2021年10月2日

書くこと、そして読まれること

 松浦寿輝『青の奇蹟』に収められている「書物あるいは世界の構造」は、わたしにとっても非常に共感できる一文である。(初出は2001年3月の『現代詩手帖』)

この六頁の評論を簡潔に要約する能力はわたしにはないが、わたしが読み取ったのは、
「文はどのような媒体で読まれるべきか?」ということだった。

冒頭に粕谷栄市、稲川方人、朝吹亮二という三人の詩人の「詩集」をはじめて手に取って読んだ時の印象が語られ、「どれもみな、わたしが愛してやまなかった美しい書物ばかりだ。」と記す。

しかし

ところで、他方、わたしはそれぞれの代表作を編んだ粕谷、稲川、朝吹三氏の「思潮社現代詩文庫」を持っていて、先に掲げた三冊の書物に収められた詩編はすべてその中で読むことができる。ところが、そう言ってしまっては身も蓋もないことながら、今、誰もが知っているあの窮屈な二段組みの「現代詩文庫」のページ面で、三人の詩人の作品を読み直してみても、どれもこれも面白くもなんともないのである。
(太字、本書では傍点)

続けて

「私は、「現代詩文庫」にはずいぶんお世話になった」という秋山駿の言葉が現代詩文庫版『稲川方人詩集』の帯に印刷されており、わたしもまた他の多くの人同様、この感慨に百パーセント共感する。それに続く秋山氏の言葉、「要するに、これが、ハンディな、詩における現代文学全集だからである」が、この文庫の意義を簡潔に語り尽していよう。この「ハンディな詩における現代文学全集」の便利で重宝なことはまことに有難く、同時代の日本の詩を愛する者、それについて何事か考えてみようとする者なら、このシリーズに「お世話」にならなかった者など一人もいないにちがいない。

確かにわたしもこの思潮社の現代詩文庫には大いにお世話になっている。わたしより約十歳年上の、詩人、松浦寿輝氏と異なり、 わたしが日本の現代詩を読むということは、即ち思潮社の「現代詩文庫」を読むことであった。

松浦氏は、現代詩文庫の意義を認めつつ、軽装版の文庫そのものは、詰まるところ、「ハンディ」な情報機器に過ぎないと言い切る。

「日本の現代の詩を読むということは、イコール「現代詩文庫」を読むことである」といったわたしもまた、松浦氏の意見と同じである。

実際、ページ面にとにかく詰め込めるだけの言葉を事務的にぎっしり詰め込んだ「現代詩文庫」で読む稲川方人の詩行など、ただみすぼらしいだけでとうてい読めたものではない。『償われた者の伝記のために』のあの細長い版型の孕んでいた目の醒めるような衝撃はいったいどこに行ったのだろうとつくづく思う。
(太字は本書では傍点)
しかしそれにしても、大した部数は印刷されなかったであろう「元の書物」が歳月の経過につれて徐々に散逸し、磨耗してゆく一方である以上、二十一世紀の詩の読者は、『世界の構造』も『償われた者の伝記のために』も『終焉の王国』も結局はこの「ハンディ」で重宝な文庫版でしか読まなくなってゆくのではないか。

このような文章に接すると、以前のブログにも書いたように、文章を「何で読むか」という問題が改めて浮上してくる。率直にいえば、わたしは自分の文章を、「スマホ」や「タブレット」で読まれることを望まない。それはわたしの文章が優れているからという意味ではまるでない。ただ、「ハンディ」な情報機器で「サクサク」と読まれるくらいなら、その程度にわたしの文章を評価しているのなら、いっそそんな「お手軽な文章」など読まずに済ました方が、たとえ5分であれ、時間の節約になるのではないか、と、思うのだ。

わたしは「スマホ」で足早に目を通しておかなければならないようなこと、駆け足で消化吸収しなければならないことなど何ひとつ書いていない。
結果として駄文の集積でしかないにしても、文章を書くということは、わたしにとって、それこそ、骨身を削る作業と同じなのだ。もしもわたしという人間の人生に少しでも「敬意」を抱いてくれるのなら、(スマホやタブレット)でわたしの文章を読むことは止めてほしい。
松浦氏は「元の書物」に印刷されている詩と、「ハンディ」な文庫版に収められた詩とは、まったく別のものであると考えている。一字一句同じであるにもかかわらず、である。
同様に、わたしが机の前にすわり、こけつまろびつしながら認めた文章と、スマホやタブレットに映し出されたわたしの文章もまた、一字一句、句読点から誤字に至るまで少しの異同もなく液晶画面に映し出されていたとしても、それはわたしの書いた「元の文章」とはまるで別物なのだ。

たしかなことは、恐らくわたし自身の詩もまた、「元の書物」で読まれることを切実に求めているという点だ。
久しぶりで現代詩文庫版の『松浦寿輝詩集』を開いてみたが、そこに収録された『ウサギのダンス』や『冬の本』をかたちづくっている言葉が、わたしの眼に何の魅力も湛えておらず、硬直した屍骸のようなものになって冷たく素っ気なく並んでいるばかりなのには、改めて唖然としたものだ。

いまから20年前に草されたこの松浦氏の文章はこう〆られている。

電子情報化時代の書物は今後徐々に、あるいは急速にペーパーレス化が進んでいくだろうが、そのことは端的に、七十年代に青春を送りつつあったわたしが熱狂したような意味での「現代詩」が着実に衰滅に向かいつつあることを意味している。わたしにとって「書物」とはそれ自体「世界の構造」を表象している何ものかのことなのだが、こうした感じ方はもうすでに十分時代遅れのものと化していよう。
ではどうしたらいいのか。アメリカ人がよくやっているようにインターネットにサイトを開いて近作の詩でも載せてみるか。谷川俊太郎氏のように、CD-ROMで全詩集を出してみるか。わたし自身はあまりにも怠惰なので、時代にふさわしく脱皮を重ねつつ流行の先端をしなやかに泳ぎ渡っていこうという意欲など、もはやかけらほども持っていない。
 (略)
ただ「書物」に「世界の構造」の雛形を透視するといったまなざしのありかたが、せめてわたしの生きている間くらいは、細々なりと、若い世代に受け継がれていってほしいと希望するのみだ。

◇ 

現在67歳の松浦氏が、この文章を著した20年後のいま、スマホを持ち、TwitterなりFacebookなりに投稿しているということは充分に考えられることだ。というよりも、もしも、彼が今もなお、「わたし自身はあまりにも怠惰なので、時代にふさわしく脱皮を重ねつつ流行の先端をしなやかに泳ぎ渡っていこうという意欲など、もはやかけらほども持っていない。
と言えるとしたら、わたしは彼に脱帽する。無論そんなことはあり得ないという前提で、わたしはそう書く。

けれども、わたしが「元の本で読まれることを切に願う」松浦氏の「詩集」を「ハンディ」で「お手軽」な「現代詩文庫」で読んだとしたら、それはやはり、松浦氏、そして松浦氏の詩(詩集)に対する「冒瀆」にあたるのだろうか?
或いはまた、詩人自らが言うように、現代詩文庫で彼の詩を読むことは、所詮屍(かばね)と化した文字列を目で追うだけの営為なのだろうか?

その答えは容易に見つかりそうにない・・・








0 件のコメント: