではなく、その人の「現在の社会」との相性で決まることだと思います。

    「現在の社会」と相性がいい人の周囲の状況は「ナニモ」していなくても良くなりますし、「現在の社会」と相性が悪い人の周囲の状況は、「ナニヲ」していても悪く成ります。
    (当たり前ですね)

    働いていても、専業主婦であっても学生であっても勉強熱心であっても出来の悪い生徒であっても、「ストレス」を受ける量は、ほとんど変わりません。
    (「多い」から「より多い」に成るだけ)

    かなり昔までは、「その時の社会」との相性が合わない人にも「生きる場所」くらいはあったと思いますが、「いま」はそう言う人が「生きる場所」を奪われています。

    じゃなきゃ、どう考えても説明できないことがたくさんありますよね。
    (「ひきこもり」や「不登校」の数があり得ないほどに成っているのに、それでも、まだ「見ないふり」を続けるんでしょうか?
    「予備軍」まで含めると明らかに想定外の数に成っていますね。)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    この前も書きましたが、そもそも『肯定すべし』という考え自体が「洗脳」や「催眠状態」を意味しています。
    だから、こういうことを言う人たちは、その件についての「思考」は出来ません。

    この文章の中に『肯定すべし』とは書いてありませんが、「仕事もしない~なにもしない~」という言葉だけでも「社会的であるべき」と言っているわけです(それとも「職業=ドロボー」は「OK]なんでしょうか?それなら話は別ですが)から、それは「現在形の社会」を『肯定すべし』と言っていることに成ります。

    「肯定」とは、基本的に「現状肯定」のことです。
    (「現在提示されている論点」=「その話の中での現状」ということですね)
    「肯定するべきナニカ」が存在しないと肯定できませんから、「肯定」は、その「存在しているナニカ」つまりは「現状」の「肯定」を意味します。
    (これは「批判」も同じで、基本的には「現状批判」を意味します)
    そして、「現状」を「肯定」するということは「無批判」を意味します。
    そして、「無批判」は「無思考」を意味します。

    少なくとも、「肯定」は「思考」を必要とはしませんが、「批判」は「思考」なくしては成り立ちません。
    「肯定」に「思考」を持ち込むためには、おそらく「批判」を経た結果としての「肯定」という過程が必要になるわけで、「批判なき肯定」に「思考」が入り込む余地はありません。

    つまり「信仰」や「絶対的な固定観念」と同じように、「無批判な肯定」というのは、「無思考」を意味しています。

    「信仰」は、その「無思考」の中に如何に「純粋性」を見つけ出すか?という試みのことだと思いますが、これは「信仰」と言えるものではありませんから、おそらく「単なるこじつけ」にすぎませんね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    この前の自分のコメントに関連性があったのでコメントしましたが、私には、気にするほどの文章だと思えませんでしたよ。

    こういう「結論ありきの文章」には、「思考の余地」がないと思いますね。

    この文章に対して、上の「可視的なるものに欺かれてはならない」という言葉は、もったいないような気がしました。

    私なら、『よかったじゃん、君は仕事とか勉強とかして楽しいんでしょ?よかった、よかった、えーと、それで、なんの話だったっけ?』と言いますね。
    その程度の話じゃないかと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    それでは、また。



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    1. こんばんは、ふたつさん。

      まったくその通りで、わざわざここで言及したり批判したりするほどのことが書かれているわけではないのです。



      >実際は「ダレカ」の社会的状況が良く成ったり悪く成ったりするのは、その人が「ナニ」をしたかで決まるのではなく、その人の「現在の社会」との相性で決まることだと思います。

      >「現在の社会」と相性がいい人の周囲の状況は「ナニモ」していなくても良くなりますし、「現在の社会」と相性が悪い人の周囲の状況は、「ナニヲ」していても悪く成ります。
      (当たり前ですね)

      まったくもって「当たり前」のことだし、すべてはふたつさんがこのコメントに書かれていることそのままで、

      >私なら、『よかったじゃん、君は仕事とか勉強とかして楽しいんでしょ?よかった、よかった、えーと、それで、なんの話だったっけ?』と言いますね。
      その程度の話じゃないかと思います。

      わたしも下らない投稿をしたと後味が良くありません。
      最初は彼(ら)の一連の「社会批判」についての投稿を眺めて、苦笑・失笑していただけなのですが、そこで止めておくべきでした。

      「反論」するも何も、向こうには「論」らしきものが無いのだから。

      深く反省後悔しています。

      いつもコメントをありがとうございます。


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    2. こんにちは, Takeo さん, ふたつさん.

      > ひとつ大事なことを附記しておこう。およそ人間には「目に見えない」(Invisible)
      > 「精神」というものがあるということを。そして「精神」は容易に病み、崩れるということを・・・

      私は昨年末から特に鬱病の症状が悪くなり, 現在も苦しい日々を過ごしています.
      その症状は慢性的な気分の落ち込み, 不安, 人が怖いという意識, そして無気力といった形で現れています.

      今日を明日に繋げることで精一杯と言っていいかも知れません.

      > 「仕事もしない、勉強もしない、子育てもしない、家事もしない、他人と関わらない、
      > 外に出ない、何もしない、そんな人がいるとしたなら、
      > その者を取り巻く社会状況は悪い、と思われる。
      > そもそも、批判すべき「society」がない。
      >
      > ゆえに、改善すべき「society」もないことになり、
      > よって、社会状況は極めて悪い、と思われる。」

      この前段のいくつかに私は当て嵌まります.
      就労不能のせいで仕事はできません. 少なくともこの 2 か月はほぼ他人とは関わっていません.
      鬱や無気力のせいで寝込むことが多く, その意味では何もしない時間が多いです.

      これは私が病んでいるためです.
      社会状況が悪いという話に直結はしないでしょう.
      強いて言えば個人の困難と社会福祉のシステムとの関連性から論じられる問題で, いきなり「状況が悪い」となるものではありません.

      「society」と特に英語表記・括弧付きで語られているということは, Takeo さんも書いているように, 私のような精神障害者のせいで, 彼らが平和に暮らしている「society」が, 社会状況が悪いと思われることで迷惑を蒙っていると読めます.

      問題は私の苦しみなのです.
      それが他者にかける迷惑のことは私にはわかりません.
      もしそのような迷惑があるとしても, それがわかったところで私にはどうしようもありません.
      迷惑と感じる側の意識の問題にまで踏み込むことはできませんから.

      精神の病は私を苦しめていますが, 同時にその精神の世界に内省することで私は自由になれるということも事実です.
      そのことが, 私を現実に結び付ける力になっていると言えます.

      この部分の動機は, あくまで私の個人的なものであって「社会」に強いられたり関わったりしているものではありません.

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    3. こんばんは、底彦さん。

      体調の優れない中、コメントをありがとうございました。



      先の投稿『「社会性」を持つことの危うさについて』で、わたしがいいたかったのは、「いま・
      こにある社会」の仕組み、その在り方に無批判になること、言い換えれば、それと「同化」することによって、問題を抱えた社会を、そのままの状態で「肯定」し、「補強」し、且つまた同時に「放置」することの危うさについてです。

      プリーモ・レーヴィが「モンスター」と呼んだのは、ヒトラー及びナチの高官、そして狂信的な党員などではなく、「いま起りつつある社会の流れに疑いを持つことなく身を投じてゆく顔のない群衆であり、マス(乃至アノニマス)」のことです。

      『「社会性」を持つことの危うさ』については、このブログで書く意図がハッキリしていましたが、今回の投稿は、正直なところあまり意味のない投稿であったと感じています。

      ただ、

      「仕事もしない、勉強もしない、子育てもしない、家事もしない、他人と関わらない、
      外に出ない、何もしない、そんな人がいるとしたなら、
      その者を取り巻く社会状況は悪い、と思われる。
      そもそも、批判すべき「society」がない。

