2021年10月27日

語り遺すべきこと

わたしが繰り返し「書けない」と言っているのは、思考力・集中力の低下などということ以前に、「独りであること」に因る「生の倦怠」が極限にまで達しているということに他ならないと思っている。

元々わたしは「言葉」、そして「言葉によるコミュニケーション」というものに対する根深い懐疑と不信感を抱いている。
「ボディ・アンド・ソウル」・・・他者に対して「こころとからだ」の接点を一切持たない孤独の底で、沈着冷静に、そして冷徹に「言葉を紡ぐこと」ができる方が、そもそもわたしにとっては不自然なことなのだ。

確かに、わたしにとって「書く」ということは、息を吸ったり吐いたりするのと同じように、生きてゆく上で欠かせない自律的な行為である。「読み手がいるから書く」のではなく、わたしは「わたしのために」書く。けれどもそれには、わたし自身が「世界にたった一人遺棄されし者」ではないという保証が必要なのだ。

「書くことと生きることとは同じである」・・・
けれども、「生き(てい)る」ということの意味が次第に希薄になり、「何にために生きているのか?」すら自分の中で定かではない状態では、そもそも「書くこと」の足場が不在になる。
それは喰うことと生きることが同義であり、生きることの意味が見失われた時に、喰い続ける意味もまた失われることと同じだ。

9月14日の投稿の中にこのように書いた。

わたしは多田智満子のように、「最後に残るのは本」だとも「本こそ究極のもの」だとも思わない。最後に残るのは、結局はいのちのぬくもりであると思っている。「わたし」という「個」に注がれた愛情と想いだと考えている。
「究極」という言葉を用いるなら、究極のところ本とは(ハムレットの台詞のように)「ことば」の集積に過ぎない。
「言葉」や「知」というものに根深い不信感を抱いているわたしにとって、極論すればそういうことになる。

昔よく言われた、「哲学は人を救えるか?」という問いに対しては、わたしは常に「否」の立場である。究極的に人間存在を救い得るのは、ゼニ・カネでも、クウネルトコロニスムトコロでも、先賢先哲の「ことば」でもなく、文盲の老女の無私の愛以外には無いのだ。
人の魂を救い得るのは他の魂以外にはないと固く信じている。
「本があるから私は孤独ではない」等という言葉(或いはそう言える人)と、わたしの孤独の闇の深さ冷たさとの懸隔は計り知れないほどに遠く、また深い・・・
◇ 

要するに孤独なのだ。ひとりぼっちでへこたれているのだ。

つくづく残念なことは、この国には、欧米のようなHUG & KISSの文化がないことと、人を殺めるためではなく、この世からお暇乞いをするために必要な銃を容易に手に入れることができないことだ。

1,000,000言のことばよりも、わたしはだれかにやさしく、そして力強く抱きしめてほしいのだ。

わたしは確かに「居る」という実感を得たいのだ。
わたしという鬼を、蛇(じゃ)を、抱擁し得る誰かがこの世に居るというという、「身体で感じる感覚」を得たいのだ。








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