何故「幸福の王子」の使者であるつばめが、彼らに「幸」を齎すことのないようにと願ってしまうのか?
「不幸せこそ美である」という美学は那辺に由来するのか?
貧しく悲しみに暮れる老女に、何故「美しき存在のままでいてください」と願ってしまうのか?
深い悲しみとは何故かくも美しいのか?
詩人石原吉郎は記す。
「隣人の平安は、とりもなおさず私自身への悪意なのだ。私は他人の平安におびえながら、今日も街を歩いている。隣人の平安のない世界。不幸なことに私は、やはりひそかにそれを求めている」「一九五六年から一九五八年までのノートから」
世界の人間が遍く幸福であったなら、わたしはそのような世界に生きてはいられないだろう。
何故ならそこは「美」が存在し得ない世界だからだ。
石原吉郎は決して存在論的な「美」云々のために「隣人(=他人)の平安のない世界」を望んでいるのではない。
けれどもやはりわたしは彼の心情に共鳴し、この言葉に救われている。
Takeoさん、寒くなって来ましたが、体調はどうでしょうか?
返信削除このブログが、続けられますように。
さて、今回の文章、大きく感銘を受けております。
>フランクルの態度価値
>神谷美恵子の「あなたは代わってくださったのだ」
貧困や老い、病に「美」を見る背景として、私自身にはこのような
感じ方、考え方があると思っております。
病や貧困やその他様々な苦痛により、創造価値や体験価値を奪われた
としても、その病や老い、貧困という運命を受け止め、その前で、
いかに態度を決めるかという自由が人間に残されている。。という
フランクルの考え方。
そして、その病や貧困は、決して自己責任というものではなく、もしか
したら私/我々が直面しなければならなかったものかも知れないもので、
彼/彼女たちは私/我々に変わって、その苦痛に直面している/して
くれている。。という神谷美恵子のような考え方。
それ故に、私は、貧困や病に「美」を見ているのだという気もしております。
私の解釈、感じ方、考え方を記してみました。
では、Takeoさん。。これからも、ブログ、期待しておりますm(__)m
(私自身のこの件に関して書いたブログ、リンクしておきました。。)
上で
削除「わたしはいったいここで何を言いたかったのだろう、と、これからも少しづつ考えてゆくつもりです。」と書きました。
うつくしいと感じたものについて、「言いたかったこと」などありません。
ただ、何故わたしはこの一枚の写真を美しいと感じたのか?
この「?」を大事にしたいと思います。
美に対する「知的な思弁」や「言葉による過剰な解説」は美への冒瀆だと感じています。