      ゆえに、改善すべき「society」もないことになり、
      よって、社会状況は極めて悪い、と思われる。」

      と、投稿の文章に「あれをしない」「これもしない」と列挙することで、それを読んで傷ついている者がいかもしれないという、「想像力の全き欠如」に、ひとこと言いたかったのです。

      あれができ、これも出来、というのは、人間という生体にとって、「幸運」であり「僥倖」であり、更に言えば「奇蹟」のようなものであって、「動ける」「あれこれが出来る」ということは何ら本人の功績ではないということを忘れているということが腹立たしかったのです。

      いかなる理由かを問わず、世の中には「動けない」そして「動かない」人間がいるという事実を看過した議論にいちいち腹を立てている、ということに、いまは自嘲気味です。

      同時に、底彦さんご自身の中にも、「社会性を備えていないこと」に一抹の後ろめたさを感じ、「あれをしない」「これをしない」ということに対する自己譴責の気持ちが働いているのではないでしょうか?

      現実には底彦さんは「目に見える」=「きちんと診断名のついている」「精神疾患」によって、
      「しないのではない」「できないのだ!!」という(自他へ対しての)苛立ち腹立ちが、ジレンマとして胸中に渦巻いているようにわたしは感じました。

      これがわたしのまったくの見当違いの誤解でしたら、心からお詫びします。

      何らかの理由によって、「無為に見える」ことにより、誰かが不快な思いをしたとしても、それはその人の与り知らぬところです。

      人間には精神生活というものがあります。もう一度、底彦さんに「目に見えるということに欺かれてはいけない」という言葉を伝えさせてください。

      目に見える世界がすべてであると思う者に関わり、心を痛める必要はありません。

      どうか底彦さんが心穏やかな「内的生活」を送れますように。

      武雄











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    4. こんにちは, Takeo さん.

      Takeo さんに今回の投稿をさせた元の書き込みについては, 私自身もあまり近付きたくはありません.

      ただ, Takeo さんが私に関して書いたことについてコメントします.

      > 同時に、底彦さんご自身の中にも、「社会性を備えていないこと」に一抹の後ろめたさを感じ、「あれをしない」「これをしない」ということに対する自己譴責の気持ちが働いているのではないでしょうか?

      そのような後ろめたさや自己譴責からは, 現在は随分解放されたと思います.
      それは, その背後に「もっと社会に適合しろ」という周囲 ── 親や教師や他人 ── からの無自覚な忠告があり, 私がそれを私自身の気持ちであるかのように勘違いしていたと気付いたことによります.

      > 現実には底彦さんは「目に見える」=「きちんと診断名のついている」「精神疾患」によって、
      > 「しないのではない」「できないのだ!!」という(自他へ対しての)苛立ち腹立ちが、ジレンマとして胸中に渦巻いているようにわたしは感じました。

      ですから, 現在の私自身の鬱状態は, 周囲の人々を含む社会との軋轢から生じたものというよりは, 自分の内的な気質から生じているものと言ったほうがいいでしょう.
      苛立ちや腹立ちはあまりありませんね.

      それでも鬱病が苦しいことに変わりはありませんが, 自己嫌悪や自己否定の思いが薄まった分, 少しだけ楽にはなっています.

      > 人間には精神生活というものがあります。もう一度、底彦さんに「目に見えるということに欺かれてはいけない」という言葉を伝えさせてください。

      ありがとうございます.
      本当にその通りですね. 「目に見えないもの」があります.

      削除
    5. こんばんは、底彦さん。

      率直なご意見をありがとうございます。

      自分を責める気持ちや葛藤がほとんどないということはなによりだと思います。



      「あれをしないこれをしない」ということに対する自己呵責は、わたしの内面にあるものを底彦さんにこのような形で投影したのかもしれません。

      なんだかんだ言いながら「あれもしないこれもしない」障害者が、家族の世話になって、家族の「犠牲」の上に生き存らえている。そのような現実の中で「障害者の生きる権利」に対する自問は、おそらく最後まで消えることはないでしょう。

      わたしが指摘した文章を書いた者(たち)は、あからさまに「何もできないものたち」=「障害を持つ者」を差別しています。しかしわたしを含めた「できないものたち」は、「できている」「彼ら」に対しはたしてどのような反論が可能でしょうか?

