2021年10月25日

断想、廃滅の美

わたしはなにゆえ孤独な者、悲しむ者、悩める者、貧しき者、鞭撲たれし者、涙を流す者の中に「美」を視るのか?

何故「幸福の王子」の使者であるつばめが、彼らに「幸」を齎すことのないようにと願ってしまうのか?

「不幸せこそ美である」という美学は那辺に由来するのか?

貧しく悲しみに暮れる老女に、何故「美しき存在のままでいてください」と願ってしまうのか?

深い悲しみとは何故かくも美しいのか?


詩人石原吉郎は記す。

「隣人の平安は、とりもなおさず私自身への悪意なのだ。私は他人の平安におびえながら、今日も街を歩いている。隣人の平安のない世界。不幸なことに私は、やはりひそかにそれを求めている」

「一九五六年から一九五八年までのノートから」
世界の人間が遍く幸福であったなら、わたしはそのような世界に生きてはいられないだろう。
何故ならそこは「美」が存在し得ない世界だからだ。 

石原吉郎は決して存在論的な「美」云々のために「隣人(=他人)の平安のない世界」を望んでいるのではない。

けれどもやはりわたしは彼の心情に共鳴し、この言葉に救われている。






2 件のコメント:

  1. Takeoさん、寒くなって来ましたが、体調はどうでしょうか?
    このブログが、続けられますように。

    さて、今回の文章、大きく感銘を受けております。

    >フランクルの態度価値
    >神谷美恵子の「あなたは代わってくださったのだ」

    貧困や老い、病に「美」を見る背景として、私自身にはこのような
    感じ方、考え方があると思っております。

    病や貧困やその他様々な苦痛により、創造価値や体験価値を奪われた
    としても、その病や老い、貧困という運命を受け止め、その前で、
    いかに態度を決めるかという自由が人間に残されている。。という
    フランクルの考え方。

    そして、その病や貧困は、決して自己責任というものではなく、もしか
    したら私/我々が直面しなければならなかったものかも知れないもので、
    彼/彼女たちは私/我々に変わって、その苦痛に直面している/して
    くれている。。という神谷美恵子のような考え方。

    それ故に、私は、貧困や病に「美」を見ているのだという気もしております。

    私の解釈、感じ方、考え方を記してみました。

    では、Takeoさん。。これからも、ブログ、期待しておりますm(__)m
    (私自身のこの件に関して書いたブログ、リンクしておきました。。)

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    1. 上で

      「わたしはいったいここで何を言いたかったのだろう、と、これからも少しづつ考えてゆくつもりです。」と書きました。

      うつくしいと感じたものについて、「言いたかったこと」などありません。

      ただ、何故わたしはこの一枚の写真を美しいと感じたのか?

      この「?」を大事にしたいと思います。

      美に対する「知的な思弁」や「言葉による過剰な解説」は美への冒瀆だと感じています。

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