István Harasztÿ Central manegement
1935年ハンガリーに生まれた彫刻家の手に成る『セントラル・マネージメント』
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先月の投稿「納豆と世界」で、われわれは客観的な世界を感知することはできないと書いた。納豆がマズいと感じている者に、「本当は」納豆は美味しいんだよと諭すことはナンセンスであると。何故なら、彼の味覚は「納豆とはマズいもの」としか感じられないのだから。
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「我々は世界を、私たちが(今)あるようにしか捉えられない」ということが疑いを容れぬ真実であるとしても、また世界認識はそれぞれの主体・主観に依拠するとはいっても、我々は時に「倫理を重んずる人間存在」として「客観的な世界」を再認識することを求められる。
それは「歴史的事実」である。
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わたしたちは「南京」や「アウシュヴィッツ」「ヒロシマ・ナガサキ」といった厳然たる歴史的事実を(人類が共有すべき)過去の現実として認識しなければならない。
如何にそれがマズかろうと、そこには揺るぎない「本当の世界」の「歴史」が厳然として君臨しているからだ。
そのとき、わたしたちは誰も口を噤み、過去の事実の前に粛然と頭(こうべ)を垂れなければならない。
ポール・ヴァレリーは書いている
もし私が誰かを愛するにしても、私はその人を嫌うことも出来るだろうと抽象的に考えることができるし、誰かを嫌うにしても、同じ能力を持てる。
「納豆がマズい」という、自身にとって確たる事実があっても、わたしたちは、頭の中で「納豆は美味しい」と考えることができる。
それと同じように、時にわれわれはちっぽけな自己一身の主観を離れて、巨大な歴史的事実の前に額づかなければならないのではないだろうか・・・
無論それを他人に強制はできない。けれども、歴史的事実を忘れた時に、必ず同じ惨劇が繰り返されることは歴史それ自体が教えてくれているのではないだろうか?
改めていくつかの言葉を
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”The destruction of the past is perhaps the greatest of all crimes.”
ー Simone Weil
「過去の破壊。おそらくそれは最大の犯罪であろう」
ー シモーヌ・ヴェイユ
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”The past is not dead. In fact, it’s not even past.”
ー William Faulkner
「過去は喪われてはいない。実際のところ、過去は「過去」ですらないのだ」
ー ウィリアム・フォークナー
(未完)
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