      これも何度も書いたことですが、わたしの中には「なにもできない」=「誰かの犠牲の上に生きている」自分を、決して「肯定」したり「赦したり」してはいけないという意識があります。

      「目にみえないもの」「精神生活」とはいったい何でしょう?
      仮にわたしが、動かない生活をしていることに対して「精神生活」「内的生活」と美名で飾ったところで、わたしが動かない分、家族がわたしのために動いてくれているのです。

      底彦さんは「誰にも迷惑はかけていない」し「誰かの犠牲の上に生きている」のではない。

      けれどもわたしは違います。

      削除
    6. 追伸

      「ひとりで生きておらず」「誰かの犠牲の上に生きている障害者」の生存に対する否定的感情は、おそらくわたし自身の中にもあると思います。

      削除
  2. Takeoさん、底彦さん、こんばんは。

    私は、「結果として、誰かに迷惑をかけていること」が悪いことだという考え方はしていません。
    私は、「誰にも迷惑をかけずにいること」は不可能であって、誰もが誰かに迷惑をかけていると思っています。
    (というか、そう思わないことの方が不思議なくらい)

    いかなるものも、すべて「存在していること」それ自体が「誰かの迷惑」でもあり、「誰かのため」でもあります。

    そのものの「一面」だけを切り取れば、それが「誰かの迷惑」であるように見える時がありますが、それは「別の一面」を切り取ってみた場合には「誰かのため」に成っているはずです。

    言い換えるならば、「誰にも迷惑をかけずに存在すること」は不可能ですし、「誰のためにもならなずに存在すること」もまた不可能です。

    これは、決して「存在論」とかと言った大袈裟なものではなく「水が上から下に落ちる」というのと同じ「法則」のようなものだと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    前から、底彦さんに読んでもらいたかった「詩のような題」があります。
    ただ、底彦さんに喜んでもらえるという自信がありません。

    Takeoさんには、わたしの書く「詩のような題」が気に入ってもらえることもあるようなので、不作法なのを承知でこちらに書き込ませてもらっていますが、私の言葉は、よく人を傷付けてしまうことがあり、それで遠慮してしまうことが多いです。

    本当のことを言うと、ここで知り合った方たちの影響でできた「詩のような題」がたくさんあります。

    だから、もしも、底彦さんがいやな気持に成ったら忘れてください。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    『てんばつは けっして てきめんでは ない』

    てんばつ てきめんと いうのは 
    ものがたりの なかだけで
    じっさいには
    わるいことを した にんげんが 
    てんばつを うけることは ほとんど ない

    わるいことを した にんげんが
    じっさいに ばつを うけるのは 
    にんげんが つくった ほうを おかした ときだけ
    でも
    それは てんばつでは ない


    てんは
    その にんげんが あくに そまった その じてんで その にんげんを みはなして いる
    てんは
    その にんげんが くさりはてて ゆくのを ただ ぼうかん しつづける
    てんは
    その にんげんに あえて てんばつを くだす ひつようが ないことを しって いる
    だから
    そんな むだな ことは しない


    だから
    てんばつと おもうような しうちを うけて いる ひとは
    それを はじる ひつようは ない
    てんは
    まだ あなたを みはなして いない
    てんは
    まだ あなたに なにかを あたえて いる
    てんは
    いまも あなたを すくって いるの だから

