図書館で借りた2006年の『暮しの手帖』を、ぱらぱらと眺めるともなく眺めていたら、パリ在住の、作家・翻訳家という肩書をもつ飛幡祐規(とびはたゆうき)さんという方のコラム(?)が目に入った。
フランスでは、無償の教育法に先立つ1880年に、世界で初めて現場の教師に教材を選ぶ自由を保障する法律ができた。だから教科書の検定はなく、ほとんど教科書を使わない先生も多い。カリキュラムは全国一律だが、授業内容は先生によって千差万別になる。
(略)
教師の独立性が保障されているこの国では、「心のノート」のような妙な教材が、国から押し付けられる心配はない。
これを読んで驚くとともに、つくづく羨ましく思った。
こういう仕組みなら、「教師」「先生」という仕事も悪くないじゃないかとも感じた。
第一教材選びが面白くて刺激的で仕方がないだろう。
"There is a voice inside of you That whispers all day long, “I feel this is right for me, I know that this is wrong.” No teacher, preacher, parent, friend or wise man can decide What’s right for you–just listen to The voice that speaks inside."
— Shel Silverstein
こういう仕組みなら、「教師」「先生」という仕事も悪くないじゃないかとも感じた。
第一教材選びが面白くて刺激的で仕方がないだろう。
仮にわたしがこのような環境の下で教師になるなら、選ぶ教科は「国語」か「社会科」になるだろう。悪く考えれば「自分(=教師)の価値観の押し付け」という風にもとられかねないが、わたしは第一にディスカッションを重視したい。わたしの選ぶ教材は、主に映画と本、そしてアート(主に写真)ということになるだろうが、とにもかくにも生徒に観せ、読ませたものについて生徒本人はどう思い何を感じ考えたかを話してもらう。この作品のどういうところに共感し、またどういう部分に違和感を覚えたかを他の生徒たちと一緒に聞かせてもらう。
非常に非効率的な方法だが、教育とは本来効率性に背馳する。
尤もいかに自由な授業ができるとはいえ、根が狭量な上に、極めて柔軟性に欠けるわたしのような人間に仮にフランス本国であったとしても教師が務まるかどうかは甚だ怪しいが、魅力を感じることは確かだ。
教育に於いて最も大事なことは何かと訊かれれば、わたしは、とにかく教師や親を筆頭に、マスコミのコメンテーター、文化人と称される人たちがこぞって言っていることを鵜呑みにせずに、先ず自分の感覚、本能、感受性を第一の規準とすること。その上で少しでも先生や親たちの言うこと、世間が良しとしていることに違和感を感じたら、その違和感を掘り下げ追求してゆくことだと答えるだろう。
わたしが教師なら、卒業に際し、生徒たちにたくさんの「!」(=知識・情報)ではなく、より多くの「?」(=疑問・違和感)── 即ち「問題意識」── を頭と心に詰め込んで社会に出て行ってもらいたいと願うだろう。
さて、はたしてフランス的な規準に照らして、わたしに「教師としての適性」があるのかどうか・・・
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— Shel Silverstein
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