2021年10月30日

「火を焚く」或いは「火」という哲学

 「灯下親しむべし」という言い方をします。(わたしの記憶が正確なら)秋の夜長に、ロウソクの灯(ともしび)の下で書物に親しむことを言います。

"By Candlelight" 「キャンドルの明かりで」というタイトルを持つこの絵は、19世紀オランダで描かれました。署名はありません。

「灯下」ならぬ「灯蛾」という言葉もあります。広辞苑によると、「灯火にあつまる蛾(火取虫)」という意味のようです。

蛾ではなくとも、ロウソクの焔はなぜこうも魅惑的に人の心を引き寄せるのでしょう。
わたしなら、ページの上の文字を追うのではなく、時のたつのも忘れていつまでもロウソクの焔(ほむら)に魅入られているかもしれません。


屋久島の詩人、山尾三省に「火を焚きなさい」という名随筆があります。
その中に書かれている同名の「火を焚きなさい」という詩をご紹介します。


火を焚きなさい

山に夕闇がせまる
子供達よ
ほら もう夜が背中まできている
火を焚きなさい
お前たちの心残りの遊びをやめて
昔の心にかえり
火を焚きなさい

風呂場には充分な薪が用意してある
よく乾いたもの 少しは湿り気のあるもの
太いもの 細いもの
よく選んで 上手に火を焚きなさい

少しくらい 煙たくたって仕方ない
がまんして しっかり火を燃やしなさい
やがて調子が出てくると
ほら お前たちの今の心のようなオレンジ色の炎が
いっしんに燃え立つだろう
そしたら じっとその火を見詰めなさい
いつのまにか ──
夜がお前達をすっぽりとつつんでいる
不思議の時
火が永遠についての物語を始めるときなのだ

それは
眠る前に母さんが読んでくれた本の中の物語じゃなく
父さんの自慢話のようじゃなく
テレビで見られるものでもない
お前たち自身が お前たち自身の眼と耳と心で聴く
お前たち自身の 不思議の物語なのだよ
注意深く ていねいに
火を焚きなさい

火がいっしんに燃え立つように
けれどもあまりぼうぼうと燃えないように

静かな気持ちで火を焚きなさい
人間は火を焚く動物だった
だから 火を焚くことができれば それでもう人間なんだ
火を焚きなさい
人間の火を焚きなさい
やがてお前たちが大きくなって 虚栄の市へと出かけて行き
必要なものと 必要でないものの見分けがつかなくなり
自分の価値を見失ってしまった時
きっとお前たちは 思い出すだろう
すっぽりと夜につつまれて
オレンジ色の神秘の炎を見詰めた日々のことを

山に夕闇がせまる
子供達よ
もう夜が背中まできている
この日はもう充分に遊んだ
遊びをやめて お前たちの仕事にとりかかりなさい
火を焚きなさい

よく乾いたもの 少し湿り気のあるもの
太いもの 細いもの
よく選んで 上手に組み立て
火を焚きなさい
火がいっしんに燃え立つようになったら
そのオレンジ色の炎の奥の
金色のお宮から聴こえてくる
お前たち自身の 昔と今と未来の物語に耳を傾けなさい


山尾は、
五右衛門風呂は世の中で一般に思われているように、民俗資料館の展示物となるべき性質のものではない。それは等身大の湯釜を通して、火に直接触れるという、人間に許された数少ない恵みのうちのひとつなのであり、なおかつ、火を焚くという哲学的行為をも恵んでくれるものなのである。

地の底から自然に湧き出す温泉につかり、地の底の熱の有難さを味わうこともすぐれた文化の型であるが、踏む度になんとも嬉しい踏み板を踏んで湯釜につかり、ぱちぱちはぜる木の燃える音を聞き、甘いような煙の匂いにつつまれて瞑目していると、文化というものは、なにも特別大仕掛けな科学万博めいたものではなくて、至極単純、素朴なものでよいことがはっきりと判るのである。

と記しています。全く同感です。
特に夜の闇の中で、薪を燃やし、火を焚くということ、その火を静かに見つめて、炎のかたる言葉に耳を傾けることが、優れて哲学的な営みであるという指摘には、一も二もなく賛同します。

嘗て「裸電球」は単なる「消費財」ではなく「文化財」であると書いたことがあります。
天井からぶら下がっている裸電球は人間の「文化」であり、「詩」でした。
公衆電話にもまた物語があり、詩がありました。

今やリモコンどころか、音声で風呂が沸き、飯が炊ける時代になりました。
人間の頭と心の退化・愚昧化・幼稚化は留まるところを知りません。


詩人の言葉が胸の奥で蘇ります


人間は火を焚く動物だった

だから 火を焚くことができれば それでもう人間なんだ

火を焚きなさい

人間の火を焚きなさい



山尾三省『縄文杉の木陰にてー屋久島通信』(1985年)









2 件のコメント:

  1. 良い詩を教えていただきました、ありがとうございます。読者の一人です。

    自分も火を炊くのが好きですが、一から薪を作るのはなかなかに大変です。
    木を伐採し、適当な長さに切り、斧で薪にし、さらに最低一年間乾かす。
    薪置き場も必要ですし、毎年切る木を選定したり貰いに行ったりしなくてはなりません。

    もちろん買えばいいだけのことですが、潔くすべてを自分でやろうとすると
    とんでもない体力勝負になります。しかし自分で作った薪で炊くストーブには
    それなりの満足感もあります。

    自分は以前こちらで使われていたトップ画像、森のなかのキャビンが好きです。
    あのキャビンに薪ストーブ入れたら最高だなと思います。

    ご自分の火をお炊きになってはいかがでしょうか?


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    1. こんばんは。

      そうですか、本格的になさっておられるのですね。
      わたしはまだ小・中学生の頃、今思えば柄にもなく、「ボーイスカウト」に入っていて、夏のキャンプでは、自分たちでテントを張り、火を燃やす枝を集めてきては飯盒でご飯を炊いていました。林の中から、燃料にする枝を探すのはたのしかったですね。「太いのや 細いのや、乾いたの、湿ったの」を抱えて戻って来て、適当なものを選んで火の中にくべます。

      文字通り一から「造り上げた」「薪」という作品で、自らの、また家族のからだを暖めるのは五右衛門風呂同様の贅沢ですね。

      「焚くほどは、風が持て来る落ち葉かな」(良寛)

      わたしは焚火の匂いが大好きなのですが、今の東京では、仮に自分の庭であっても、たき火は難しいでしょうね。

      >ご自分の火をお炊きになってはいかがでしょうか?

      斧で薪を割ることも、焚火をすることも可能ならばやりたいですね。自分の身体を自然と一体化させたいという欲求があります。

      いまのわたしが辛うじて焚くことのできる「自分の火」というのは、ここに文章を書くということです。

      こけつまろびつですが、何とか書くことを続けていきたいと思っています。

      良い週末をお過ごしください。

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