    でも
    その さいはいに かんしゃ する ひつようは ない
    てんは
    むじひに みすて むじひに すくって いるだけ


    あなたが ばつを うけて いるのは
    わるいことを したからでは ない
    あなたが うけて いる ばつは
    てんが くだした ばつでは ない

    あなたが ばつを うけて いるのは
    あなたが あなたに ばつを くだしたから


    もしも あなたが
    あくに そまって いたなら
    あなたは その ばつを くだすこと なく
    とめどなく くさりはてて いくだろう

    わらい ながら



    あなたは 
    まだ あくに そまって いない
    だから
    てんに かわって じぶんに ばつを くだした


    だから あなたは 

    なき ながら



    その てんばつを うけて いる


    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    この「詩のような題」に対応する絵もあります。
    あと、音楽も合わせてあります。

    https://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=2141

    くれぐれも、いやな気持に成ったら忘れてください。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    それから、Takeoさんからの影響で生まれた「詩のような題」もたくさんあります。
    いつも、「絵」や「音楽」との組み合わせも含めて見てもらいたいと思ったりもするんですが、私は、図々しいところがある反面、極度に引っ込み思案なところがあって、素直に『見てください』と言えません。

    でも、よかったら、たまには、私のブログものぞいてみてください。

    もちろん、Takeoさんも、いやな気持にさせてしまうことがあるかもしれませんが、その部分は出来るだけ忘れてくれたらうれしいです。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~

    とにかく、底彦さんにもTakeoさんにも言いたいことは、『あなたたちが悪いんじゃない』ということ、『あなたたちは「時代」の犠牲に成っている』ということ、『あなたたちが犠牲に成らなければ、代わりに誰かが犠牲に成っている』ということ、『あなたたちの犠牲で生き延びている誰かがいる』ということ、『その誰かが誰なのかは、誰にもわからない』ということ、『その誰かが、いま、あなたたちを傷つけているかもしれない』ということ、です。


    それでは、また。

    返信削除
  3. こんばんは。

    すいません。
    昨日のコメントの中のURLが間違ってました。

    http://geijutuno20ctsousitu.blog.fc2.com/blog-entry-2141.html

    こちらが正解です。

    いつもいつも、どうも、失礼しました。


    では、また。

    返信削除
    返信
    1. こんにちは, ふたつさん.

      『てんばつは けっして てきめんでは ない』, ふたつさんの絵と合わせて興味深く受け取りました.
      きれいな絵ですね. 見ていると気持ちが落ち着きます.

      > てんは
      > むじひに みすて むじひに すくって いるだけ

      この部分と

      > あなたが ばつを うけて いるのは
      > あなたが あなたに ばつを くだしたから

      この部分が好きです.

      「てん」は, 神のような絶対者, あるいは何か大きなものとして読みましたが, それが無慈悲である ── 少なくとも無慈悲に見える ── ということは私にはとても腑に落ちる一節でした.
      そのようなものは, こちら側には全く無干渉であって, 全ては私たちの側で起きていることの結果であると考えています.

      また, 実際に以前の私は自分自身に対して罰を下していたと思います.
      自己否定や自己憎悪という形で.

      今から考えるとそれは, 私自身の内向的で慎重な気質と, 外部からの私に対する (主に否定的な) 言説とが合わさることによって引き起こされていたものでした.

      現在の私は私自身の内向性や慎重なところを愛していますが, 一般的にそのような人間は周囲から何かと否定的に言われることが多いようですね.
      内に向かったりいろいろ考えたりする性格は, 多くの他人にとっては弱さと感じられるのでしょう.
      そして弱い者は否定されます.

      苦しいですが, それほど気にすることではないのかも知れませんね.

      ありがとうございました.

      削除
    2. 再び

      >それが無慈悲である ── 少なくとも無慈悲に見える ── ということは私にはとても腑に落ちる一節でした.
      そのようなものは, こちら側には全く無干渉であって, 全ては私たちの側で起きていることの結果であると考えています.

      わたしは底彦さんが「神」という存在についてどのように考えておられるのかを知りません。
      しかし先日も書いたように、わたしにとって「神」という存在は、やはり「必要」なのです。

      >そのようなものは, こちら側には全く無干渉であって, 全ては私たちの側で起きていることの結果であると考えています.

      わたしはこのように割り切って考えることはできません。
      人間存在を超えた「より巨きなもの」を視野に入れない時、人間は容易に自らを至上至高の存在であると考えるでしょう。いま自分が健康で、あれができこれができしているのも、何か自分よりも大きな力によって支えられているのだと考えなければ、すべてが自己の裡で完結していると考えるなら、それは容易に「自己責任論」に結びつくように思います。

      神という存在は、人間が「怖れ」「畏れ」というという感情を持ち続けるために不可欠なものであると考えています。

      神・・・自分の力を超える者の存在を意識しない人間ほどおそろしい存在はありません。


      削除
    3. 追伸

      >また, 実際に以前の私は自分自身に対して罰を下していたと思います.
      自己否定や自己憎悪という形で.

      わたしの上のコメントに関連しますが、わたしはここに書かれているような自己呵責、自責、自己嫌悪の気持ちを自分自身の裡に持ち続けなければならないと思っています。



      >あなたが ばつを うけて いるのは
      あなたが あなたに ばつを くだしたから

      そうですね。

      わたしは自分を罰しなければならないでしょう。

      >あなたが ばつを うけて いるのは
      わるいことを したからでは ない

      「障害」を持つこと、「人ができることができないこと」は「わるいこと」ではないと言い切れるのでしょうか・・・

      そして

      >あなたが うけて いる ばつは
      てんが くだした ばつでは ない

      「障害者として生まれた」ことは、天の采配ではないと言い切れるのでしょうか・・・


      削除
    4. こんにちは, Takeo さん.

      > なんだかんだ言いながら「あれもしないこれもしない」障害者が、家族の世話になって、家族の「犠牲」の上に生き存らえている。そのような現実の中で「障害者の生きる権利」に対する自問は、おそらく最後まで消えることはないでしょう。

      その思いは, Takeo さんが家族に, 特にお母様に犠牲を強いているという現実から来ているのだと想像します.
      その現実の前では「全ての障害者には生きる権利がある」という言葉のいかに脆弱なことでしょうか.
      難しい問題です. 私にも答えはわかりません.
      それでも Takeo さんには「障害者の生きる権利」に対する自問を続けてほしいと思います.

      > わたしが指摘した文章を書いた者(たち)は、あからさまに「何もできないものたち」=「障害を持つ者」を差別しています。しかしわたしを含めた「できないものたち」は、「できている」「彼ら」に対しはたしてどのような反論が可能でしょうか?

      私は彼らに対して, あまり反論する必要性を感じません.
      極めて狭い視野で眺めた世界の中で「できている」に過ぎない者たちの世界に, こちらから訪れる意味があるでしょうか.
      私たち「できないものたち」ができることは, 彼らの差別を否定することだと思います.

      > 底彦さんは「誰にも迷惑はかけていない」し「誰かの犠牲の上に生きている」のではない。

      私は多くの人たちに迷惑をかけてきました.
      また, 身勝手な行動で何人かの友人・知人を踏みつけるような態度をとっています.
      現在は大分改善されたのですが, それらの過去の記憶は私にとって極めて苦しいものです.

      > けれどもわたしは違います。

      Takeo さんの生活は誰に非難されるものでもありません.
      「人に迷惑をかけて」「誰かの犠牲の上に生きていた」としてもです.
      私にとっては, Takeo さんの文章や投稿される絵画が救いになっているという点で, Takeo さんの生は尊いものに感じます.
      そのような無名の読者は多くいるのではないでしょうか.
      難しいのは Takeo さん自身の生き方が行き詰まってしまいそうな点です.
      どうにかして, そこから抜け出す道筋が見出だせればいいのですが...

      > 「ひとりで生きておらず」「誰かの犠牲の上に生きている障害者」の生存に対する否定的感情は、おそらくわたし自身の中にもあると思います。

      そのような否定的感情はおそらく私にもあります.
      その他, 多くの人たちにも.
      大切なことは, その感情を見つめて, 行動に移さないことだと思います.

      > >そのようなものは, こちら側には全く無干渉であって, 全ては私たちの側で起きていることの結果であると考えています.
      >
      > わたしはこのように割り切って考えることはできません。
      > 人間存在を超えた「より巨きなもの」を視野に入れない時、人間は容易に自らを至上至高の存在であると考えるでしょう。いま自分が健康で、あれができこれができしているのも、何か自分よりも大きな力によって支えられているのだと考えなければ、すべてが自己の裡で完結していると考えるなら、それは容易に「自己責任論」に結びつくように思います。

      Takeo さんの仰ることはもっともです.
      私も「より巨きなもの」への思いを忘れないようにしたいと思います.
      しかし, 現在の私にはそれができないのです. 全てが無味乾燥で無意味のように感じられます.
      「より巨きなもの」が潜んでいるであろう豊かな闇が消え失せてしまったようなのです.
      見えているもの, 起こっていることのみで全てを捉えてしまうのです.

      そうならないように, 内的な世界に避難をしていますが, そこも荒地のように乾き切っています.

      > >あなたが うけて いる ばつは
      > てんが くだした ばつでは ない
      >
      > 「障害者として生まれた」ことは、天の采配ではないと言い切れるのでしょうか・・・

      これも難しいですね.
      私は何らかの可能性ではないかと考えたいですが...

      まとまりのない文章になってしまいましたが, 気になったことを書きました.

      Takeo さんの心が少しでも穏やかでありますように, 祈っています.

      底彦

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    5. こんばんは。

      ちょっとだけ口を挟ませてください。
      この一連のお二人の会話を拝見していて思うことは、とにかく「彼ら」の言っていることとのギャップが激しすぎて、同一線上で語ることに意味がないような気がします。

      もしも、お二人の話として話すのであれば、「彼ら」の話とは切り離して独自の議論にした方がいいと思います。

      何度も言ってしまいますが、「彼ら」は「洗脳」されていますし、「催眠状態」の中にあります。
      そういう状態で、モノを言っている人の言葉に「偶然的な真実性」をあえて見つけ出そうとすることは、もしも、それが正しいことだったとしてもあまり意味がありません。

      『天皇陛下万歳』に真実性を見つけ出すことに意味がありますか?
      仮にあったとしても、別の話だと思いますよ。

      「彼ら」の頭の中にあるのは、「自己利益」や「自己保身」であって、それ以上の意味はありません。

      「彼ら」自身が、それを半ば認めているようなところもあるんじゃないでしょうか?

      そういう人たちの言動に、そこまで肯定的な解釈が必要だと私は思いません。

      切り離して考えた方がいいんじゃないでしょうか?


      口をはさんで申し訳ありませんでした。


      それでは。

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    6. こんばんは、底彦さん。

      わたしは人間を「溺れる者」と「救われる者」の二種類に分けて考えているようです。(いうまでもなくこれはプリーモ・レーヴィの本のタイトルです)

      ふたつさんの言葉を俟つまでもなく、完全な社会も、遺漏なき社会福祉も存在しません。
      ジョン・レノンの「イマジン」に唄われている歌詞も、結局は「虹の彼方」の世界。即ち「ユートピア」です。
      この国で「障害者の生きる権利」について語ることは、アメリカ南部で「黒人の権利」について主張するようなものだと思います。

      >「全ての障害者には生きる権利がある」という言葉のいかに脆弱なことでしょうか.

      これは正確にいえば・・・或いはわたしなりにいうならば
      「この国で、全ての障害者には生きる権利があるという言葉の、如何に脆弱なことでしょうか」
      ということになります。

      上に書いたように、古今東西を通じて、完全な社会はあったことはなく、これからも決して訪れることはないでしょう。けれども、障害を持った者にとって、「日本に生まれた不幸・不運」というものは確実にあると思っています。
      黒人としてアメリカ南部に生まれたことと同様に。



      >私は彼らに対して, あまり反論する必要性を感じません.
      極めて狭い視野で眺めた世界の中で「できている」に過ぎない者たちの世界に, こちらから訪れる意味があるでしょうか.
      私たち「できないものたち」ができることは, 彼らの差別を否定することだと思います.

      しかしそれは結局は徒労でしかないのではないでしょうか。
      底彦さんも無智な者に「鬱病なんてのは気の持ちよう」「怠けているだけ」だと言われた経験がおありでしょう。そのような者たち同様に、「外に出られない者」(所謂「引きこもり」に対し、「自分を軟禁している者たち」といって憚らないものに何を言っても無駄なことです。
      しかし、わたしは彼らの無智蒙昧を批判します。その批判がこわいから、「彼」はわたしの閲覧を阻み続けているのでしょう。そしてそのように安全地帯で批判をかわしながら、毎日のようにわたしの発言を確認しに来る。腹立たしい以前に滑稽じゃありませんか。



      >私は多くの人たちに迷惑をかけてきました.
      また, 身勝手な行動で何人かの友人・知人を踏みつけるような態度をとっています.
      現在は大分改善されたのですが, それらの過去の記憶は私にとって極めて苦しいものです.

      その苦痛は人間にとって大事なものであると思います。誰も完全ではない。誰もが人を傷つけている、またこれからもいつ人を傷つけるか分からない。だからこそ、「胸を痛める必要」があるのだと思います。自分が「人間」でありたいと願う限りは・・・
      人間の定義とは、人を傷つけたときに、己もまた痛みを感じる存在である、と言うことだと思います。



      >Takeo さんの生活は誰に非難されるものでもありません.
      「人に迷惑をかけて」「誰かの犠牲の上に生きていた」としてもです.
      私にとっては, Takeo さんの文章や投稿される絵画が救いになっているという点で, Takeo さんの生は尊いものに感じます.

      そうですか。いつもそのように言って下さる底彦さんの言葉に励まされます。

      「芸術とは所詮曳かれ者の小唄である」と言ったのは太宰だったでしょうか。

      底彦さんが、わたしを慰めるためにそう言って下さっているのか、そしてまたわたしの文章やアートに束の間でも心慰められている人がいるのか?甚だ心もとないのですが、底彦さんの親切・心遣いに感謝します。

      ありがとう・・・



      >> 「ひとりで生きておらず」「誰かの犠牲の上に生きている障害者」の生存に対する否定的感情は、おそらくわたし自身の中にもあると思います。

      >そのような否定的感情はおそらく私にもあります.
      その他, 多くの人たちにも.
      大切なことは, その感情を見つめて, 行動に移さないことだと思います.

      「犠牲」「犠牲」・・・重い障害を持つ子供を持った親が我が子を育てること、

      「犠牲」とはいったいなんでしょう・・・

      障害を持った子供の親に「犠牲」を強いているのは、或いは上述したような「社会の偏見」「無理解・無智」ではないでしょうか。



      >私も「より巨きなもの」への思いを忘れないようにしたいと思います.
      しかし, 現在の私にはそれができないのです. 全てが無味乾燥で無意味のように感じられます.
      「より巨きなもの」が潜んでいるであろう豊かな闇が消え失せてしまったようなのです.
      見えているもの, 起こっていることのみで全てを捉えてしまうのです.

      そうならないように, 内的な世界に避難をしていますが, そこも荒地のように乾き切っています.

      底彦さんの内面の枯渇が何に因るものか、わかりませんが、これはわたし自身にも言えることだと思いますが、内面の水脈は、やはり「愛情」「友情」によって齎されるものではないかと思うのです。

      この問題は底彦さんひとりの問題ではなく、わたし自身にもあてはまることなので、もぅすこし掘り下げていきましょう。

      最後に、底彦さんはわたしのこころが穏やかであるように祈ってくれています。
      勿論わたしも同様に底彦さんの心の穏やかならんことを祈ります。そしてひょっとして、
      底彦さん自身も、ご自身のために祈ってみてはいかがでしょうか。
      これは「宗教」とか「信仰」或いは「神」といった存在とは無関係にです。

      またお話しましょう。


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  4. ふたつさん、底彦さん。

    できるかどうかわかりませんが、少し方向性を変えようと思います。つまりアート、文芸などをメインにしたブログに、いつもそこに戻ろうとして失敗してしまいますが。

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